[ bitter版 ]



 ***


 ピシャリと強い拒絶を示すような音で閉じられた玄関を前に、俺はぽかんと突っ立っていた。数秒呆けた後にハッと我に返って扉を数度叩き、幻太郎を呼んでみたが応答は無い。固く閉ざされた扉を前に、頭を掻きながらも俺は諦めて踵を返した。 
 取材旅行とやらで長らくシブヤを不在にしていた幻太郎がようやく帰って来て、土産があるだとかで久し振りに家に上げて貰って、二人でメシ食って雑談してあとは寝るだけ……と言うのが俺の想像していた今夜の流れだった。けど、雑談に乗じてここ最近つけっぱなしだった指輪を預かってもらおうと頼んだら、幻太郎の顔色が急に悪くなった。気分でも悪ィのかな、そういえばこいつスゲー酒飲んでたし、と心配になり狼狽えたが、俺を家から追い出した勢いはどっちかっつうと元気そのもので、体調が悪いというよりは俺の言動の何かに機嫌を損ねるものがあったのかもしれないと考えた方が、しっくり来た。
 図々しかったのかもしれない。シブヤに帰ってきたばかりでゆっくりしたいと言っていたし、俺が当然のように寝床を強請ったのは、考えが足りなかったのかも。
 久し振りに幻太郎に会えて浮かれていた自分を顧みながら、俺は爪先を乱数の事務所へ向けた。ポケットからスマホを取り出して今夜の寝床を無心すると、瞬きをする間もなくOKのスタンプが返ってくる。安堵しながらスマホを仕舞い、俺はシブヤのネオンの中に身を紛らせた。

「えっ、どーしたのそれぇ?!」
 出迎えた乱数の、素っ頓狂な第一声は俺のはめていた指輪に向けられたものだった。煌々と明るい事務所の照明に埋もれることなく、値段なりの輝きを放つ石に乱数の視線は釘付けになっている。
「あー……」
 薬指が埋まった状態で会うのは初めてだった事に気付いて、俺はがりがりと頭を掻いた。口を開きかけたが説明の仕様がなくて、言葉は音にならなかった。
「ソファー借りるな」
 俺の言葉をじっと待つ乱数に居心地の悪さを覚えて、逃げるようにそそくさといつもの定位置に向かう。背中を向けた俺に、乱数は一言だけ問い掛けてきた。
「幻太郎と会ってきたの?」
「おう。泊めて貰おうと思ってたんだけど、失敗したわ」
「そっか」
 短いやり取りの後、乱数が作業に戻った音が耳に届く。仕事に区切りが付いたら乱数は自宅へ戻ると言っていたから、明日は早めに起きて出て行こうと決めて、ソファーに丸まった俺はフードを被り自分の殻に閉じこもる。眠る為に閉じた瞼の裏には、またあの光景が浮かんでいた。

 中王区で久し振りに再会したお袋の手を思い出す。
 マナーの染み付いた所作で綺麗に重ねられた両手には何の装飾も無くて、俺はあの時本当に一瞬だけ、息を呑んだ。
 ガキの頃の思い出は多くねェが、家に居た頃のお袋の左手にいつも指輪が光っていたことは覚えている。悪戯をした俺を叱る時も、頭を撫でて褒める時も、肌身離さず身に着けていたから指輪はお袋の一部なんだと思っていた。――やっぱりアイツは俺の知らない人間になっちまったんだなと思い知らされた気がして、もとより未練は無かった筈なのに、第二回ディビジョンラップバトルの出場券を手に入れ優勝を果たしてからも、指輪の無いまっさらな手が時折思い出された。
 父親の記憶は殆ど無い。家では誰も話題に出さなかったし、元々居ない人間のことを考えるより、退屈な日常をどう変えてやるか、その事ばかりをあの頃の俺は考えていた。
 ただ、お袋は親父のことを忘れていないんだなと漠然と思っていた。だって薬指がいつも光っていたから。単純な俺は、足し算の答えを出すようにそう思い込んでいたし、大事な人間には指輪を贈るもんだと勝手に決めつけていた。だからこそ、俺が渡したネックレスを幻太郎が肌身離さず身に着けていることに気が付いた時、じゃあ次は指輪だなって、俺は何の躊躇いも無く店に向かってしまった。

 *

「どーしても駄目か?」
 食い下がった俺に、幻太郎が無言で俯いている。西日が眩しく差し込む幻太郎の家で、俺達はまた同じ問答を繰り返していた。
 幻太郎に再び呼び出されたのは、不機嫌に追い出された日から一週間後のことだった。来るなって言われちまった俺の寝床は乱数や賭場仲間や公園を転々としていたので、呼び出されて断る理由はない。いそいそと向かった先で、出迎えてくれた幻太郎に俺は前回の追い出しを詫びられて、ちょっと豪華な昼メシを出され、俺達の間には普段と変わらない空気が流れていた。だから、ワンチャン狙ってみたんだよな。
「これ、預かっててくんねえ?」
 一週間前と同じセリフを口にした瞬間、幻太郎は目に見えて動揺した。
「今夜行く賭場はちっとやべえトコだから、巻き上げられると困るんだよ」
 昼食と一緒に出された酒を飲まなかったのは、今夜のギャンブルに備えての断酒だった。万が一負けて取り上げられる心配が二割と、それを口実に幻太郎の家に指輪を置いておきたい気持ちが八割だ。ポケットから取り出した指輪を幻太郎へ差し出すと、困惑した顔で首を横に振られた。
「ごめんなさい。乱数に頼んでください」
「何で。別に良いだろ、かさばるものでもねぇし」
 少し粘ってみたが、幻太郎の顔色が段々悪くなっていることに気付いた俺はそれ以上強請ることを諦めて、幻太郎の体調を優先した。
「……お前、顔色悪くねえ?」
「そんなことありませんよ。昨夜は徹夜だったから、寝不足なだけです」
 幻太郎はそう説明するが、徹夜でハイになっている普段とは違う、覇気の無い萎れた言動がどうにも引っ掛かる。不安になった俺は、勝手知ったる押し入れの中から布団を引っ張り出し、嫌がる幻太郎を無理矢理寝かし付けた。まだ夕方なのにとぶつくさ零す幻太郎だったが、「賭場が始まるまで居るから仮眠しとけ」と少し強い口調で言い聞かせると、諦めたのか素直に瞼を閉じた。
 一飯の恩にと食後の洗い物を終えて戻ると、文句を垂れていたわりに幻太郎は熟睡していた。血色の良いいつも通りの顔色にホッとしながら、俺は布団の横に腰を下ろす。特にする事も無いので幻太郎の寝顔を眺めている内に、ふと思いついてポケットから指輪を取り出してみた。
 躊躇うこと無く、幻太郎の手を取りそれを指にはめてみる。俺よりやや細い左手の薬指が光ったのは僅か数秒で、幻太郎の手を離した瞬間指輪は呆気なく落下してしまった。何も考えずに俺の指のサイズで買ってしまったから、そりゃそうだろう。
 慣れないことはするもんじゃねーなと溜め息を吐きながら、畳に転がった指輪を見つめる。お袋の手から離れた指輪はどこへ行ったんだろうかと、考えても仕方の無いことが頭を過った。
 まるで身体の一部みたいにずっと大事にしていたものでも、捨てる事はある。そんなの当たり前だし、珍しい事でもないと理解しているが、指輪の無いお袋の手を見て以来、幻太郎に指輪を渡す気持ちは無くなってしまった。
 幻太郎はヘンな奴だけど、情の深い人間だと知っている。人や物を大事に扱うことが出来て、今だって首元には俺が贈ったネックレスが光っていた。ネックレスだろうが指輪だろうが、俺や乱数から貰ったものなら喜んで身に着けるだろう。
 ――でもそれは、期限付きの優しさだ。お袋の手から指輪が消えたように、宝石が変色したり曇ったりするように、変わらないものはこの世に無い。俺でさえ、優勝を誓ったディビジョンバトルではギャンブルより大事なモノがあった。
 畳に落ちた指輪を拾ってじっと眺めた後、部屋の隅にあったゴミ箱に向かってそれを投げた。乾いた音がしたのは、紙に当たったからだろう。幻太郎の家のゴミ箱はいつも書き損じの原稿用紙やネタを書いたメモで溢れている。
 渡せなくてもどうにか持っていて欲しい、そう思って家に置いてくれと頼んだけど、断られて良かったのかも知れない。幻太郎が生き甲斐にしている小説の抜け殻と一緒に回収されて燃やされるなら、まあ悪くない終わりに思えた。
 指輪の無くなった身軽なポケットに手を突っ込み、スマホを取り出す。賭場へ向かう時間なのを確認して、俺は幻太郎の家を静かに抜け出し、夜のシブヤへ爪先を向けた。少し歩けばネオンの溢れる雑踏にあっという間に包まれる。賭場へ向かうためのこの光があれば十分だと、今は思えた。