[ 夏の鼓動 ]


 玄関を跨ぎ、板の間にバタリと突っ伏した小生の口からは重い溜め息が自然と漏れていました。
「もう二度と行くものか……」
 誰に言うでも無く呟き、疲労した身体をごろんと仰向けに捻ると冷たい空気が肌を撫でるのを感じます。エアコンの予約を入れた数時間前の己を褒めてやりたい。大勢の人がごった返す熱帯夜に晒された身体には、人工の冷気がなんとも心地よく感じられました。
 二度目の夏祭りは存外すぐにやって来ました。ただし同伴相手は帝統ではなく、出版社の人間です。次作の取材とエッセイのネタを兼ねてアサクサで開かれる有名な夏祭りを訪れたのは、仕事の一環でしかありませんでした。
 確かに規模は大きく、珍しい露店には興味を引かれ、そして何より人の多さに辟易しました。年に一度の大祭に詰め寄る人間は多く、限られた境内のスペースは歩くことが困難なほどの密度です。シブヤで慣れているはずの人混みとは比較にならない窮屈さに、着いて早々回れ右をしたくなったのは今思えば当然の判断でした。
 人間観察の面ではそれなりに刺激がありましたが、創作の着想を得ても身体が自由に動かせないのでメモが取れません。次々と浮かんでは消えてゆくネタを歯痒く思ったり、おろしたばかりの浴衣をすれ違いざまに汚されたり、会談予定だった神職は急なトラブル対応で会えず、人混みの中で編集者達とはぐれてしまったのを機に、二度目の夏祭りは現地解散となりました。
 玄関に寝転び、草臥れた身体を横たえているとじわじわと湧いてきた違和感があります。
「全然、違ったな……」
 ぽつりと落とされた言葉は、先週の思い出へ向けられたものでした。
 帝統と二人で出掛けた、初めての夏祭り。近所の催しで、出店も限られていて、成人男性の足ではあっという間に一周してしまえる小さなものだったけれど――永遠にこの場所に留まっていたいと思えた程に満たされた時間が、あの夜にはありました。
 名の知れた祭じゃなくても、ささやかな花火しか上がらなくても、隣にあの男がいれば楽しいんだって事を、私はとっくに自覚していました。また行きたいと強く願ったのは、多分帝統ではなく小生の方です。
 来年と言わず今すぐ行きたいと思いました。今年の夏の思い出を、味気ない今夜の祭で締めくくりたくない。蒸し暑い夏の境内を、また帝統と並んで歩きたい。一度抱いてしまった願望は胸の中でむくむくと膨れ上がり、居ても立ってもいられずに小生の指は携帯へ伸ばされました。躊躇いなく選んだ通話先は、
「――乱数。今度の週末、夏祭りに行きましょう」
 だって誘える訳ないじゃないですか。強請る帝統に「勘弁してください」って言ったの、つい先週の話なんですから。



 シブヤ・ディビジョンは狭い街だけれど催し事の盛んな場所です。夏になれば毎週どこかしらで祭りが催されているので、三人の予定さえ擦り合えば、楽しいひと夏の思い出を作ることなど造作も無い――――はずでした。
 活気に満ちた夕刻の境内は程良い人出で、並んだ出店をゆっくり見て回れそうだと浮ついた気持ちでいれたのは始めのうちだけでした。凝った飴細工の露店を見つけ、乱数が喜びそうだなと帝統に声を掛けると、
「俺はいいわ。興味ねえ」
 と素っ気ない声で紙幣だけ差し出されました。勝った日に羽振りの良いところはいつも通りですが、小生はおやと首を傾げました。急な仕事で来れなくなってしまった乱数に対し、帝統らしくない素気ない素振りに感じたからです。
 考えすぎかと思った違和感でしたが、何度か言葉を交わした後に直感が正しかった事を知りました。
「あ、帝統! ヨーヨー釣りがありますよ、再戦しますか?」
「おー……後でな」
「今日の射的は随分豪華な景品が用意されてますね。挑戦してみます?」
「やめとけ、やめとけ。あーいうのは取れねえように細工されてんだよ」
「……お腹空きませんか? 出店の焼きもろこし、小生結構好きなんですよねえ」
「ん」
 振り向きもせずまたもや金だけ渡してきた帝統に、思わず息を呑みました。食糧に釣られないとはいよいよおかしいですし、こちらの呼びかけにずっと空返事で、大股でズンズン先を歩く帝統はどうやら機嫌が悪いようでした。
 ちっとも合わない目線に、小生の気分も段々下降してゆきます。初めて行った夏祭りと全然違う。念願の帝統との祭りだったのにちっとも楽しくなくて、こんな筈じゃなかったのにと、賑やかな境内の中を歩いていると侘しい気持ちがこみ上げてきました。
「……帰りますか?」
 乗り気で無いのなら、と苦渋の思いで口を開くと、秒で振り向いた帝統が思い切り眉を顰めて「ハァ?」と不機嫌を露わにしました。
「何、お前やっぱり帰りてーの?」
「んな訳ないでしょう。誘ったのこっちですよ」
「じゃあ変なこと言うなよな。焦るだろ」
 否定すれば、帝統は安堵した様子を見せました。
「だって、何だかヘンです、今日の貴方」
「は?」
「上の空だし、人の話は聞かないし、出店も全て素通りするし。気乗りしないのかと思えば帰りたがらないし」
 胡乱に思ってじいっと見つめてやると、小生の懸念を汲んだのか帝統は重い口を開きました。
「――乱数から聞いたんだけど」
「はい」
「お前最近、他の奴と夏祭り行ったんだってな」
「……え。ああ、アサクサの三社祭ですか」
「そんで、その後すぐ乱数に今日の祭り行こうって声掛けたんだろ」
「ええ。乱数、来れなくて残念でしたね」
 アサクサの一件で、祭りは友人と行くに限ると学びました。天邪鬼な態度を取ってしまった手前、素直に誘うことができず、乱数を経由してなんとか帝統を連れ出せた今日の約束をとても楽しみにしていたのです。
 けれど帝統はむくれた様子で、
「…………俺とはもう行きたくねーって言ったのに、他の奴とはすげえ行くじゃん」
 ぶすうっと頬を膨らませました。それから思いがけない一言をぽつりと漏らします。
「来れなくなったのが俺じゃなくて悪かったな」
 は? って、思わず開いた口が塞がりませんでした。
 帝統に何を言われたのか一瞬本気で解らなくて、頭の中で反芻していると、探るような眼差しがじっとこちらに向けられました。言うべき言葉はすぐに察しがつきます。「行きたくないなんて嘘ですよ」「楽しくなければ花火の前に帰っていました」、そう事実を教えてやればいい。目の前で寂しそうな色を瞳に滲ませている男は、きっとその言葉に胸を撫で下ろす。
 けれど、小生の唇はわずかに開閉しただけで音にはなりませんでした。私の言葉を暫く待っていた帝統は、やがて諦めたように肩を落とし、それから。
「……乱数に土産でも買って、帰るか」
「え。でも」
「最初の方に飴売ってる店あったよな。乱数が好きそうなやつ。アレ買って帰ろーぜ」
「あのでも、まだ来たばかりですし」
「いいじゃん。次は乱数が来れる時に楽しんでこいよ」
 自分を含めない言い方で寂しそうに笑う顔に、さあっと血の気が引きました。
「だ、帝統! ヨーヨー釣りしませんか」
「それは前にやっただろ」
「じゃあ射的。射的で勝負しましょう」
「お前、前回めちゃくちゃ外してもう二度としませんって拗ねてたじゃん」
「それなら……金魚すくいはどうですか!」
「世話が面倒だからヤダっつってなかったか?」
 帝統を引き留めたくて口を開けば開くほど、墓穴を掘っていきました。それから前回の己の所業たるや。遠慮がないというか、甘えているというか、楽しかった記憶ばかりが残っていたけれど、帝統の言葉から垣間見える小生の振る舞いは随分身勝手なもののように思えます。
 よくこれで二度目を誘って貰えたものだと感心すると同時に、その誘いですら素気なくあしらった事を思い出して恥じ入りました。
 けれどどうしても、言葉がなめらかに出て来ません。素直に誘える帝統を眩しく思う気持ちと、本音は何一つ表に出せなくなってしまった己のたどたどしさに歯噛みしている内に、私達の足は最初の出店へどんどん近付いていきました。
 まだ帰りたくないのに、今日が終わってしまう。それどころかこのまま別れてしまうともう二度と、帝統と次の祭りへは行けなくなってしまうかもしれない――――焦れば焦るほど心臓は乱れた脈を打ち、暑気とは違う汗が背中を伝いました。言葉が出ないのなら、もういっそ物理的に引き留めてやろうと前を歩く帝統の服を掴もうとした時。
「ダイちゃん! イイ時に居るじゃねえか〜!」
 私と帝統の間に、不意に割り込む声がしました。
 視線を向けると、出店の中からうっすら見覚えのある顔が帝統を呼んでいます。確か雀荘に帝統を迎えに行った時に出会った御仁だったような。
 素直に向かった帝統は一言二言言葉を交わし、こちらへ戻ってくるなり予想より早い別れを告げました。
「幻太郎、悪ぃ。出店手伝うことになったから、これで乱数への土産買っておいてくんねーか」
「ハ?」
 紙幣を渡され、思わずムッとしました。悪いと言いつつも帝統の顔にはわかりやすい安堵の表情が浮かんでいます。そんなに俺といるのが気まずかったのかとショックを受けつつ、帰るつもりのない小生は少し語気を強めました。
「見ていてもいいですか?」
「え」
「まだ帰るには時間も早いですし、出店の中は創作のヒントになりそうですから。帝統が労働している珍しい姿も見たいですしね」
 いいですよね、問題ありませんね、はいお邪魔します。そう畳み掛けて出店に踏み込んだ小生に、帝統は少し考えあぐねた様子でしたが、直ぐに店主に話をつけてくれたお陰で一先ず彼のそばに留まることができました。


 熱した鉄板で焼きそばを調理しながら上手に売り捌く帝統は、今日出会ってから一番のびのびと屈託のない笑顔を浮かべていました。小生と出店を巡っていた時のつまらなそうな顔と比較するとなんと解りやすいことか。
 帝統の素直さは美点であり欠点でもあると痛感しながら、労働に勤しむ彼の背中をじっと眺めていました。普段は入れない出店の内側は人間観察には絶好の機会でしたが、それよりも彼を眺めていたいと思ったのです。
 Vネックの黒い布地がすっかり帝統の汗で濃くなった頃、小生は一度店を離れました。冷たい飲み物でも差し入れるかと、適当に見繕って戻って来ると、客足が落ち着いた店内では店主と帝統が会話を弾ませていました。小生もあんな風に帝統と祭りの空気を楽しみたかったなと、溜め息を吐きながら店に戻ると、振り向いた帝統の顔は何故か耳まで真っ赤に染まっていました。
「げ、げんたろ」
「……? 飲み物買ってきましたけど、お二人でどうぞ」
「あ、おお、サンキュ……」
「いやー、悪いねえ先生! 今日は退屈させちまって」
「いえ、出店の内側が見れて面白かったですよ」
「そうかい? ずっとダイちゃんばっかり見てたから、駆り出して悪かったなと思ったんだが」
 ペットボトルのキャップを捻りながら悪気無く喋る店主に、ぎくりと背中が強張りました。
「先生よお、折角の祭りなんだからあちこち楽しんでくりゃいいのに、ダイちゃんのそばから離れねえんだもんな。ウチの嫁さんよりよっぽど健気だぜって、さっき二人で話してたんだよ」
 余計なことを言うんじゃない、と思わず拳に力が入りました。道理で帝統が落ち着かない表情でチラチラこちらを見てくる筈だと納得します。出来ればそんな会話の内容は知らずにいたかったけれど――良くも悪くも素直な帝統の顔が、むずむずと嬉しそうに綻びかけている姿を見ていると何も言えませんでした。


 店が落ち着いたからと、今日の日当を渡されて手伝いから解放された帝統と、境内の階段を二人並んで降りていました。もうすぐ打ち上げ花火が始まるのはわかっていましたが、混雑する前に帰りましょうと提案したのは居たたまれなさが残っていたからです。帝統にべったりと張り付いていたのは完全に無意識で、だからこそ否定する上手い言い訳は思い付きませんでした。
 互いに口数が少なくなってしまったまま、どんどん鳥居が近付いてきます。あれをくぐれば今日が終わるのかと、物悲しい気持ちを覚えていると、隣を歩いていた帝統の足がふと止まりました。
 振り返ると、段差で少し身長が高くなった帝統が無言で袋を渡して来ました。中身を見ると、香ばしく焦げたトウモロコシが二本入っています。
「お前、そーゆーの好きなんだな」
 夕方、祭りに到着したばかりの頃の何気ない一言を思い出しました。上の空だと思っていたけれど帝統はちゃんと聞いてくれていて、そしてどうやら、店の手伝いの合間に用意をしてくれていたらしい。鼻腔をくすぐる醤油の匂いに、思い出がまた一つ増えてしまったと胸がざわめきました。
「……ありがとうございます。とっても美味しそう」
「うん。俺結構得意なんだよ、そういうの」
 ――だからまた、と言葉を続けようとして、帝統の口はそのまま閉じてしまいました。彼の言いたい言葉は解りましたし、誘いに頷くだけならよっぽど楽です。けれどそれじゃあ伝わらない。
 アサクサの祭りが退屈だったことや、帝統がそばにいれば出店を回らなくとも楽しかったことや、今日という日を小生が待ち望んでいたことは知らなくてもいい。ただ帝統に、約束なんていらないんだと――――夏じゃなくても、祭りじゃなくても、俺はいつでも焦がれているんだと、どうすれば気付いてもらえるのかがわからなくて。
 作家のくせに言葉を失ってしまった小生は、ただ心惹かれるままに帝統を見つめることしかできませんでした。彼の目に戸惑いが浮かび、眼差しが絡まって、そして期待のような色が滲んだ時、よく日焼けした腕が伸びてきて。
 遠くで花火の上がる音がしましたが、小生の耳には煩く鳴り響く私と彼の鼓動だけが聞こえていました。