[ まずはひと月さようなら ]


「春……ですねえ」
「おう」
 古い戸建ての縁側で、ウグイスの囀りを聞きながら並んで空を見上げているのは、シブヤ代表フリングポッセの夢野幻太郎と有栖川帝統だった。二人の肩はぴたりと隙間なくくっついており、また、手はごく自然に重なっている。
「新しい事を始めるのにこれ以上ない季節です」
「ああ、俺もそー思う」
 幻太郎の首がことりと左に傾ぐと、帝統もまた右に頭を傾ける。淡い栗毛と濃紺の髪が絡まり、二人の距離は更に縮まった。
 絡まった指ににぎにぎと力をこめたり緩めたり、数回手遊びをした後、幻太郎は深呼吸をした。
「帝統。私達、今日こそちゃんと……できるんでしょうか」
「心配すんなって! お前と俺が組めば、やってやれねーことなんかねえよ」
 目と目を合わせた二人が頷き合い、爽やかな合意が生まれた瞬間、強い風が吹いて庭の桃の花を揺らす。
 二人が繋いでいた手をようやく離したのは、それから二十分後のことだった。




 夢野幻太郎と有栖川帝統には共通の悩みがある。
「夢野先生、いらっしゃいますかあー」
 チャイムの音はとうに聞こえていた。五回目を越えた辺りで流石に出迎えなければ、と腰を上げようとしては下ろす、そんな動作を繰り返している。今日は締切でもなければ打ち合わせの予定も入っていなかったが、進捗の気になる担当編集者が不意打ちで訪ねてくるのは、ままあることだった。
 普段ならば殊勝に出迎えて、茶と菓子の一杯でもてなしつつ、口八丁手八丁で長居させずにお帰り頂いていた。たとえ原稿が順調でも逃亡したいほど不調でも、顔色も対応も決して変えない。そうすれば担当には幻太郎の本当の進捗が見抜けず、適度な安堵を得て帰社してくれるので、何かと都合が良かった。
 だから担当がやって来たら必ず出迎えなければならない。今までそうしてきた、のだが。
「……帝統、あの、そろそろ」
「んー」
 書物机に向かってせっせと執筆していた幻太郎の背中には、帝統がぴたりと張り付いていた。確か一時間ほど前からこの姿勢のままな気がする。集中していると他事が気にならなくなる幻太郎はいつからこの状態だったのかあまり理解していなかったが、取り敢えず今、帝統がものすごく邪魔なのは理解していた。
 競馬新聞を広げながら幻太郎の背中と己の背中をぴたりと寄り添わせている帝統は、チャイムの音に気付いている筈なのに退く気配がない。それどころか、担当を出迎えようと身じろぐ幻太郎を押さえ込むように、くっついた背中から有無を言わせない圧力を掛けてきた。
「小生、お客様を迎えないと」
「いーじゃん別に。居留守使えば」
「いやいや、そういう訳にはいきませんよ」
 毎回きちんと対応しているからこそ、たまに締切を仮病で延ばしても信頼を損ねずにいられるんです。だから作家として、担当は大事に扱わなければ。
 そう説明する幻太郎だったが、彼の腰もまた上がることはなく、帝統にぺったりと寄り添っていた。
「このままでいいだろ。お前ちゃんと原稿書いてるんだから、それをタントーが中断すんのおかしくねえ?」
「成る程……一理ある。おBAKAさんにしては鋭い指摘ですね」
「バカって言うんじゃねー!」
 猫が毛を逆立てるような口調ではあったが、幻太郎の背中には帝統の頭がぐりぐりと押し付けられるだけであった。まるで野良猫がお気に入りの人間に懐くような仕草に、幻太郎は口元を緩ませるだけで、そうして結局居留守を使われた担当者は、二十回目のインターホンを最後に夢野邸を後にしたのだった。




「ねえ帝統、小生気付いちゃったんですけど」
「んあ? ふぁにが?」
「ああ、もう。口に入れたまま喋るんじゃありません」
 お米ついてますよ、と帝統の唇をなぞった幻太郎は、つやつやの米粒をそのまま己の口に入れた。それを気にする素振りもなく、帝統は口いっぱいに頬張った幻太郎の手料理をきちんと咀嚼して飲み込むと、
「で、何に気付いたって?」
「ああ。えーっとですね。今日も私達、約束守れませんでしたよね……」
「………………やべえ! マジだ!」
 青い顔をして立ち上がった。
「お前よく気付いたな?」
「はい、実は小生、記録を付けることにしたんです」
「記録?」
「ええ。日記のようなものですが、一日の行動を客観的に振り返り、記録するんです。そうしたらね、帝統。見てくださいよコレ……」
 再び着席した帝統は、差し出されたノートを受け取らず、幻太郎の隣へすすすと身体を寄せた。行儀良く正座をしながらノートを覗き込む二人の距離は、ゼロだ。二の腕はぴたりと密着し、そして何故か互いの指は絡み合い、手がしっかりと繋がれている。
「えーっと。七時起床。八時執筆開始。十二時昼食。十四時帝統来る……」
 十四時帝統来る。そう読み上げた当の本人が、慌てた様子で壁の時計を見上げた。現在時刻二十時二十分。居間のちゃぶ台の上には、殆ど完食された二人分の夕飯の皿が並んでいる。
「六時間も経ってんの?!」
「ですよね。小生もビックリです」
 悲鳴に近い声を上げた帝統に、溜め息を吐いて幻太郎が賛同した。
「仕切り直しましょ、帝統。私も気を付けますから、貴方も容易にここに来てはいけませんよ」
「お、おう! 戻るわ俺! つーか今日、全然ギャンブルやってねえええ」
 すっくと立ち上がり、コートを掴んだ帝統は焦りながら玄関へと向かった。
「じゃあな、幻太郎! また来るわ!」
「ええ、待ってます」
「…………ん?」
「…………え、また?」
「だああ! 違ェわ、えーっと、暫く来ねえけど原稿あんま無理すんなよ! じゃあな!」
 無意識の発言に頭を抱えた後、帝統は幻太郎へ背中を向けた。右手で扉を開き、ようやく夢野邸を後にしようとして――失敗する。左手が何かに固定されたかのように動かず、屋外へと向けられた爪先はたたらを踏んで止まった。
 何事かと振り返ると、気まずそうな顔をした幻太郎が帝統を見つめていて。
「手が……」
「あ? ……あー、……成程……」
 声の示す場所を見ると、二人の手がしっかりと繋がれていた。
「幻太郎、離してくんねえ?」
「ええ……何で小生が。貴方が繋いできたんですから、そっちが離すべきでしょ」
「それができねえから頼んでんだろ」
「嫌ですよ。無理です、小生だってできません」
 二人がギャアギャアと押し問答をしている間も、互いの手は固く握られたままで、人体で最も器用に動かせる筈のパーツを幻太郎も帝統も完全に持て余しているようだった。
 その後口論は二十分程続き、結局帝統が幻太郎の家を出たのは、客間の柱時計が二十一時の音を告げた後だった。




「『今日も失敗しました』、と……」
 深夜二十五時。幻太郎は布団に寝転がりながら、乱数へとメッセージを送信していた。内容は定時報告だ。毎日眠る前に、その日の結果を嘘偽りなく乱数へ伝える。この日課を、もう二週間も繰り返していた。
 送信していくらも経たない内に、メッセージは既読になり、そうしてスタンプが一つ返ってくる。リボンを付けた可愛らしいうさぎのキャラクター(先日、乱数のブランドとコラボをしたらしい)が、わくわくとハートを飛ばしている画像に幻太郎は眉根を寄せた。何だか既視感を覚える。失敗しました、と言う報告も、それを楽観する乱数も、毎日繰り返されている変わらない内容だった。
 明かりを落とした暗い室内で、ぼんやりと光るスマホの画面を幻太郎はじっと見つめた。少し迷った後、『明日は成功してみせます』と意固地な返信を入力してみる。けれどもやはり、送信するのは躊躇われてしまい、結局何も返さないまま画面を閉じてしまった。成功できる自信は、白状すればあまりない。だってもう、二週間も失敗し続けていた。

 夢野幻太郎と有栖川帝統には共通の悩みがある。
 何かと問われれば、答えはとても簡単だ。「仲が良すぎる」、この一言に尽きる。
 初めのうちは悩みでも何でもなかった。むしろ友人に恵まれないまま大人になってしまった幻太郎にとっては喜ばしい事であり、賭け事以外に興味の無かった帝統にとっては新鮮で興味を引く出来事だった。乱数が縁でチームメイトになり、性格は真反対なのに妙に馬が合い、会話が弾み、共に過ごす時間が増え、互いが互いを好ましいと素直に思うようになった頃、二人はべったりと癒着していた。
 これはよろしくないのでは、と最初に我に返ったのは幻太郎の方だった。
 光熱費の引き落としが妙に高額で、食費の乱費も目立つようになり、はて……? と原因を探ったのが切っ掛けだ。帝統の影響だと直ぐに気付いたものの、嵩んだ分の出費は利息として徴収すれば良かったし、何より帝統が居るのは喜ばしいことであり、執筆にも支障は出ていなかったので、まあいいかと放置してしまった。けれども段々と互いの距離がエスカレートし、締切は守るものの出版社との遣り取りを後回しにする事が増え、放任主義の筈の乱数から「大丈夫なの?」と忠告を受けたところでようやく焦りを覚えた。これ、マズいんじゃないでしょうか、と。
 方や帝統が自覚したのは、幻太郎よりやや遅れての事だった。
 行きつけの店でパチスロを回していると、顔馴染みの老人に声を掛けられた。「よおダイちゃん、生きてたか」「ずっと見掛けなかったから、とうとうヘマしたのかーって皆噂してたぞ」と肩を叩かれ、「死ぬなら俺が貸した金、返してからにしてくれよ」と向けられた笑顔から逃走した後に気付いた。そう言えば久し振りに会ったな、と。
 毎日のように回していた台がご無沙汰だったのも、最近の記憶が幻太郎の家で過ごしているものばかりだったのも、金が無いのに寝床の心配を忘れていたのも、意識してしまえば後は芋づる式だった。幻太郎の家に入り浸りすぎている。それ自体は別に構わなかったが、その分ギャンブルをする時間が減っていた事は、帝統にとって大問題だった。
 暫く距離を置いてみないかと、そんな案が二人からごく自然と出るまで、時間は掛からなかった。それが今から二週間前の事だ。


 深夜とは思えないほど威勢の良い声が飛び込んできたのは、幻太郎が布団の中でうとうとと眠りに就こうとしていたタイミングだった。一人暮らしの筈の寝室の襖がスパンと開かれ、数時間前にも聞いた声が耳に飛び込んでくる。
「げんたろーっ! 見ろ見ろ、スッゲー勝った!!」
 眠い……と言うのが幻太郎の所感だった。重い瞼をうっすら開いてやれば、狭い視界に映ったのは上機嫌な帝統と、それから彼が抱える大きな紙袋だった。中身は見ずとも察しがつくし、別段驚くような事でもなかったので、幻太郎は睡魔を優先することにした。
「はぁいはい。明日、ゆーっくり聞いてあげますから……今夜はもう寝ましょ?」
 ね? と欠伸混じりに布団を捲り、幻太郎は帝統を手招いた。ぽんぽんと己の隣のスペースを示してやると、帝統はごくごく自然にそこへ収まってしまう。
 同じ背丈の筈なのに、幻太郎の視界には帝統のつむじしか見えなかった。藍で染めたような鮮やかな帝統の髪が、幻太郎の心臓の上に甘えるように擦り寄せられている。子が母親に抱きつくようなこの姿勢は、共寝をする時、帝統が好むものの一つだった。
 あやすように背中を撫でてやると、帝統が抱きついて来る。暫く来るなと言った事も忘れて、幻太郎は心地よい重みを感じながら安眠した。



「…………御早う御座います」
「おー……朝だな……」
 アラームを止め、ゆっくりと開かれた幻太郎の瞼が最初に捉えたのは、当然ながら帝統の姿だった。目が合い、お互いに気まずい表情を浮かべていたのはささやかな進歩と言えよう。
「何でまた来ちゃったんですか、貴方」
「俺もよくわかんねえ……」
 大勝ちしてテンション上がって、気付いたらお前の布団で寝てたんだよなあ。そう答えた帝統の顔には、自分でも訳がわかりませんと書いてある。
「まあ良いです。泊めちゃった小生も同罪ですね」
 溜め息を一つ吐き、立ち上がった幻太郎が「朝食、パンでいいですか」と問いかけたのも、帝統と同じ無意識の行動だった。この二週間、毎日失敗を繰り返している敗因はここにある。
 幻太郎も帝統も、仲が良すぎて互いの生活を浸食している状態をなんとなく♂めたほうがいいと思っているので、目の前にある誘惑を振り切れるほどの固い意志が備わっていなかった。一緒に過ごす時間の居心地の良さが身に染みているせいで、それを断ち切らなければいけないという意識がなかなか芽生えない。共に朝食を食べ、幻太郎が書物机に向かい、執筆に没頭する傍らで帝統がべったり寄り添いながら、ラジオや携帯で暇を潰す。陽が傾いた頃、賭場へのフラストレーションがピークになったところでようやく外へ出掛けるのが一連の流れだった。
『明日は成功してみせます』と乱数へ宣言しかけたことも綺麗サッパリ忘れ、幻太郎が二人分の朝食を用意しようと冷蔵庫の中を物色していると、
「俺はいーよ」
 と固い声が返ってきた。
「朝メシ食ったらそのまま長居しそうだし、止めとくわ」
「え……」
「つーかさ、俺が幻太郎の家に毎回来ちまうから、失敗してんだよなあ」
 タバコをコートのポケットに入れ、戦利品の詰まった紙袋を手に提げた帝統の声は澄んでいた。
「今度こそ暫く来ねーから、原稿あんま無理すんなよ」
 潔く言い切った帝統が両手を広げる。幻太郎は無言のまま歩み寄ると、腕の中にすっぽりと収まった。
「それ、昨日も聞きました」
「うん。つーか、一昨日もその前も、同じ事言った気がするわ、俺」
 ぽんぽんと背中を撫でる手の優しさに、酔ってしまいそうだと思った。帝統の大きな手の温かさを噛みしめるように、幻太郎は身体の力を抜く。この体温と暫しお別れかと思うと心細さを覚えたが、昨夜見た帝統の顔を思い出すと引き留める言葉を言う気にはなれなかった。大勝ちした、と喜びながら自分の元へ駆け寄る帝統を可愛いと思ったし、ギャンブルに夢中な姿を好きだとも思ったから。
「じゃあな、幻太郎」
 俺スロット行ってくるわ、と笑って出て行く帝統の表情は清々しくて、幻太郎は心にぽかりと穴が開いたような気持ちから目を逸らし、笑顔で見送ったのだった。




 桜がそろそろ満開の時期を迎える季節、乱数の事務所は珍しく閑散としていた。雑談に近い内容で訪れていた幻太郎は、のんびりとしたアトリエの空気に些か安堵しながら、応接間で乱数と互いの近況に花を咲かせていた。
「りょ〜〜。それで僕、とばっちりを受けてる訳だ」
 幻太郎の話に相槌を打ちながら、乱数の右手はスケッチブックに線を走らせ、左手は幻太郎が差し入れにと持ってきたアイスコーヒーを掴んで啜っていた。見えない脳内では恐らく別の作業を思案しているだろう。閑散期でも暇を持て余したりはしない乱数に、マルチタスクの鬼だな、と幻太郎は素直に感心した。物語を綴ることだけを連綿と繰り返す自分とは正反対だ。
「納品終わって仕事落ち着いたから、ポッセの定例会したいなーって思ってたけど、そういう事情なら暫くお預けだねえ」
「ありがとうございます。正直ここまで続くとは思っていなかったので、もう少し続けたいんですよね」
「会わなくなってもう一週間だっけ? 二人にしては頑張ってるねえ、偉いよ幻太郎〜〜っ」
 頭を撫でられそうな気配を感じ、幻太郎は乱数からすっと離れた。二人の間、応接間のソファーには人が二人座れそうな空間が生まれる。
「止めてください。小生子供じゃないので」
「あーっ贔屓だ! 帝統にはさせるクセに!」
 げんたろー酷いよぉ、と瞳を潤ませた乱数に、演技だとわかっていても幻太郎は弁解が出来なかった。観念して空いた距離を詰め直すと、乱数が満足そうに手を伸ばしてくる。
「……で、わざわざ僕の事務所まで来たのは、帝統の近況が気になるってトコかな〜」
 柔らかな胡桃色の髪を撫でる乱数の言葉に、遠慮は無かった。見透かされている事は承知の上だったので、幻太郎は素直に頷く。
「メッセくらい送ってもいいのに、二人ともヘンなとこで律儀だよねえ」
「一度でも連絡取ると駄目なんですよ。顔が見たくなるし、もしすかんぴんになってたら泊めてやらなきゃって思いますし」
(――それってさあ、次に会った時反動がヤバいやつだよね、絶対)と乱数は内心思ったが口にはしない。口を出す領分ではないと判断した上で、当たり障りのない微笑みを浮かべた。
「ママかよ〜〜。帝統クンはねえ、幻太郎がいなくても立派にやってます! 昨日教えて貰ったんだけど、久し振りにアパート借りたらしいよぉ」
「…………アパート? あのホームレスが?」
「そ。連帯保証人頼まれちゃった」
 アパート、保証人、の単語に幻太郎の挙動がぴたりと固まった。口内で噛みしめるように二つの単語を鸚鵡返した後、若葉色の瞳が頼りなげに乱数へ向けられる。
「何故、家なんて借りたんでしょうか」
「幻太郎、待って、落ち着こ。帝統は好きで野宿してる訳じゃないんだから、お金に余裕が出来たら家くらい借りるでしょ」
「家を用意したってことは、帝統はもう、小生のところには来ないつもりなんでしょうか……」
「ええ……なんでそんな豆腐メンタルなの〜。帝統だよ? 用が無くてもウザいくらい入り浸ってるあの帝統だよ??」
 じわじわと濡れだした幻太郎の瞳に、乱数は思わず怯んだ。理由は実に幼稚だったが、友人が本気でショックを受けている以上迂闊に話を流すこともできない。普段のオネーサンとは勝手の違う友人の涙に狼狽えながら、取り敢えず抱きしめて慰めていると。
 控え目なノックの音と、「飴村さん、有栖川さんがいらっしゃいました」と告げる社員の声が立て続けに聞こえ、歓迎できないタイミングで原因が顔を覗かせた。
「乱数あ、昨日はサンキューな! 御礼っつーか、昼メシ奢ってやるから一緒、に……」
 無遠慮にドアが開かれ、帝統と乱数と幻太郎、三人の目が合った。どうやらランチの誘いに来たらしい帝統は、予想していなかった幻太郎の姿にぱちぱちと目を瞬かせると。
「幻太郎じゃねーか!」
 あからさまに声のトーンが上がり、ついでに機嫌も良くなり、抱き合う乱数と幻太郎の間に割り込んでソファーに着席した。
「なんだ、オメーも来てたのかよ。じゃあ三人でメシ行くか!」
 三人で、という言葉とは裏腹に帝統の目線は幻太郎しか見ていなかった。視線どころか身体さえ幻太郎の方を向いているし、いつの間にか当然のように手まで握っている。飼い主に久し振りに会えた猫のような甘えモードに、乱数はこっそりと溜め息を吐いた。
 この空気の中でランチするのかあ、と思うとやや気持ちを持て余してしまう。二人と過ごすのは好きだが、今だけは一人でお気に入りの店に行きたい気分になったところで、思わぬ幻太郎の拒絶が入った。
「小生、行きません」
「え……何でだよ。遠慮すんなって、俺最近メッチャ調子良くてさー! 奢るから一緒いこーぜ」
「いえ、結構です。お二人でどうぞ」
「……何か用事あんの?」
 あからさまにしゅんと落胆した帝統が、縋るように幻太郎を見つめた。なんと解りやすい猫だろうか。こんなに懐かれちゃったら幻太郎も折れるだろうなあと、乱数が呑気に想像したところで、応接間に響いたのは冷たい声だった。
「貴方と一緒に居たくないだけですよ、帝統」



  ◇


 書物机に突っ伏していた幻太郎が目を覚ましたのは、陽も沈み室内が薄暗くなった頃合いだった。風通しに開けていた窓からは、冷えた風と一緒に近所の夕餉の支度が香って来る。机の上に散らばった原稿用紙は、ほとんど白紙だった。最近どうにも調子が悪い。
 のそりと起き上がり、台所に向かった幻太郎は冷蔵庫の中身を確認して溜め息を吐いた。自炊しようにも肝心の材料が入っていない。少し前までは常に食材に溢れていた冷蔵庫も、一人になってしまえばこの有様だった。
 ――寂しい、と思う。けれど乱数に言わせれば、これは自分で撒いた種だった。
 久し振りに会えた帝統に冷たく当たってから十日が経っていた。一緒に居たくないと告げた時の帝統の顔を、幻太郎は毎日思い出しては後悔している。突き放すような物言いになってしまったのは、家を借りた帝統への細やかな反抗のようなものだった。
 あの言い方はメッだよ、と乱数には窘められた。幻太郎が拗ねてるのは僕には解ったけど、何も知らないのに突然突き放された帝統は可哀想でしょ、と叱る言葉を素直に受け入れる。久し振りに会えた帝統は、自分の顔を見て嬉しそうに笑ってくれたというのに、それを曇らせるようなことを言ってしまった。
 一緒に居たくないなんて一度も思ったことはない。ただ、帝統が家を借りたのはもしかして自分から離れるためなんじゃないかと不安になり、意地を張ってしまったのだ。
 拒絶すれば少しは慌ててくれるんじゃないかと思っていた。そんな事言うなよって、困った顔で擦り寄ってきてくれたなら、冗談ですよと笑うつもりだったのに。
「わかった。じゃあメシはまた今度な!」
 清々しいくらいにあっさりと、帝統は幻太郎の意地を受け入れてしまった。
 結果、帝統にとっての自分はその程度だったんだろうかと不安を募らせてしまい、執筆も日常生活も燻った日々を送る羽目になっている。賭博の絡まない帝統は基本的に素直な男であったので、幻太郎の言葉を鵜呑みにしたのか、この十日間一度も顔を見せることはしなかった。電話もメッセージも勿論寄越さない。幻太郎の我慢は限界を迎えつつあった。
 何でもいいから口実が欲しい。庭に油田が湧いたので浸かりに来ませんかとか、スーパーで買った卵から新種の恐竜が生まれたので一緒に育てましょうとか、何か……何でもいい、帝統に会えるのなら、いっそ素直に白状してしまおうか。貴方に会いたいですって言ったら、今度はどんな反応をするんでしょう。
 台所に突っ立ったままそんな事を懊悩していたら、不意に玄関のチャイムが鳴り、幻太郎は肩を震わせた。図ったようなタイミングの来訪者に、まさかと都合の良い考えが過ぎる。狭い一軒家の廊下を、足をもつれさせながら玄関へと向かうと、扉を開いた瞬間「ギャア」と甲高い悲鳴が飛び込んできた。
「ゆっ、ゆ、夢野先生」
 爪先から頭頂部まで丹念に確認したが――幻太郎の目の前に立っているのは、来月締切を控えている出版社の社員だった。思わず二度見をしたものの、小太りで眼鏡を掛けた自分より背の低い男に、どこをどう見ても有栖川帝統の要素は無い。
「あの、突然お邪魔して申し訳ありません。食事の支度をされてたんですね……」
 目線をやや下に向けた担当者は、幻太郎の右手に握られた包丁を見つめていた。そう言えば夕飯を作ろうとしていたのだったと、他人事のように思い出す。
「これはお見苦しいところを。筆が乗っていたので、手早く夕食を済ませようと思いまして」
 差し障りの無い笑顔を浮かべると、担当者の口元が解りやすく綻ぶ。
「そうでしたか。最近お会いできていなかったので、打ち合わせができればと思ったのですが、また日を改めますね」
 明後日にいつもの喫茶店でいかがでしょう、とにこやかにアポイントを押さえてきた担当者に、幻太郎の内心は穏やかではない。帝統に現を抜かしていたせいで、進捗ははかばかしくないのだ。
 けれどそんなことは口が裂けても言えないので、
「ええ、構いませんよ。忌憚の無い感想をお願い致します」
 などと、感想を問えるほど埋まっていない原稿は棚に上げ、調子の良い返事をしたのだった。





 ガチャーンドゥルルル……と景気のいい音を右から左に聞き流しながら、帝統は煙草に火を点けた。最後の一本だったので、空になった箱を握り潰し銀玉の詰まったケースの上に投げ捨てる。出玉の良さとは裏腹に、帝統は浮かない顔をしていた。最近ずっと頭にこびり付いて離れない言葉を、今も思い出している。

 ――貴方と一緒に居たくないだけですよ、帝統。
 ――暫く会わないと決めたでしょ。一緒に食事なんて出来る訳ないじゃないですか。

 あの日乱数の事務所で幻太郎から告げられた時は、それもそうだな、幻太郎はきちんと考えてて偉いなーとすとんと納得していた。だからこそあの時帝統は、食い下がる事はせず素直に頷いていた。
「わかった。じゃあメシはまた今度な!」
 幻太郎を一人残して乱数と食事に行く気にはなれないので、諦めて帰った。もう少し顔を見ていたい気持ちはあったが、別れがたくなりそうだったので潔く乱数の事務所を後にして――そこまでは平気だったのだ。
 懐に余裕があったので、一人で適当な店に入り、適当にメニューを注文し、出された食事を平らげた所で、帝統は徐々に胸が苦しくなり始めた事に気付いた。腹は満たされた筈なのにどうにも気力が湧かない。食い過ぎたかな、と首を傾げたところで、幻太郎に言われた「一緒に居たくない」という言葉がもう一度頭を過ぎり、不意に身体中の力が抜けるのを感じた。
 机に突っ伏しながら、何だコレ、と不安になる。胸の中がもやもやと渦巻いて、訳もわからず無性に悲しさがこみ上げてきている。帝統は全く自覚していなかったが、幻太郎の言葉に時間差でショックを受けていた。拒絶された事実を脳が処理しきれずにいるらしい。
 言葉は刃、と歌った山田一郎のリリックを体感しながら、帝統はその日から訳のわからない胸の痛みを抱え続けているのだった。

 景気よく排出されていた出玉が止まり、次の万札を入れようかというタイミングで、帝統はふと携帯を取り出し、時間を確認した。時刻は十三時を少し過ぎている。
 昼のピークが終わり、もうすぐ喫茶店が暇になる頃合いなのを確かめると、帝統の胸はそわそわと落ち着かなくなった。今日こそいるかもしれないと、この十日間無駄に抱き続けた期待が膨らむ。帝統にとって通い慣れたパチ屋の一角には、幻太郎にとっても行きつけの喫茶店があった。
 幻太郎は客足の減る時間帯に居ることが多いので、来るとしたらあと三十分というところだろうか。時間になったら覗いてみようと、逸る気持ちを押さえながら再び万札を挿入しハンドルを回し始めると、空いていた隣の台に座った男に声を掛けられた。振り向いた帝統は、顔を顰めてやや後悔する。
「ダイちゃん、大当たりじゃねーかァ」
「よー、おっちゃん……、久し振り」
 頭にパッと浮かんだのは万札だった。ええとおっちゃんからは幾ら借りてたんだっけ、と記憶を漁るが、帝統はひとつひとつ律儀に覚えているようなタイプではない。借りた時の感謝は一応忘れないので、返す時は相手が提示した金額と自分の感覚を天秤に掛け、まあそんくらいの額かもな、と適当に渡していた。彼に金を貸す人間が一定数いるのは、雑でゆるい勘定を好まれているのかもしれない。
 金を持っている時は大概返済を迫られるので、知り合いには会いたくねーんだよなあと顔を合わせたことを悔やんだが、意外にも男は返済を迫らなかった。代わりに、金以上に触れられたくなかった話題を持ち出される。
「最近調子良いって聞いてたが、お前、家できたんだって?」
「あー……。まあ、たまにはな」
「いつまで持つか仲間内で賭けてっから、なるべく早めに追い出されてくれよォ」
 無遠慮に帝統の肩を叩いて、男はあっさりと席を立った。ただの雑談で終わった事に安堵しながら、帝統はふと思い出す。そーいや俺、家借りてたんだっけ、と。
 幻太郎と会うのを止めてから、馬券は当たり、スロットは目が揃い、パチンコはドル箱タワーが連続している。金に困っていなかったので適当なホテルやネットカフェばかり使っていたから、家と言われてもどこにあったっけという程度の認識しか帝統にはなかった。アパートを借りた理由は幻太郎を安心させる為だったので、会わなくなった今となっては持て余してしまうのも仕方の無いことに思える。
 記憶の中の、ほんの二週間ほど前まで自宅のように入り浸っていた幻太郎の家を思い出す。毎日毎日飽きもせずコツコツと、机に向かって原稿用紙を埋める幻太郎に、帝統もまた、毎日毎日飽きもせずべったりと寄り添っていた。
 どう考えても仕事の邪魔だろうに、頃合いを見計らっては食事や風呂を気遣ってくる幻太郎の優しさが、帝統は好きだった。こまごまと面倒を見られていると、ああ俺はコイツに好かれているんだなと嬉しくなる。言葉に出したことはなかったけれど、帝統はいつだって大事にされていることを感謝していた。
 だからこそ家を借りたのだ。距離を置こうという話が出た時、真っ先に懸念したのは、もしも素寒貧になった時幻太郎を頼らずにいられるだろうかという点だった。これに関しては、例え帝統が我慢できたとしても幻太郎が帝統を放っておけない可能性も高い。あいつ心配性だからなー、と案じた帝統の、彼なりの幻太郎への気遣いの結果が、全く活用されていないアパートだった。
 そんな風に思考が再び幻太郎へ及んだところで、帝統は席を立った。ごちゃごちゃと頭の中だけで思案するのは性に合わない。幻太郎のことがどうにも気になってしまうので、取り敢えず喫茶店へ向かうことにして――目にした光景に、それから数日間、思い悩む羽目になるのだった。



 ◇


 まただ、と幻太郎は身構えた。
 日課の人間観察を終え、夕食前に帰宅すると、玄関に見慣れぬ袋が置いてある。咄嗟に左右を見回したものの、大通りから離れた住宅地はひっそり静まり返っていて怪しい人影は無かった。
 幻太郎は成人男性、しかもここシブヤを代表するフリングポッセのメンバーなので身の危険はあまり感じていないが、じわじわと浸食されるような薄気味の悪さを流石に覚える。差出人不明の贈り物が毎日届くようになって、今日で五日目だった。
 家に入らない訳にもいかないので、恐る恐る手を伸ばす。袋自体はどこにでもあるコンビニのもので、幻太郎の家の最寄りのコンビニと同じロゴが印字されていた。目を薄めながら中身をそうっと覗くと、袋いっぱいに大量の……これも大変よく見慣れた、全国共通のカードが入っていた。

『図書カードぉ?』
「そうです……どうしましょう、乱数」
 台所で所在なげにウロウロと歩き回りながら、幻太郎は縋るような気持ちで乱数に電話を掛けていた。
『使えばいいじゃん』
「金券はNGにしてるんですよ。貢がれて妙な執着持たれたら困りますし」
『じゃあ売っちゃえ売っちゃえ〜〜』
「ええ……バレたら恨まれそうで怖いじゃないですか……。こういうの届くの、今日で五日目なんですよ。小生、どこかで監視されてるかもしれません」
『えっコワ……それ包丁持ったオネーサンがその内立ってるパターンじゃん』
「や、や、やめてください。小生怪談はニガテなんです!」
 そもそも貴方と違って遊び歩いてませんから、と否定すれば電話口の乱数は笑っていた。
「読者の方でしたら贈り物は出版社宛に出してくださいますし、自宅に届く……しかも玄関に直接置かれているのが不気味なんですよね。連日シブヤに出てこれるのなら、フリングポッセのファンの方かなとも思うんですが」
 乱数の処にも何か届いていないか幻太郎は問うが、首を振った答えが返ってきただけだった。
『帝統にも聞いてみたら? 今アパート借りてるんでしょ。そっちにもヘンなの来てるかもよ』
 さらりと出された提案に、幻太郎は一瞬言葉に詰まった。音信不通が今も続いていることを乱数は知っている筈なのに、何故、と言い淀んでいると、通話の向こうで大人びた声がする。
『もうすぐ幻太郎の誕生日じゃん』
「え……、はあ」
『会わなくなって一ヶ月くらい経つでしょ。そろそろ良いんじゃないって僕は思うよ。三人でさあ、げんたろーの誕生日お祝いしたいな』
 明るくねだる乱数は、まるで幻太郎の背中を押しているようだった。




 夕暮れ時のシブヤの住宅街、窓ガラスにピタリと張り付いて室内の様子を伺う帝統は、端から見れば完全に不審者だった。場所が塀のある一軒家の庭だからよかったものの、これが路上に面していたなら今頃とっくに通報されている。
 パチンコで鍛えたお陰で帝統の耳は人の声を拾うのが得意だったが、きっちり施錠されカーテンまで降りているので残念かな、幻太郎の声は聞き取れなかった。家に入ったところは見届けているので、いっそ玄関から堂々と訪ねればいいだけなのだが、インターホンを押す勇気がどうにも出ない。
 今思い返せば、初日でしくじったのがまずかった。手土産を持ち思い切って幻太郎を訪ねたものの、留守にしていたので、出直すことにした。ただ手土産が食べ物だったので、日を跨ぐのもどうかと思い、そのまま玄関に置いてきてしまった。
 翌日再び帝統が訪ねると、幻太郎はまた留守にしていた。タイミング悪ィな、と思いながら、持って帰るのも面倒だったのでまた玄関に置いてきてしまった。それを四日繰り返し、五日目の今日、在宅の気配がないのを察して手土産を玄関に置いたところで、道路の角から幻太郎が戻ってくるのに気が付いた。そうして帝統は――何故か慌てて、庭へ隠れてしまった。
 ギャンブルをしている訳でもないのに鼓動が早くなる。緊張しているのだ、と自覚するとますます声は掛けにくくなった。帰宅した幻太郎を物陰からそっと伺うと、玄関の手土産に気付いた瞬間明らかに動揺した姿に、帝統はえ、と狼狽えた。
 恐る恐るといった様子で、指で袋を摘まみながら室内に入る幻太郎に声を掛けるタイミングなどなかった。不審物を持て余しているような挙動に、急に不安が押し寄せてくる。連日の手土産は幻太郎の好物だったり役に立ちそうなものばかりで、帝統なりに考えた品々であった。それをまさか、あんな風に怪訝な顔で扱われていたとは。
 一言自分の名前をメモしておけば済む話ではあったのだが、そこに気の回らない帝統は完全に怯んでしまった。もしも今、全て自分の手土産だったと伝えたならば、迷惑なので持って帰ってくださいと言われるかもしれない。あの時と同じような、拒絶した表情で。
 そんな風に悪い方向へ想像を働かせてしまい、庭に潜んだまま身動きが取れずにいると、携帯がけたたましく鳴り帝統は飛び上がった。慌てて切ろうとコートの中を弄っている間に、先程まで耳を寄せていた窓のカーテンが開き、鍵が開く。
 振り返ると、目を丸くしてこちらを見つめている幻太郎と目が合ってしまった。幻太郎が握っていた携帯に触れると、帝統の着信音はぴたりと止んだ。
「よ、よお……」
「空き巣と痴漢、どっちで通報されたいです?」
「お、お前なあ!」
「それとも食い逃げ? 無銭宿泊?」
 涼しげに笑う幻太郎はまるで普段と変わらない様子だった。いつも通りあしらわれているのを感じ、帝統はややムキになる。緊張していた自分は何だったんだと気が緩んだところで、
「それとも…………会いに来てくれたんですか?」
 声が震えている気がしたのは、帝統の都合の良い勘違いかもしれなかった。上がっていきますか、と呟いた幻太郎は、顔を伏せているので表情が見えない。
 ごくりと息を呑みながら、入ってもいいかと緊張した面持ちで答えた帝統を、幻太郎は無言で迎え入れた。


「粗茶ですが」
「嫌味かよ、お前」
 ちゃぶ台に出された玉露は、帝統が三日目に差し入れたものだった。買った時の値段を思い出し思わずツッコミを入れると、深い深い溜め息が返ってくる。
「帝統ちゃん、自分の物には名前を書きましょうって、ママ教えたでしょう?」
「それは悪かったけどよー」
「次からは手ぶらで来てください。気を遣われると逆に怖いです」
「失礼な奴だな、お前……」
 先程まで指で恐る恐る摘まんでいた袋は、今は幻太郎の書物机の上に丁寧に置かれている。執筆をする場所に余計な物を置かない事を知っている帝統は、自分が無造作に用意したコンビニの袋が、原稿用紙の隣に並んでいる光景を落ち着かない様子で眺めた。
 全て自分が置いた物だと白状した時の幻太郎を思い出す。危うく捨てるところだったじゃないですかと怒った幻太郎は、自分の言動の素直さに気付いていない。大事にされていることを悟った帝統は僅かに自信を取り戻し、思い切って口を開いた。
「あのさあ、俺、明日も来ていい?」
「えっ」
「や、用事あるなら別にいいんだけど!」
 困惑した反応に、早まったかと帝統は思わず後悔する。けれど幻太郎が続けた言葉は予想外のものだった。
「泊まっていかないんですか……?」
 頼りなさそうに指で湯飲みを擦りながら、幻太郎は帝統以上に不安な顔を浮かべていた。けれど帝統は些細な動作に気付かない。
「心配すんなって。俺、家借りたから、お前のところに泊まる必要ねえよ」
「そ、ですか……」
「それよりさ、明日がダメなら明後日……」
「明日も明後日も無理です。小生、打ち合わせが詰まってますので」
 そわそわと次の約束を取り付けたがる帝統を、幻太郎はきっぱりと拒絶した。泊まる必要がないと言われ、悲しいやら寂しいやらで思わず意地を張ってしまう。本当は会える口実が欲しいと思っているのに、素直とは程遠い性格は本人の意志に反して嘘を吐いてしまった。
 ああまた余計な事を、と言った傍から後悔していると、
「打ち合わせって、喫茶店にいた男か?」
「は……?」
 不意に手首を強い力で捕まれた。
「この間も会ってたじゃん。何でそんなしょっちゅう会ってんの」
 眉間に皺を寄せた帝統が問うと、握られた手首がいっそう痛んだ。咄嗟に記憶をさらった幻太郎は、五日前に一人会っていた事を思い出す。確かうっかり包丁を持ったまま出迎えてしまった担当で、白紙の原稿を何とか徹夜で埋めての打ち合わせだった気がする。苦い記憶に顔を顰めながら、はたと疑問が生まれた。
「何で知ってるんですか?」
「エッ」
「小生の予定なんて、貴方知らない筈ですよね?」
 この一ヶ月間、殆ど顔も会わせずメッセージの遣り取りもなかった。幻太郎は帝統がどう過ごしていたのか乱数に尋ねる以外知る由もなかったし、帝統もそれは同じ筈。それなのにどうして、と無言で訴えると、きょろきょろと視線を怪しく彷徨わせた帝統が、観念したようにぼそりと白状した。
「……見てたんだよ」
「そうですか。まあ、あの店は貴方の賭場に近いですからね。偶然会うことも――」
「や、違え。げんたろー居ねえかなって思って、店まで行った」
 帝統の素直さに、今度は幻太郎がそわそわと落ち着かなくなった。打ち合わせが終わった後、帝統がいないかと周辺を暫くうろうろしていたのは幻太郎も同じだ。
「こ、声を掛けてくだされば良かったのに」
「だってお前言ったじゃん。俺と一緒にいたくないって」
「え……ええ……?」
 頭を垂れる帝統に、幻太郎の胸は激しく高鳴った。きゅんきゅんと甘い音が心臓を飛び出て身体のすみずみに響いている気がする。
 確かに言った。一緒に居たくないと、帝統の反応を見たくてわざと心にもないことを言った記憶はある。まさかそれを帝統が律儀に覚えていて、気にしているとは思いもしなかったが。
「それにお前、楽しそうだったし」
「ハァ?」
「タントーから何か貰ってたじゃん。プレゼントっぽいの。で、すげえ嬉しそうに笑ってた」
「えぇー……」
 徹夜明けで内心苛々していた自分の、一体どこをどう見ればそんな誤解が生まれるのかと問いたい。が、帝統は幻太郎が楽しそうだったと真剣に思っているようで、幻太郎は再び記憶をさらった。
 プレゼントって何だと首を捻る。あの日は原稿の展開と締切の調整について意見を交わし、早々に打ち合わせを終わらせて担当とは別れた。別れたのだが……そう言えば、編集部に溜まっていた読者からの手紙を貰いはした。
「そうですね。あれはとても嬉しいものでした」
 合点のいった幻太郎が素直に頷くと、帝統の顔が曇る。
「何貰ったんだよ」
「それは秘密で〜す」
 読者の手紙に一喜一憂している己など、恥ずかしくて知られたくない。煙に巻こうとすると、拗ねた声で帝統は幻太郎の両手を握った。
「俺のと……どっちが良かった?」
 ぎゅうと手のひらを握られ、幻太郎は困惑した。質問の意図がわからず狼狽えていると、ふと視界にコンビニの袋が見える。原稿用紙の隣に置いた、帝統から貰った品々と、突然の質問がかちりと音を立てて一致した。もしかして。これは。
「貴方、妬いてるんですか?」
「は? 焼くって何を?」
 目を瞬かせる帝統は自覚していないようだったが、その瞬間、幻太郎の顔はぶわりと赤くなった。向けられた好意に気付いてしまえば、帝統が家を借りたことへの不安など呆気なく霧散し、ただただ胸が躍る。
「なあ、何貰ったんだよ……」
「それより帝統。今日は泊まっていきませんか?」
 未だ不安そうに幻太郎の顔色を伺う帝統の手を、幻太郎はやさしく握り返した。帝統の心情が手に取るように解ってしまい、可愛いなと思う。それから、嬉しいとも。
「久し振りに会ったので、もう少し貴方といたいです」
 指を絡めてきゅうっと握ってやると、帝統の顔はわかりやすく綻び、返ってきた返事は予想通りのものだった。



 こんな筈ではなかった、と幻太郎は狼狽えていた。
 浴槽に浸かりながら湯気の煙る浴室の天井を見上げ、深く息を吸い、吐く。ともすれば逆上せそうな思考を深呼吸で振り払い、頭の中で締切のことを考える。そうすれば多少は冷静になれたのだが、
「だいじょぶかー、幻太郎。のぼせた?」
 背中越しに掛けられた声に、締切は宙を舞い何処かへ飛び去ってしまった。イエ、ダイジョウブです、と片言で返すのが精一杯の幻太郎は内心全く無事ではない。
(何故。一緒に。風呂に??)
 長風呂とは違う理由で耳まで赤く染めながら、浴室に入ってから三桁は繰り返した疑問を再び抱いた。
 泊まりませんか、と幻太郎に誘われてからの帝統はずっと上機嫌だった。夕餉を取り、茶碗を洗い、雑談を交わしている間、ずっとにこにこと笑顔を絶やさない。幻太郎も幻太郎でひと月ぶりの帝統に舞い上がっており、頭のねじが緩んでしまっていた。
 離れていた時間を埋めたいのか、今日の帝統はひどく甘えたがった。幻太郎が台所へ立てば後を追いかけ、食事の最中は幻太郎に視線を固定し、会話の最中はずっと手を離さない。以前からそういう傾向はあったが、一旦距離を置いた事で悪化している気がした。が、幻太郎はねじが緩んでいるのでそこに頓着しない。懐かれれば懐かれるほど嬉しくなり、見つめられれば見つめ返したし、手を取られれば自ずから指を絡め、帝統の要求を全て満たしてやった。「一緒に風呂入ろうぜ」と言われた時も、一瞬あれ? と思いはしたが、帝統は常に早風呂だったし、裸の付き合いとやらへの憧れも多少あったので、まあいいかと深く考えずに、はいはいと安請け合いをした。
 その結果、丁寧に身体を磨かれ、きっちり湯を張った浴槽に、男二人で密着しながら長風呂をしている。
 背中からは機嫌の良い鼻歌が聞こえているが、幻太郎は困惑していた。普段はのんびりと足を伸ばす浴槽に身体を丸めて浸かりながら、帝統の足にがっちりと固定されている。烏の行水の筈の男は湯から出る気配もなく、楽しそうに幻太郎の濡れた髪をいじり始めた。
「っっ……」
 悲鳴が上がりそうになり、幻太郎は咄嗟に息を飲み込んだ。帝統の指が髪からうなじへと移動して、肌の上をさわさわと撫でられている。
「へー、こんなとこにホクロあったんだな」
「そ……そういうの、いいですから」
「幻太郎って肌白いから、ちっせーホクロでも結構目立つのな」
 戸惑っている反応などお構いなしに、帝統は小さな発見を楽しんでいた。肌を遠慮無しに触る手に悲鳴を上げたい気持ちになりながら、幻太郎は必死の思いで言葉を紡ぐ。
「だ、帝統、そろそろ上がりませんか?」
 身体を屈めて逃れようとしたが、がっちりと絡められた帝統の足は緩まなかった。幻太郎の提案に僅かに眉を顰め、「もーちょっといいじゃん」などど悠長に入浴を、というよりも幻太郎との接触を楽しんでいる。
「あの、帝統、長風呂は身体によくありませんし」
「んー」
「小生、そろそろのぼせそうなので……」
「じゃーあと百数えたらな」
 背中をつつっと撫でられ、幻太郎の肩が跳ねた。実は少し前から、帝統に触れられる度に身体が生理現象を起こしそうになっている。股を隠すべきか帝統を押しのけて無理矢理風呂を出るべきか、早急に決めなければまずい。
 帝統の間延びしたカウントが十七を告げた時、百まで待てない事を悟った幻太郎は浴槽の縁に手を掛けた。身体を起こしかけたところで、しかし帝統に呆気なく引き寄せられ浴槽に大きな波がうねる。「まだはえーよ」などと呑気に言われ、切実な幻太郎はぷつりとキレた。
「長風呂はお一人でどうぞ! 小生、貴方とは入ってられません」
 振り返りながら怒鳴って――幻太郎は直ぐに後悔した。目を丸く見開いた帝統の顔がくしゃりと歪み、困ったように眉が下がっている。
「幻太郎、俺といるの嫌になった?」
「いえっ、あの、そういう訳では……」
「一ヶ月前はこんくらいフツーだったじゃんか……」
 しおしおと呟かれると返す言葉がなかった。今の状況を嫌がっているのではない、ただ身体が誤作動を起こしかけているのだ。同じ男なのだから解って欲しいと思う幻太郎だったが、帝統には遠回しな訴えは通じなかった。
 そう、嫌ではないのだ。べったりと寄せられる体温にはむしろ安心すら覚えていて、ひと月前と変わらない仕草を恋しいと思う。ただ、場所が場所なのでくっつかれるとどうしても素肌での触れ合いになってしまう。それには慣れていない幻太郎は、
「緊張してるんです……」
 とちいさく答えた。
 口に出すと自分でも合点がいく。ああそうか、緊張していただけだったのか、と素直に受け止められたが、言われた帝統の頭上には疑問符が浮かんでいた。
「え、何で? 何が?」
「久し振りなので。貴方と距離が近いのが」
「ハァー? これのどこが?」
 ますます首を傾げた帝統は、幻太郎の緊張を全く理解していなかった。不思議そうに腹に手を回して抱き寄せられれば、最早我慢の限界だった幻太郎はたまらず悲鳴を上げた。
 帝統の触れた部分が発熱しそうなほど熱い。それから、触れられていない部分まで完全に熱を持ってしまっていて、混乱した幻太郎は、入浴剤のボトルを掴むと慌てて中身を浴槽にぶちまけた。
 透明の湯があっという間に濁り、乳白色に染まる。湯に浸かっている胸から下が全く見えなくなった事に幻太郎は心から安堵した。良かった、これで帝統に己の誤作動がバレずに済むと思うと気持ちが軽くなる。
「帝統、そろそろ百秒経ったでしょう。貴方からどうぞ先に……」
 さっさと先に上がれと言いたかった幻太郎の言葉は、声にならなかった。腰に。何か。当たっている。
「………………」
「………………」
 互いに無言だったが、男同士なので察してしまっている。何故か帝統の股間まで、幻太郎と同じ誤作動を起こしているのを。
「……あの、やっぱり小生が先に上がりますので、帝統はゆっくり浸かってください」
 気まずさから逃げるように浴槽を出ようとした幻太郎の手を、帝統が掴んだ。
「だってお前がヘンな声出すから」
「はあ?」
 言いがかりか? と思わず抗議の声を上げかけた幻太郎を、帝統は有無を言わさず抱き寄せた。素肌がぺたりとくっつき、相変わらず固いままの帝統の帝統も当然押し付けられる形になり、幻太郎は悲鳴を上げる。
「それだよ、それ」
「はい?」
「さっきも今も、お前がヘンな声出すから……っ!」
 幻太郎の腹に腕を回した帝統が、俯きながら唸るように困惑した声を出した。濡れた髪から覗く耳が真っ赤になっている。
「幻太郎……」
「はい……」
「コレ、どうすればいい?」
 顔を伏せたまま、乞うように尋ねる帝統は一線を越えていた。その質問は違うだろうと思う。ここは風呂場で、処理をするのに家の中で一番適切な場所だ。速やかに幻太郎に出て行ってもらい、後は一人で片付ける、それだけの話だ。
 だから幻太郎は帝統を一人にしてやればいい。そうするべきだと、ちゃんと解っている。
「帝統、顔を上げて」
 濡れた前髪を掻き上げてやると、途方に暮れた眼差しと目が合った。後ろめたさや恥や困惑、それから、火種のようなものが帝統の目に揺らいでいる。うっかり触れると大きく着火してしまいそうな、沸き立つような何か。
 それに気付いた幻太郎はちいさく息を呑む。初めて見る帝統の表情に躊躇い、そして。
「もうちょっと一緒にいましょうか……」
 触れるべきではないと気付いているのに、帝統へと手を伸ばす自分を、幻太郎は止めることが出来なかった。