[ ちなみに俺はめちゃくちゃ好き ]


 幻太郎ってアホだよなーと思う。例えば今がそう。
 目の前でモブラッパー達が幻太郎のリリックに景気よく吹き飛ばされるのを尻目に、俺はせっせと自分の服を回収し、パンツ一丁から普段の格好へと戻った。
「いや〜、幻太郎様々だぜ」
 助かったわ、マジあんがとな! って肩を叩く笑顔の俺とは裏腹に、幻太郎は不機嫌を隠さなかった。腹の虫が治まらないと顔に書いてある。放っておいたら気絶しているモブラッパー達にまだリリックを叩き付けそうな雰囲気だったので、俺はすかさず華麗なスライディングをキメた。
「夢野大大大先生……ついでにメシ、奢ってくださ〜〜い!」
「……貴方ねえ」
「頼むよぉ、もう三日何も食ってねーんだ」
「そういう状況で賭博を優先するから、あんなのに絡まれるんですよ」
 呆れたように幻太郎は説教をしてくるが、関心は俺の空腹に移ったようでモブの事はもう見向きもせずに歩き出す。階段を上り地上へ出て、迷いのない足取りは俺達がよく行く店の一つへ向かっている。
 くどくどと続く苦言を右から左へ流しながら、(幻太郎、ありがとな)って俺は心の中で感謝していた。メシを食わせてくれるのも、やべえ時に駆け付けてくれるのも、俺に疑惑を掛けた奴らに「真剣勝負で帝統がイカサマする訳がないだろう」って不機嫌になってくれるのも、俺を庇ってガラの悪い連中とラップバトルをする回数が増えているのも、全部全部感謝している。でもそういう付き合い方をしているせいで、お前の評判が前とは変わってきている事を俺は知っているし、お前も多分自覚している。
 ――俺のこと、貧乏神みてえって思ったりしねえのかな。悪い意味で囁かれる風評を気にせず俺と付き合い続けるお前は、やっぱりアホなのかもしれない。


「えっ、いーのか!」
「ええ、ええ、お好きなだけどうぞ。貴方への貸しに乗せておきますから」
 好きなだけ注文しろと言われて目を輝かせた俺は、続く幻太郎の言葉にがっくりと肩を落とした。自腹となると途端に食欲は理性を取り戻してしまう。項垂れながら一番安い品を目で探していると、
「……嘘ですよ。食べたいものを頼みなさい」
 メニューの角で俺の頭にこつんとツッコミを入れる幻太郎が、優しい声を出した。腹一杯食えることより鼓膜をなぞった優しさの方が嬉しくて破顔すると、単純ですねえって笑われる。でもそんなの当たり前だろ。好きなヤツに優しくされたら、俺だって人並みに舞い上がったりするわ。
 あれもこれもとたらふく注文した俺は、目の前に並ぶ皿を次々と胃に納めながら、幻太郎の横顔をじっと眺めていた。ちびちびと嗜む程度に酒に口をつけていた幻太郎が、視線に気付いて首を傾げる。「足りませんでしたか?」って聞かれて首を横に振りながら、俺は、何をどうすればコイツが俺のものになるんだろうって考えていた。
 さり気なくメニューを俺が見やすい位置に置いてくれるトコがすげえ好き。気遣いが綺麗なところとか、俺の呼び出しに説教はすれど絶対に迎えに来てくれる優しさとか、そういう甘美な扱いを受ける度に俺はずぶずぶと深みに嵌まっていってしまう。
 ダチとして大事にされている自覚はあるけれど、それだけじゃ足りないと飢えている自分がいた。幻太郎が絶対に俺から離れていかないような強固な何かが欲しい。慕っていた人間が離れていくことには耐性があると思っていたけれど、幻太郎とそうなる図は想像ができなくて、ここ最近俺の頭は、ギャンブルしてない時はもっぱら幻太郎のことを考えていた。


 駅で待ち合わせてからずっと、きょろきょろと視線を忙しなく動かす幻太郎を眺めて俺は一人悦に入っていた。
 改札を出てTKCと書かれたオオイ競馬場の看板を潜りながら、普段とは違う高揚感に胸が躍っていた。競馬に誘ったのは俺の方で、ここ数日はうまいこと勝ちを回せていて金もメンタルも余裕があったので、前々から密かに抱いていた願望を遂げるべく幻太郎を呼び出したのだ。
 通話の向こうで少し考える素振りを見せたが、頷いてもらえて柄にもなく俺は浮かれた。日除け対策だろうか、珍しく被っているカンカン帽は幻太郎によく似合っている。
「小生、レースを実際に見るのは初めてです」
 手元にメモを備えて目を輝かせた幻太郎に、そーだろうなあって俺は納得した。
「馬券買ったのも生まれて初めてで……あそこに並んでいる競走馬それぞれに、生い立ちや個性やドラマがあると思うと凄く面白いですね。創作意欲を掻き立てられます」
「お前どいつにしたの?」
「ええと、内側から二番目の……父親が行方不明だったと帝統が教えてくれた、葦毛の彼です。ヤンチャそうで可愛いですね」
 ひらひらと馬に向かって手を振る幻太郎に、俺はふうんと不機嫌になった。悪くない選択だとは思うが、他者(いや馬だけど)を愛でる姿が面白くない。ちゃっかりがんばれ馬券を買っている贔屓ぶりも面白くない。いや相手馬だけど。
「ねえ帝統、今日泊まりに来ませんか?」
「え、いーの?」
「勿論。その代わり、もっと競走馬のエピソード教えてください」
 にこりと微笑んだ幻太郎は場内に視線を巡らせ、それから満足そうに頷く。
「馬だけでなく、ここは実に濃い人間模様が満ちていますね。馬も、それに白熱する観客も、ただの観光地として訪れている人々も、見ていて飽きませんよ」
「――だろお! また来ような!」
 浮かれた勢いでつるりと口から出た言葉に、俺はあっと息を呑んだ。不意に頭を過ぎったのは前に二人で夏祭りに行った時の光景で、同じように口にした二度目の誘いを素気なく断られたことを思い出す。……や、でも今回は大丈夫だよな。幻太郎も乗り気みたいだし。
 そう言い聞かせながらも心臓は激しく鼓動していて、言わない方が良かったかと迷いが生まれた。俺の誘いに幻太郎が振り向き、口を開く。イエスかノーか、丁か半か、手のひらの馬券を強く握りしめながら俺は耳を澄ませていたのに。
 レースに熱狂するギャンブラー達の「差せーーーー!!」って悲鳴に掻き消されて、幻太郎の返事は俺には届かなかった。


 家に着くなり、「筆が乗ってきたので貴方は好きにしててください」って放置されて俺は思わず唖然とした。確かに幻太郎は電車に乗ってる間ずっと携帯で何かを書いていたが、あれもこれもと頭の中で幻太郎にレクチャーしたい馬を選別していた俺は正直気落ちした。喋りたい事が山程あったが、書物机に座り原稿用紙と向かい合ってしまった背中を振り向かせることは俺にはできない。諦めた俺は、ふて腐れた気持ちで風呂へ向かった。
「帝統、居ますか?」
「何」
 幻太郎が居間にようやく顔を出したのは、そろそろ日付が変わろうかという時刻だった。つうか居るに決まってるだろ。暇だからって毎度賭場に行く訳じゃねえぞ。
「終わったの?」
「いえ、ちょっと仮眠を取ろうと思って。三十分後に起こしてもらえると有り難いんですが」
 期待を込めて尋ねた俺は、幻太郎らしい返事に内心ガッカリした。が、頼られる事は素直に嬉しかったので一つ返事で頷いてやる。
「いーけど、キリ良いところで終わっとけよ」
 放っておくと寝食を忘れて書物机に齧り付くことを知っているので忠告をしたが、幻太郎は笑って躱しただけだった。ギャンブルに熱中する俺を心配する幻太郎の気持ちを、こういう時理解してしまう。時計を確認して、きっかり三十分後にアラームをセットした。
 客用布団を抱えながら作業部屋を覗くと、案の定幻太郎は爆睡していた。職業病なのか、机に伏せて三秒で寝れると豪語していたのはホントらしい。揺すっても起きないことを確認し、幻太郎を抱えた俺は傍らに敷いた布団へそっと寝かせてやる。風呂は済ませていたらしく、寝間着代わりの浴衣に着替えた無防備な身体の隣に寝っ転がりながら俺は溜め息を吐いた。コイツ、何でこんなに無防備なんだろうなあ。
 俺の気持ちに全然気付かねえで、簡単にパーソナルスペースを許している。他人に対してめちゃくちゃ壁がぶ厚い癖に、俺や乱数には鍵を掛けることをしない。いつだって開けることを許された扉の前で、俺はずっと躊躇していた。
 揶揄の延長で幻太郎からくっついてくることはよくあるけれど、俺が同じ事をしたら多分世界がひっくり返る。俺がこの扉に踏み込むっていうのは、そういう事だった。困らせたくないし距離を間違えたくもないけれど、一緒にいる時の幻太郎はずっと笑っていたから、うっかり踏み込んで抱きしめてしまいたくもなる。
 素寒貧になった俺を呆れた顔で迎えに来ても、ギャンブルでの冒険譚を聞かせてやれば可笑しそうにころころ笑ったし、違法の賭場への出入りを目撃されて悪評が広まっても、「帝統をからかうのは愉快、愉快」つって俺の隣から離れることはなかった。
 幻太郎ってアホなんだよなあ。
 アホすぎて、時々好きって言いたくなる。何でコイツ俺の横にいるんだろうって思うし、尋ねてみたい気持ちは日増しに湧いてくる。
 俺の隣に居るメリットってあるんだろうか。ちなみに俺は幻太郎がめちゃくちゃ好きだから、できればコイツにはアホなままで居て欲しいと願ってるんだけど。
 そんなことを思いながら、俺はアラームが鳴るのを待ち続けていた。



  ***



 有栖川帝統は、実に愛すべきお馬鹿さんでした。
 斯様に愉快な男は生涯出会った覚えがなく、彼からもたらされる全てのものを小生は愛していました。電話が鳴れば心が踊ったし、会う約束があれば指折り数えて待ったものです。
 迎えに来て欲しいと乞われた先でパンツ一丁で待機している男など他に知らなかったし、金に釣られて引き受けた運び屋紛いの仕事をダチ≠ノ屈託なく手伝わせる馴れ馴れしささえ、帝統ならば許せてしまう、そんな不思議な魅力に満ちた男でした。
 彼や乱数と過ごす時間は私にとって他の何にも代え難いもので、フリングポッセに加入後、小生にまつわる誇大された醜聞が立つ事が暫しありましたがそんなの知ったこっちゃありませんでした。
 暇を持て余した有象無象の悪口雑言に何の価値がありましょうか。それよりも小生の頭の中は、次に会ったら帝統をどう騙してやろうか考えることに夢中でしたし、それに、小生のことを本当に良く知る面々からの加入後の評価は好意的なものばかりでした。
 付き合いの長い一雨でさえ、丸くなっただの会話がしやすくなっただの面白そうに褒めてくるものだから、そちらの方がよっぽど居たたまれなかったものです。
 帝統と居る時の小生は好意がダダ漏れだとからかい混じりの忠告を受けたこともありましたが、けれど帝統は愛すべきお馬鹿さんでしたから、何も知らないまま呑気にダチ≠ノ食事を奢ってもらったり競馬を楽しんでいる、それが私と彼の変わらない日常でした。


 帰宅早々書物机に着座した小生は、大慌てで鞄から携帯を掴み原稿用紙の上に置きました。競馬場からの帰路にせっせと書き溜めた文章をデジタルからアナログに書き写します。打ち合わせを予定より繰り上げたいとメールをするのは一分で済みますが、早まった分だけ執筆の時間を奪われる作家の身にもなって欲しい。まあ一番の悪手は、締切がやばいのに帝統の誘いに浮かれて出掛けてしまった小生なんですけど。
 耳をそばだてると、背中越しに風呂場から水音が響くのが聞こえました。放置された帝統はどうやら風呂に向かったらしい。もっと話したかったなと後ろ髪を引かれながら、明日の午前に決まってしまった打ち合わせに向けて、小生はペンを走らせました。


 原稿に目処が立ったところで帝統に目覚ましを頼んだのは、少しでも彼を引き留めていたいという幼稚な思い付きでした。
 放置されて暇でしょうに、賭場に行かず家の中に居てくれたことが嬉しくて欲が出てしまった。できる限り引き留めて、そうして彼が眠る時間になってしまえばいいと願っていました。帝統は約束には律儀な面があるから、少なくともあと三十分はこの家に留まってくれるはず……そう信じていたので、書物机に伏せってしまえば、原稿用紙に心血を注いだ脳は素直に休息へとスイッチを切り替えました。
 隣に帝統が居て、これ以上なく安心しきった私の身体はだんだん重く沈んでいきます。ああ、今日は本当に楽しい一日だったなと――原稿さえなければ彼ともっと話していたかったと惜しむ気持ちはありましたが、また次も行く約束をしたことを思い出し、小生は満ち足りた気持ちで意識を手放しました。


「……げんたろ、幻太郎ー」
「んー……」
 額をぺちぺちと叩く感触に不快感を覚え、ごろりと寝返りを打ちました。身体を動かしたところでおや、と違和感を覚えます。机に伏せてる筈なのに、可動域がおかしくないだろうか。
 けれど、普段なら即座に目を覚ます程の違和感も今の小生は素通りしてしまいました。帝統の声にますます安眠してしまい、瞼を開く気になれません。
「寝るなって。三十分経ったぞ〜」
 けれど小生の願いとは裏腹に、声の主は些か語気を強めました。肩に誰かの手が掛かって上半身を無理矢理起こされ、渋々と目を開くとぼやけた視界に掛け布団が映ります。仮眠を布団で取ることはないので、誰の差し金かと疑念が濃くなったところで振り向いて。
「起きたか?」
 にかりと笑った顔と目が合い、胸にすとんと矢が落ちてきました。
 帝統が寝かせてくれたのかと理解すると同時に、言いしれぬ高揚感が胸にじわじわと広がります。打算や媚びでこういう事をする男ではないと知っているからこそ、大事にされているのだと解ってしまう。覚醒していない頭は、突然突きつけられた優しさにぽろっと本音を漏らしました。
「だいす」
「何?」
「好きです……」
 舌足らずな声で呟いた後、肩を支えてくれる彼の手にしなだれかかりながら小生は再び瞼を閉じました。間近で感じる帝統の体温が気持ちよくて、夢を見ているような心地良さに意識が沈んでいきます。
「…………は。ハ?!」
 慌てふためく男の声がどこか遠くで聞こえた気がして、思わず頬が緩みました。
 俺がめちゃくちゃお前の事を好きって、そんな当たり前のことに驚くなんて、帝統はやっぱりおバカさんですねえ。