《2022年1月通販ペーパー》 Great Heart


『違法マイクを受けて声が出なくなった為、恐縮ですが打ち合わせの延期をお願いできれば幸いです』
 するすると画面に指を走らせて担当者にメールを送る小生の顔は、恐縮とは程遠いほくほくとしたものでした。
 野良バトルに巻き込まれ、相手は殲滅したものの油断してうっかり違法マイクを食らってしまった――シブヤディビジョンを代表するチームのメンバーとしてはままある出来事でしたが、今回のマイクの効果は一定時間声が出なくなるというものでした。それを知った時の私の喜びたるや!
 原稿が煮詰まりすぎてもう逃亡しよっかなと思っていた打ち合わせを堂々と延期できると思うといっそ感謝の念が湧きましたし、それに何より、声が出ない最大の利点は〝彼〟でした。

「延期できた、幻太郎?」
 顔を覗き込み、尋ねてきたのは帝統でした。ええ勿論、と軽快な気持ちでにっこり微笑んだのは、憂鬱だった打ち合わせが延期できた事とそれから――帝統が我が家にいる悦びが顔に表れたものでした。
 声が出せないのでこたつ布団をぺらりと捲ると、察した帝統がやや躊躇った後隣に腰を落としました。一七七センチの成人男性二人が納まったこたつは、帝統の長い足がヒーターの下に伸びると案の定手狭で、ほんの僅か動けば私の足と触れ合ってもおかしくありませんでした。こんなに距離が近付くのはとても久し振りで、ますます小生の心は緩みます。
 嬉しい。本当に、こんな些細なことが嬉しくて仕方ありません。
 声が出なくて本当に良かった。喉が正常だったなら、この場面でうっかり好きと零してしまっている自信があります。最近ずっと、小生はそれが悩みの種でした。


 友人だった筈の帝統を好きになっていたのは、いつの間にかでした。本当に何のキッカケも自覚もなく、ただじわじわと彼へ抱く感情の熱だけが上がっていって、おやと胸を押さえた頃にはもう手遅れでした。
 ファミレスで乱数や私に、利息の替わりに空気椅子を迫られて困窮する様を可愛いと思ったし、夜間にヨヨギ公園へ家出してきた女子高生を説得して家へ帰す姿を恰好良いなと思ったし、小生の声が出なくなったと知ってこちらが面食らうほど取り乱して貰えた時には、好きだともう言っていました。声が出ないので口がはくはくと動いただけで終わったのは幸運だったと思います。兄の代わりでしかない今の自分には、告げてはならない言葉というものが多々あって、帝統への想いもその一つでした。
 だから、気持ちをうっかり白状してしまう心配をせずに帝統のそばにいられる現状は、ひとときの休暇のようなものでした。彼を意識してしまってぎこちない態度を取りがちだった最近のストレスを晴らすように、ここぞとばかりに甘えてみます。
(帝統、これ剥いてください)と目線で訴えながらテーブルの蜜柑を差し出せば、彼は器用に皮を剥きながら思い出話を口にしました。
「ミカンかー。手が黄色い女だっけ? ラジオやった時によくわかんねえメール読んだ気がする」
(そんな事もありましたねえ……しかし小生の前で他の女性の話とは、なんとも面白くない)
「あ! そーいやお前ら嘘吐いたよな?! 沢山反応あれば金が入ってくるって聞いて、俺すげェ張り切ってたんだぜ」
(ええ、ええ、乱数と口裏を合わせて、リスナーの反応に応じた報酬が出ると騙しましたとも。何でも信じる帝統をからかうのは私の生き甲斐ですから)
 不満を零しながらも、綺麗に剥いた蜜柑の房を渡してくる帝統はとても良い子でした。たまーにですが、母親のような目線でよしよしと頭を撫でてやりたくなる衝動に駆られる事があります。こたつ布団に潜らせていた手が、不意に藍色の髪をくしゃくしゃと撫でそうになったのを慌てて抑え、何食わぬ顔で私は蜜柑を口にしました。
「うまい?」
 頬杖を突く帝統の視線を無視してもう一房口に含む、それが何よりの答えでした。
 小生の体調を気遣い、平気だからと宥めても頑として家に居座り、些細な一挙を気に留めている。仲間としてだろうとも大事にされている実感が嬉しくて、小生のために剥かれた橙色の果実は、声の出なくなった喉をみずみずしく潤してくれます。
 ぽいぽいと口に放り込んでいると、「そんなに食ってると手ェ黄色くなるぞー、幻太郎」と帝統がからかいを投げてきましたが、験担ぎになれば偽ってばかりのこの身も、少しは貴方に好いてもらえるだろうか。
 それなら別に悪くないなと思いながら、最後の一房を呑み込んで楽しそうな帝統に微笑み返しました。



 *

 そういや同じラジオで言われたっけ。『身ぐるみ剥がされて負けるイメージがある』と。
 目の前でミカンをひょいひょいと口に入れていく幻太郎を眺めながら、俺は半蔵門のラジオ局を思い出していた。確かに負ける時もあるが、身ぐるみ剥がされるまで夢中になっちまうくらいギャンブルは楽しいモンだ。俺は賭け事で生きているギャンブラーだし、職業病っつーの? 染み付いてるんだよな、観察する事が。
「延期できた、幻太郎?」と尋ねたら、にっこにっこ嬉しそーに笑って俺に隣に居て欲しいと強請ってくる。
「手が黄色い女だっけ?」と他のヤツのことを口にすれば拗ねた顔を浮かべる。
 剥いたミカンを渡してやれば、手が不自然に彷徨って俺に触れるのを諦めた顔をする。
 声の出せない今日の幻太郎は、とにかく解りやすかった。嘘という鎧が剥がれると、目線や仕草や微かに変化する表情、そういうものからポロポロと本音が見えてきて、幻太郎が俺に向ける感情が何なのかは、直感を信じて間違いはねえだろうなと思う。
 俺、基本的には勝つ男だし。

「手ェ黄色くなってんぞ、幻太郎」
 ミカンの詰め込みすぎで膨らんだ頬を可愛いと思いながら、幻太郎の指を掴んで鼻先に寄せる。仄かに香るミカンの匂い、じわじわと赤くなる顔、うっすら黄色くなった手。
「――うん、好きだわ」
 同じ言葉を幻太郎が俺に言わねーって事は言いたくねー理由があるんだろう。それなら俺は、その意思を尊重してやりたいと思う。
 でも俺だって自分の気持ちをちょっとくらい零すのは許されるだろう。幻太郎だって、ダダ漏れなんだから。