[ 俺の地雷を越えてゆけ ]


 ダチの恋愛ってどう応援すんのが正しいんだろうな。
 そんな事を考えながら、俺は目の前の幻太郎と乱数を見据えていた。
「誰だよ」
「誰、と言われましても。何度も言いますが、貴方の聞き間違えですよ、帝統」
 幻太郎の返事は頑なだった。さっきからこの応酬が続いていて、教えろと食い下がる俺に決して口を割ろうとしないものだから、流れる空気は段々気まずいものに変わってきている。
「誤魔化してんじゃねーぞ。俺の耳が良いのはお前だって知ってんだろ。言えよ、名前」
「まあまあ帝統ぅ。デリケートな話なんだからさ、そんな問い詰めるみたいなことしちゃメッだよ」
 執り成すように割って入った乱数の、デリケートという言葉を俺の耳は敏感に拾った。
 これが容易に触れて良い話題でないことは解っている。普段の俺なら、聞こえなかった振りをするくらいの気遣いはしただろう。けれど今回はどうしてもそれが出来なかったし、俺には言おうとしない幻太郎が乱数には密かに打ち明けていたことも腑に落ちなかった。
「幻太郎の好きなヤツ、お前は知ってるんだろ。乱数」
 確信を持って問えば乱数はあっさりと頷き、その途端、幻太郎は解りやすく狼狽えた。その表情があんまりにも困った風だったから……なんでそんな顔すんだよって、俺は悲しくなる。乱数の事務所に寄ったら偶然幻太郎も来ていて、二人してひそひそと話し込んでたからつい聞き耳を立てたら、まさかの恋バナってやつだった。幻太郎に好きな奴がいる。その事実に頭をガンと殴られた俺は、扉を開けて叫んでいた。「誰だよ、そいつ!」って。
 そこからこの押し問答がずっと続いていて、俺は未だに幻太郎の悩みの元凶を教えて貰えずにいる。
「何で俺には言えねえの」
「だって、貴方に言っても……」
 押し黙る幻太郎に、俺は内心肩を落とした。
 普段の饒舌さはすっかり鳴りを潜めていて、言い淀む姿は幻太郎が呑み込んだ本音を俺に伝えてくる。言ったところで役に立つ訳がないって思われてんだろうな。確かに恋愛沙汰なんざ興味無えし、乱数の方を頼る気持ちは解るけど。
「俺だってダチじゃんよ……」
 幻太郎が悩んでいるのなら力になりたかった。ぽつりと漏れた言葉はみっともなかったが、そんな俺を二人は笑おうとはせず、乱数は少し困ったように眉を下げ、慰めの言葉を口にした。
「適材適所ってヤツだよ、帝統。ボクはオネーサンの知り合いいーっぱいいるし、恋の悩みもよく相談されるからね。幻太郎も言いやすかっただけだよ」
「相手、オンナなのか?」
 乱数の正論を問いで返すと、俺の疑問が不意打ちだったのか、幻太郎は解りやすい反応を浮かべた。女と言われた時のきょとんとした反応の鈍さに、男かと確信する。脳裏には一瞬で、俺が知る限りの幻太郎の周辺にいるありとあらゆる人間の顔が過ぎった。
「喫茶店の店長ならダメだからな」
「………………は?」
「あとアイツも認めねえ。この間原稿取りに来た、出版社の新人。お前がよく行く本屋の店員も論外な」
 既婚の店長と、幻太郎の原稿を杜撰に扱っていた新人と、幻太郎と俺で態度がガラリと変わる裏表のある店員を思い浮かべながら俺は断言した。他にはどいつがいたっけと、指を折りながら幻太郎の周囲の男の顔を一つ一つ洗い出す。幻太郎に対する振る舞いや身嗜み、性格の善し悪し、金を持ってそうか否かを考慮しながら一人一人査定していくと、驚くほど俺が認められる男はいなかった。それどころか、どいつもこいつも欠点を抱えていて幻太郎に釣り合うとは到底思えない。
「お前さあ、男を見る目無いんじゃね……?」
 思わず心配になり幻太郎を見つめると、俺の言葉に何故か乱数は爆笑し、幻太郎は呆気に取られていた。
「大丈夫だよ帝統。今挙げた人達の中にはいないからさあー」
 目尻に浮かんだ涙を拭いながら、何がそんなに面白いのか乱数は腹を折って笑い続けていた。が、俺はこの時ばかりは大真面目だった。改めて考えると幻太郎の周りにはロクな人間がいなくて(それには勿論俺も含まれてはいるが)、俄に不安を覚える。
「ただの知人と彼を一緒くたにしないで貰えますか」
 好きな男を貶された幻太郎に不機嫌を隠さない冷たい声を浴びせられたが、負けじと俺は言い返す。
「だって心当たりねーもん。近くに居る男で良さそうなヤツなんて」
「身近な人とは限らないでしょう? 何だって決めつけてるんですか」
「お前が選んだなら、ちゃんと中身見て好きになったんだろ。げんたろーは外見とか肩書きとか、そういう余計なモン取っ払って本質見てくれるじゃん」
 思ったままを素直に口にすると、きゅっと唇を噛みしめた幻太郎が少し悔しそうに吐き出した。
「……そうですね。そういうところ、あるんですよね」
「だろ? つーか誰だよ相手、俺の知ってるヤツ?」
 そろそろ白状しろよなあと思いながら口を尖らせていると、ようやく笑いが収まってきたらしい乱数が愉快そうに口角を上げた。
「名前は言えないけど、ヒントなら出してあげるよー」
「乱数……?! ちょっと、勝手なこと言わないでくださいよ!」
「んー、でも、帝統だけ何も知らないのは流石に可哀想じゃない? ボクは二人とも大好きだから、秘密にして欲しいって幻太郎の気持ちは尊重したいし、知りたがってる帝統にはヒントあげたいなーって思うよ」
 乱数の穏やかな説得にぐらついたのか、幻太郎は不満そうな眼差しとは裏腹に押し黙ってしまった。これはチャンスと察した俺は、瞬時に矛先を変える。
「俺の知ってるヤツか?!」
「ふっ……あはは、知ってる知ってるー」
「……そんな笑うことかあ? えーとじゃあ、シブヤにいる?」
「いるよー。もうシブヤならどこでも家ってカンジ」
「マジか。土地でも持ってんの?」
「まさかあ。無職だもん」
「……そいつ、優しい?」
「えー、どうだろ。ボクの周りのオネーサン達には怖いって言ってるコもいるなあ」
「…………幻太郎のこと大事にしてる?」
「うーん、微妙。してるときもあるけど、基本的に幻太郎に頼りまくりだからなあ」
「……………………年下? 年上?」
「下だよー。歳はねえ、幻太郎より、」
「〜〜っ、そこまで! そこまでです、乱数」
 段々気持ちが下降するのを自覚しながら問いを重ねていると、見かねた幻太郎が間に入り質問タイムは打ち切りとなった。
 喋りすぎです乱数、えーそおー、なんて呑気に言い合いをしている二人の前で、俺は頭がぐらぐらと揺れるような目眩を覚えた。拳に力が入り、気が付いた時には強い声が出ていて。
「お前そいつ絶っっっ対ダメだろ!」
 思わず叫んだ俺に、幻太郎は素っ気なく答えた。
「それで?」
「ハ……?」
「駄目だったらどうなるって言うんです。貴方のお眼鏡にかなわなかったところで、小生の知ったこっちゃないですよ」
 つんとした愛想のない態度には、幻太郎の頑なな決意が滲み出ていた。誰に忠告されようと幻太郎は自分の気持ちを曲げたりはしないだろう。そういうヤツだと解っている。理解しているが、俺もまた、自分の直感を信じて生きるギャンブラーだった。乱数のヒントだけで、反対を確信するには十分だ。
「認めねえからな」
 宣言すれば、幻太郎の顔がうっとおしそうに歪む。
「お前男見る目ねえよ。もっと良いヤツ探せって、なっ?」
 できるだけ丁寧に、諭すように説得しようとしたが幻太郎は手強かった。
 もう少し吟味しようぜ、俺も手伝うから、と宥めてもつまらなさそうな顔で両耳を塞ぎ、解りやすい拒絶を示す。子供かよって思いながら、俺も俺でムキになってスマホを開いた。手早くメッセージを打ち込んで送信すると、幻太郎の通知音が目の前で鳴り、『絶対反対』ってガキみたいなコメントを読んだ若草色の目がほんの少しだけ、困ったように揺れる。
「はーーヤバ。帝統めちゃくちゃ心配してんじゃん」
 俺達のやり取りを他人事のようににやにやと見守る乱数に、俺はふて腐れた気持ちになった。いいよなお前は。相手が誰か、教えて貰えたんだから。
 ――乱数のヒントが本当だとしたら、幻太郎が好きになったヤツのことを俺はどうしても好きになれそうになかった。金もなければ優しさもなく、頼るばかりで甲斐性のない年下の碌でなしなんて地雷の塊のような存在だ。応援してやんねえとって一番最初に思った気持ちはどこか遠くへ消し飛んで、今はただ、幻太郎の目を覚まさなきゃって使命感でいっぱいだった。
 ダチの恋愛を応援すんのって難しいんだな。余計なお世話だと顔にはっきりと書いてある幻太郎を見ながら、俺はお前に幸せになって欲しいだけなんだよと、胸の内で思わず溜め息が漏れた。




「げんたろー、俺今日は戻んねえから」
「はあ……ご自由にどうぞ」
 幻太郎の家の玄関で、まるで自宅のような口振りで不在を告げた俺に、真実どうでもよさそうな気のない声が返ってきた。幻太郎に好きなヤツがいると知って以来、泊まりに来る頻度が解りやすく増えた俺を、拒みこそしないものの幻太郎が持て余しているのは一目瞭然だった。
 一貫して好きな男を諦めようとしない幻太郎に、俺は説得を一旦保留にして、その替わり身辺を警護することにした。守るっつーと大袈裟だけど、要するにちょっとしたお節介だ。幻太郎は好きな男のことを良い人だと言い張るけれど、俺から見た幻太郎は好奇心が旺盛すぎて変わったものを好きになるところがあるし、絆されやすい一面もあり、周りにロクな男がいないという不運も相まって(仕事相手としては問題ねえんだろうけど)、心配するなと言う方が無理だった。
 暫く張り付いてりゃ当人が現れるだろうと、いつ遭遇しても追い払えるように備えて数日が経っていたが、今日は生憎ヨコハマででけえ賭場が開かれる日だった。逸る気持ちで早朝から身支度を調えながら、頭の中に引っ掛かっていたのは、もしも今日その男が現れたらという懸念だった。
 賭場には行く、だけど幻太郎を一人にするのも心許ない。気掛かりを残してギャンブルに向かうのはスッキリしねーなあ……とモヤモヤしながら玄関を後にした俺の内心とは裏腹に、視界を刺す朝日は眩しかった。予報通り快晴になりそうだと思ったところでふと閃く。
「お前も来るか?」
「え、何でですか」
「理鶯さんに会いに行くんだけど、スゲー良い人だから紹介してやるよ」
 賭場のついでに寄るつもりだった相手を思い出し、悪くない思い付きだと俺は頬を緩めた。そーだよ、理鶯さんなら最高じゃん。
 料理はウメえし、親切で金もめっちゃ持ってて甲斐性もある。ライフハックのプロだから締切前になると荒れる家の中を支えてくれるだろうし、ラップもすげー強いから幻太郎を安心して任せられる。何より、信念を持った生き方をしてるから、幻太郎もきっと気に入って今の碌でなしから心変わりしてくれるかもしれない。
 にこにこと満面の笑顔で誘う俺に、幻太郎は不機嫌そうに眉をひそめた後「行きません」と素っ気ない声を出した。
「えー、いいじゃん行こうぜ。理鶯さんのメシうめえよ」
 脳裏に浮かんだのは、最近よく見掛ける、小説に煮詰まって疲れた顔で台所に立つ幻太郎の姿だった。気晴らしになるんじゃねえかと思ってなおも言い寄ると、何が気に障ったのか幻太郎は声を荒げて怒り始める。
「そんなに気に入ってるなら、今日と言わず暫くお世話になってきたらどうです? 貴方ヨコハマが随分お気に入りみたいですし!」
 いや、ギャンブル終わったらとっとと戻ってくるつもりだけど……と言い返す隙も与えられず、乱暴な音を立てて玄関は閉められた。インターフォンを押しても反応は無く、仕方が無いので追い出される形で俺は家を後にする。
 紹介しようとしたのがマズかったんだろうなあと思い至って、胸にもやがかかるような冴えない気持ちになった。お節介を焼いている自覚はあったが、理鶯さんは多分客観的に見ても立派な人間だ。それなのに、そんなに幻太郎は今の男がいいのだろうか。
 話を聞いて貰えない虚しさに溜め息を吐きながら、顔も名前もわからない正体不明の男に、俺は焦りを覚えていた。




 土地勘を身につけた足は、賭場の連中を上手く撒きながらヨコハマディビジョンの森の中を駆けていた。最近では賭場を見つける時と同じように野営地にもうっすら勘が働くようになっていて、この辺にいねえかなーと掻き分けた茂みの向こうにまさに包丁を握る人物を見つけ、思わず名前を呼ぶ。
「理鶯さあん!」
 手を振って目が合うのを待つと、気配を察していたのか、理鶯さんは驚く素振りもなく「六時の方向に真っ直ぐ歩け」と俺を呼び寄せた。
 知り合って日が浅い頃、何も知らずに駆け寄って罠に嵌まった事のある俺は、理鶯さんの野営地を見つけても迂闊に近寄ったりはしない。
「随分騒がしかったが、トラブルでも起きたか」
「や、ヘーキっすよ。ただ走り回ってすげえ腹減ったんで……お願いします! 何か恵んでくださ〜〜〜〜い!」
 手を合わせて頼み込むと、理鶯さんは嬉しそうに頷いた。
「丁度良かった。左馬刻も銃兎も都合がつかなくてな、有栖川に振る舞えるなら本望だ」
 俺は理鶯さんには一飯どころか百飯くらいの恩があるが、今まで嫌な顔をされた記憶は一度も無い。やっぱ器が違うぜと感動する一方で、食事の後片付けくらいしかこなせない自分の不甲斐なさが胸にちくりと刺さった。
「なんか手伝いましょーか?」
 得体の知れない不安のようなものが過ぎり、思わず口にしたが、「では配膳を」と短い指示が返ってきただけだった。料理は理鶯さんの楽しみだから俺の出る幕はない。それは解りきっている事だったが、食事を振る舞われたいした恩も返せず甘えているだけの俺が、急にもどかしく思えた。
 ヨコハマの森の中で、ふいに幻太郎の家に居る時みてえな錯覚を覚える。理鶯さんと違ってあいつはタイミングが悪ければ思い切り嫌そうな顔をするけれど、飯も風呂も寝床もいつだって許されていたのは事実だった。それなのにまだ借金さえ返せていない俺って、何なんだろうな。一緒にいて、釣り合いが取れてねえんだよなあ……。

「理鶯さんて恋人いるんすか」
 食事を終えた後、今日一番確認したかった事を尋ねると理鶯さんは珍しく目を丸くしていた。
「あ、聞いちゃマズい話でした?」
「いや、問題ない。今は居ないし、有栖川からそういった話題が出たのが意外だっただけだ」
 食後のコーヒーを傾けながら微笑む理鶯さんには大人の余裕があった。二十八歳と二十四歳なら、丁度バランスが良いんじゃないだろうか。二十八かあ、俺の八年後って絶対理鶯さんみてえな大人とは程遠い気がする。
「相談したいことでもあるのか」
「あ、ハイ! えーっと、実はダチに紹介できる人を探してて。俺は理鶯さんの事尊敬してるんで、一度会ってもらえたら有り難いんすけど」
 口を開きながら、二人が隣り合う光景を想像する。ぺらぺらと意味の無い話を捲し立てる幻太郎が相手でも、理鶯さんの穏やかな態度は崩れないだろう。一つ一つをちゃんと聞きとめて、適当に聞き流すようなことはしない優しさは幻太郎を喜ばせるんじゃないだろうか。騙される度にいつもムキになってしまう俺では無理だと痛感する。
「すまないが」
 想像を膨らませていた俺は、理鶯さんの声に慌てて意識を戻した。
「小官には果たすべき大義があり、今はその時期ではない」
「そうすか……」
 芯の通った断りに、俺はがっかりする筈だった。理鶯さんしかいねえって確信していたのに、その人が駄目となれば途方に暮れるのが当たり前だろう。
 でも何故かこの時、俺はホッとしていた。口から漏れたのは溜め息ではなく安堵で、それに気付いて自分でも動揺する。
「……貴殿さえ良ければ、左馬刻や銃兎に当たってみよう。二人とも小官と違って顔が広いから、良い出会いがあるかもしれないぞ」
「え、あ、平気っす!」
 願ってもない申し出だった。けれど口が勝手に断りの言葉を吐き出し、俺はますます混乱する。
「有り難えけど、あの……自分の目で見極めたいんで」
 マッドトリガークルーの残り二人とは殆ど面識が無かったが、日頃の理鶯さんの口振りや俺の直感から察するに信じて良い人間だと思う。悪くない提案なのに、どうしてこんなに乗り気になれないのか不思議で、そして落ち着かない。
「貴殿は友人思いなのだな」
 朗らかに笑った理鶯さんの言葉は俺の胸を刺した。ぎこちない笑顔を返しながら、胸の奥がすうっと冷えていくのを感じる。
 幻太郎は大事なダチだ。惚れた腫れたはビョーキみてえなところがあるから、変な男に引っ掛かりそうになってるなら止めてやりてえし、誰からも認められる最高の人間と幸せになって欲しい。
 俺みたいに素寒貧だったり、締切も把握せず家に押しかけたり、危ねえ仕事を手伝わせたり、こっそり名義を借りて借金をするような人間では幻太郎にふさわしくない。俺はつくづく、俺が望む幻太郎の相手と真逆の存在だった。
 野営地を後にし、明かりのない森の中を歩きながら俺は自分に言い聞かせた。明日からもっと真剣に探す。今日は断ってしまったけど、シブヤでもどこでもいい、幻太郎に相応しい最高の相手を男でも女でもいいからちゃんと見つけて、あいつを幸せにしてやりたい。
 賽に頼らなくても、それが最上の手であることは解りきっていた。それなのに――決意を固めた後の足取りは何故か重く、満点の星の下を俺は暗い気持ちで歩き続けていた。




 シブヤに着く頃にはとっくに日付が変わっていたが、書斎に明かりが灯っているのを確認して俺は躊躇いなく戸を叩いた。夜中にインターフォンを連打するのは近所迷惑だと前に叱られて以来、夜中の訪問はそっと扉を叩くことにしている。然程待たずに扉が開いて、不用心だなと俺は身勝手なことを思う。
「……暫く来ない筈では?」
「や、俺そんなこと言ってねえから」
 追い返されたくなかったので、薄く開いた隙間からするりと家の中に潜り込むと、小さな溜め息が耳に届いただけで幻太郎は怒ってはいないようだった。今朝の不機嫌は一体何だったんだろうか。最悪家に入れてもらえない展開も考えていた俺は、予想が外れて少しホッとした。
「原稿どお?」
「まあぼちぼちですよ。今のところね」
 ふーんって頷きながら様子を伺うと、幻太郎の顔色も家の状態も比較的穏やかで、どうやら嘘は言ってないようだった。これなら良いかと、俺は遠慮無く靴を脱ぎ客間へと向かう。
「泊まっていい?」
「家に上がってから聞きますか、それを」
 俺の後ろを着いてきた幻太郎は、呆れた声を出しながら、けれどノーとは言わなかった。
「お風呂は入ってくださいね。貴方なんだか土っぽいですよ」
「あー、理鶯さんトコ行ったからなあ」
 畳を汚すのはまずいと思い、客間に飾られている鏡の中で自分の装いを確認していると、「ふうん」と背中越しに幻太郎の呟く声が落ちた。空気がピリッとひりついた気がして鏡越しにちらりと視線をやると、今朝と同じ不機嫌な顔が映っていて、
「小生はもう寝ますので、後は適当にどうぞ」
 と素っ気なく突き放されてしまった。部屋を出て行こうとする腕を慌てて掴み、俺はポケットの中を漁る。
「待て待て幻太郎、渡したいものがあるんだよ」
 怪訝そうな顔を浮かべて場に留まった幻太郎の手のひらをこじ開けて、俺はポケットから取り出したものを乗せた。紙幣が数十枚、それからその上に一粒の宝石が輝く。
「泥棒した訳じゃねーからな!」
「……いや、解ってますけど。そこはテンプレじゃないですか、言わせてくださいよ」
 大袈裟な程に顔色を変えた幻太郎が何を言い出すのかなんて察しが付いていたので、先回りして否定すれば不満そうに文句を言われてしまった。
「お札の方は返済でしょうけど――これは一体何ですか?」
「ルビー。ホンモノだぜ、多分」
 素手で触るのは気が引けたのか、幻太郎は袖で摘まんだ石の塊を興味深そうにしげしげと眺めていた。
 綺麗に成形されたそれは、今日の参加者に用意されたチップだった。勝ちを重ねる度にカラット数が増えたチップは、途中で警察が乗り込んで来なければもう少し大きくなっていただろう。邪魔者が入って賭場から逃げる際、こいつの使い道を俺はずっと考えていた。
 ギャンブルに勝ったことの自慢だと思ったのか、暫く鑑賞した後宝石を俺に返そうとする腕を突っ返して願った。
「お前にやる」
「え?」
「その替わり、例の男のことは諦めろよ」
 幻太郎の目が、手のひらにルビーを乗せられた時よりももっと大きく見開かれた。
「俺、お前に好きなヤツがいんの、マジで嫌なんだけど」
 金で幻太郎の気持ちが変わるとは思ってないけど、心変わりを促せるなら何を差し出しても良いって俺は思ってて、それをどうにか幻太郎に伝えたかった。
 喉の奥に乾きを覚えながら、生唾を呑み込んで返事を待つ。どうしたら諦めてくれんのって、縋るような気持ちで宝石ごと幻太郎の手を握る。突っ返されたくなくて思わず力の籠もってしまった俺の指は、けれど幻太郎のたった一言で呆気なく力を失ってしまった。
「お返しします」
 穏やかな声だった。
 俺の無茶苦茶な頼みにも怒った様子はなく、波のない海面みたいなやわらかで清々しい顔で、幻太郎は絶望的な言葉を口にする。
「恥ずかしながら、初恋なんです。誰にも……例え貴方にだって奪われたくありません」
 俺は正直、この時の記憶が曖昧だ。幻太郎の答えに頭が真っ白になって、そこから先何を言い返したのか、どう受け止めたのかよく覚えていない。
 一つだけはっきり頭に残っていたのは、客間の鏡に、真っ赤な顔で俯く幻太郎と真っ青な顔でそれを見つめる俺が映っている光景だけだった。