[ sweet版 ]



 ***


 ピシャリと強い拒絶を示す音を立てて閉じてしまった玄関を前に、あーあやっちゃいました、と自嘲しました。勝手に好きになって、失恋して、嫉妬して。とてもじゃないけれど立っていられなくて、壁に背中を預けてずるずると座り込みます。膝を抱えて深い深い溜め息をゆっくり吐き出すと、呼吸とともに涙もぼろりと零れ、床には点点と涙の跡が増えてゆきました。
 帝統の薬指できらきらと光っていた指輪は、意匠の凝った一点物のようでした。少し今っぽいデザインは二十歳の帝統に違和感なく馴染んでいて、お相手の年齢は帝統と近いんだろうかと想像が広がります。悲しいかな、こんな時でさえ、好いた相手の馴れ初めを創造するのが止められない。職業病とは厄介なものですねえと鼻を啜りながら泣き続けていると、固く閉じていた筈の玄関が突然開きました。
「幻太郎、いっるー?!」
 乱数の明るい声にびくりと肩を揺らして顔を上げると、目が合い、何も知らない乱数がみっともない貌をした小生に瞳を丸く見開きました。
「ど、どうしたの? 原稿落としちゃった?!」
 おろおろと狼狽えた乱数は、転がるように三和土を飛び越えて小生の元に駆け付け、頭を優しく撫でてくれました。普段の女性相手に発揮されるスマートな振る舞いなど跡形も無い、ぎこちなく慰めてくれる様がなんだか胸に染みて。失恋で瓦解しきっていた心はあっさり白旗を揚げ、驚く乱数に抱き付いた小生は全てを洗いざらい打ち明けていました。

 *

「なー。幻太郎ってば。なぁ、聞いてる?」
「はいはい聞いておりますよ。お馬さんで勝って、バカラで負けて、没収されそうになったところを死守して小生の家へ逃げてきたんでございましょ」
 書物机に向かって二日後が締切の原稿用紙と必死に格闘している、丑三つ時をとっくに過ぎた晩のことでした。修羅場中の小生の背中に、風呂上がりのギャンカス男が呑気な声をひっきりなしに投げかけそして勝手に落胆しています。
「なんだよ、反応悪ィなぁ」
「うちは駆け込み寺じゃないんですからね。風呂とカップ麺にありつけただけでも僥倖だと思いなさいな」
 振り返って呆れた視線を向けてやると、不満そうに口を尖らせながらも帝統は何も反論できないようでした。膝の上に無造作に置かれた手には、没収されそうになり死守したという例の指輪が今夜も変わらずに輝きを放っています。
 じっと見つめる小生の視線に気付いたのか、帝統の顔色がにわかに浮き立ちました。
「気になる?」
「何がですか?」
「コレ。預かってくれる気になったか?」
「イヤですよ、そんな高価そうな指輪。何かあっても責任取れませんし、乱数にでも頼んだらどうですか」
 そわそわと落ち着かない様子で指輪を見せつけてくる帝統を一瞥し、乱数の名を出すと、途端に帝統は言葉に詰まりました。そりゃそうでしょうね。乱数に預ける――ということは、乱数から預かっていたその指輪を返すことになってしまうんですから。
 黙り込んだ帝統に内心毒づきながら、小生は再び原稿用紙に目線を戻し、その晩はもう帝統を振り返ることはしませんでした。


 脱稿した原稿用紙を無事に担当者へ渡し終えたのは、帝統の訪れから二日が経った昼中のことでした。
 くたくたの身体を卓袱台に伏せ、脱稿の喜びと安堵に浸っていると、ふいに机上のスマホが通知音と共にちかちかと明滅を繰り返しました。机に頬をつけたまま画面を確認すると、乱数から『そろそろ帝統をどうにかしてよぉ』と嘆願のようなメッセージが届いており、(遊びすぎましたかねぇ)と思わず苦笑します。指を滑らせて送った返信は、あと一日待って欲しいという内容でした。
 帝統に失恋したと思い込んで途方に暮れたあの日、思いがけない真相を教えてくれたのは、小生の帰京を知って訪ねてきた乱数でした。
 涙混じりに訥々と帝統が身に着けていた指輪を説明した小生に、気まずそうに口を開いた乱数曰く、あれは撮影の小道具とのことでした。
 ………………はぁ? って思いましたよ。数ヶ月振りに会えた片思い相手に失恋の決定打を打たれ、感情の乱高下に一人盛り上がっていた小生は、掌編のオチみたいにあっさりと種明かしをされてしまいその落差を飲み込むのにやや時間を要しました。
 焦りながらも懇切丁寧に言い含めてくれた乱数の説明によると、あの指輪は借金の返済代わりに帝統をモデルに起用した際に着用させた小道具でした。何故回収しなかったのかと問うと、スタイリストの女性がデッドオアアライブのファンでプレゼントしたいと申し出たそうです。けれど、指輪が予想以上に高額なものだったと知った乱数は、後日帝統へ必ず返却するように言い含めたとのことでした。質屋へ入れたい衝動を何とか抑えつつ、なくす訳にはいかないからと指にはめたままにしていた帝統と、そんな事情を知らない小生が久し振りに再会し、そしてその場に乱数が居なかったことから誤解が生じた――それが事の顛末でした。
 事実を飲み込んだ時の、全身の力が抜けたような安堵感を今でも覚えています。安心のあまり再び瞳を潤ませた小生に、また頭を撫でてくれた乱数も、どこかホッとしたような表情を浮かべていました。


 そんな風に真相を知り、何の不安も無い日常に戻れた小生でしたが、時折訪ねてくる帝統の態度におやと首を傾げる機会が徐々に増えました。転機は確か、SNSでちょっとしたトラブルが起きた頃だったと記憶しています。
 肌身離さず指輪を身に着けている帝統に気付いたファンが隠し撮りをアップしたのを切っ掛けに、帝統の恋愛事情を勘繰る声が上がっていると乱数が嘆いていました。事情を説明するとスタイリストに批判の声が向けられそうだし、かと言って放置するにはファンの動揺が大きすぎると眉を曇らせる乱数に、渦中の本人は全く無関心な様子を見せました。「そんなことより、今月の生活費全部スッちまった……!」と青ざめていて、薬指に指輪をはめつづけるという行為が招く誤解の大きさを理解している素振りはありません。
 帝統らしいな、と半ば呆れながら見守っていた小生でしたが、そんな彼の態度は日が経つにつれ段々とあからさまに変化してゆきました。
 やたらと指輪の存在をアピールするようになったのです。何故か、小生だけに。
「賭場で没収されかけて焦ったわ〜」と言っては指輪が大事なモノだと暗に主張し、「これ着けてっと飲食店のバイトができねーんだよなァ」と愚痴りながら小生の顔をちらちらと見てくるし、「公園で寝泊まりして盗られたら怖えから暫く泊めてくんねえ?」と頼み込んでは毎晩やってくるようになりました。
 会話の中に指輪の登場頻度が増えたどころか、話す内容のほぼ半分は指輪をアピールする帝統とそれをスルーする小生、というのが最近の流れです。相槌を打っていたのは最初の一日だけで、それ以降は適当に右から左へ聞き流しつつ、いつまでも知らない女から貰った指輪を身に着け続ける帝統に苛立ちを覚えていました。
 けれど、それ以上に心が浮き立つような確信を持ち始めてもいて。


「幻太郎はさ、俺にキョーミねぇの?」
 入稿した晩、懲りずに泊まりに来た帝統を居間へ迎え入れると、開口一番にそんな問いを投げかけられました。
「え。何の話ですか」
「……何か気付かねぇ?」
 おや、と思ったのは帝統の声が少し落ち込んでいるような声音だった事と、それから、彼の左手の薬指にあった指輪が消えていた事でした。
「あ、指輪外したんですね」
「……それだけ?」
 左手を一瞥しただけの小生に、帝統は落胆を隠しませんでした。その言動が意味するものに一つだけ心当たりがあります。
「帝統、こっちへいらっしゃい」
 手招きすると、ふて腐れた顔をしながらも帝統は素直にやって来て、卓袱台に頬杖を突く小生の隣に腰を下ろしました。
 そんな彼の左手を掬い取り、薬指をしげしげと眺めます。根元に少し窪んだ痕が確認できて、見知らぬ女の贈った指輪が帝統に残した痕跡を握り潰すように、彼の薬指を強く抓んでやりました。
「痛ってェ!」
「そりゃそうですよ、全力でやってるんですから」
 困惑した表情を浮かべた帝統に溜め息を吐いて、
「懸命にアピールして気を引こうとする姿は可愛かったんですけどね。あまりしつこいと、逆効果なんですよ」
 と教えてやりました。
 落ち着かない様子でこちらの顔色を伺いながら、日々指輪を見せつけられれば何となく察することが出来るというものです。ああ、気にかけて欲しいんだな、と。
 もとより帝統はゼロか百の男で、その言動には彼なりの意味や関心が含まれていることが殆どでした。SNSの騒動以降、シブヤを歩く度に指輪に対する指摘を受けた帝統が、遅まきながら薬指の特別さを自覚し、そして自分に好意を寄せる人間が指輪の存在に一喜一憂する姿で閃いてしまったらしい。これを使えば小生の本心が見れるのではないか、と。
 けれどそんな帝統の企みは乱数がこっそり教えてくれていたので、小生には通用しませんでした。これ見よがしに指輪をチラつかせる帝統を適当にあしらいながら、こちらの反応の薄さに逆に一喜一憂している帝統を眺める時間に喜びを感じたものです。まあそれと同じくらい、いつまでも帝統の薬指に居座り続ける小道具に嫉妬を覚えたのも事実ではありましたが。
「まさかお前、気付いてたのかっ?!」
「ええ、まあ。貴方は解りやすいですからね」
「何だよ、恥掻いただけかよ……じゃーとっとと質に入れときゃ良かったぜ……」
「それはやめておきなさい。後が怖いですから」
 乱数に叱られることを暗に示すと、察した様子の帝統がポケットから指輪を取り出し、慌てて小生に押しつけてきました。
「乱数に返しといてくれ。俺が持ってるとぜってー売っちまう」
 焦った顔の帝統に苦笑しながら、複雑な気持ちを飲み込んでそれを素直に受け取りました。こんな形で好きな男から指輪を渡されても嬉しくはなかったけれど、ふと思い付いて、帝統に贈られた指輪を小生の薬指にはめてみました。少し緩いけれど、デザインが良いからか意外と違和感なく納まっています。左手を照明に向けて掲げるとより一層輝きが増して、贈り主に意趣返しができたような気持ちになりようやく溜飲が下がりました。
 そんな風に満足していると、掲げた左手を突然掴まれました。少し怖い顔をした帝統が小生の薬指から指輪を引き抜き、「何ではめんの」と不愉快そうな表情を浮かべます。
「お洒落な指輪ですし、返す前に少しくらい楽しんでも良いじゃないですか」
「そーだけど……」
 贈り主に嫉妬した本心は恥ずかしくて言えないので、当たり障りの無い正論を返してやると、帝統は子供のように口を尖らせて
「なんか腹立つから、ダメ。指輪がしたいなら俺が一発当ててやっから」
 と素直な心情を吐露しました。
 こんな時、帝統には敵わないなと痛感します。むず痒い感情で胸が満たされるのを感じながら、少し躊躇った後、
「嬉しい。待ってますね」
 と、小生もたまには本音を言ってみようかと口を滑らせてみました。