[ Dの夜明け ]


 1

「俺と別れてくれねぇか」
 よく晴れた、蒸し暑い午後の事でした。
 玄関のチャイムが鳴ったのは、そろそろ昼休憩にしようかとペンを置いたタイミングで、出迎えればそこに立っていたのは帝統でした。一瞬だけ胸がざわり、と嫌な予感を覚えたのは、今思えば第六感が働いたのでしょうか。合い鍵を持っている帝統がチャイムを鳴らしたのは、付き合って以来初めての事でした。
 この時間に訪ねてくるとは、さては昼飯をたかりに来たかと、冷蔵庫の中身を思い出しながら台所へ向かおうとすると腕を取られました。
「すぐ帰るから、茶はいらねえ」
「……そうですか」
 帝統の眼差しにただならぬ決意を感じました。胸がざわざわと騒いで息苦しさを覚えたのは、帝統に好きだと告げられた日から、ずっと手放せずにいた不安が今まさに訪れるんじゃないかと、悟ってしまったからかもしれません。
「頼みがあって来たんだ。幻太郎、俺と――」
 嫌だ。嫌だ嫌だ、頼む、言わないでくれ、と喚く声が出そうになり慌てて口を噤みました。強く下唇を噛んで、小生が声を押し殺している間に、帝統は自分の言いたいことを全て告げてしまいます。
「わかりました。ところで、昼は食べていきますか? 丁度今から作ろうと思っていたんです」
「え……」
「素麺でよければあなたの分も湯がきますよ」
 およそ恋人に別れを告げられたとは思えない素っ気なさで、昼飯の有無を尋ねた小生に、帝統の目がまんまるに形を変えました。先程までの思い詰めた表情は消えて困惑の色を浮かべています。ええ、ええ、解ります。こんなにすんなりと別れ話が通るなんて、普通予想しないですよね。
「幻太郎、俺の話わかってる?」
「ダチに戻りたいんでしょ。いいですよって言ったじゃないですか」
 頼むから二度も言わせないでくれ、とは心の中だけで呟きながら、できるだけ重くならないように表情を作りました。
「で、食べていきますか?」
「……いらねえ。俺、もう行くわ」
 重ねて問えば、帝統は僅かに眉間に皺を寄せました。くるりと向けられた背中に「行ってらっしゃい」、といつもの癖で答えてしまいそうになり、慌てて口を噤みました。ガラガラ、ぴしゃん、と築年数の古い小生の家の玄関が無機質な音を立てて閉まります。扉一枚隔てた向こうへ帝統が消えた瞬間、小生も踵を返して台所へ向かいました。一人分の昼食を作るために。
 ぐらぐらに沸いた湯に素麺を放り投げ、薬味の葱を二本だけ掴み取り、まな板に乗せます。どちらもシブヤのスーパーで買ったものではなく、地方から納税の見返りに届いた返礼品でした。選んだのは帝統だったな、と思い出しながら包丁を入れると、青々とした葱の色鮮やかさはあっという間に滲みました。
 ぼたっ、とまな板に落ちた大きな雫は、小生の瞳から零れた涙で、一度落ちてしまえば後はもう、とめどなく流れるばかりでした。まるで泉のように次から次へと、帝統を想う気持ちが落っこちていきます。
 帝統。帝統、大好きです。いつかこんな日が来るだろうなと解っていましたが、一秒でも長く一緒にいられたらいいなって夢を見ていました。夢はいつか覚めるものだと、知っていた筈なのに。
 二十四歳にもなって、べしょべしょに涙を零しながら、暫く素麺は食べられないだろうな……とぼんやり思いました。四つ年下の男は、小生が生まれて初めてまともに愛した恋人で、彼と過ごす時間に起きるひとつひとつの出来事は、どんなに些細でも硬い宝石のように、この身の内で鮮明に輝いてしまうのです。例えそれが、悲しい出来事だとしても。
 小生が突然の別れを告げられたのは、付き合って四ヶ月目、帝統と初めて迎える秋がすぐそこへ迫っていた日の事でした。



 ***



「って言うことがあったんですよね、実は」
 ずずず、とメロンソーダを啜りながら説明を終えた小生を、乱数はぽかんと口を開いて見つめていました。音を立ててドリンクを飲む行儀の悪さは、いつもなら指摘される場面なのですが、それさえも頭に入らないといった様子です。
 開きっぱなしだった唇がゆるりと動き、何度か上唇と下唇がくっついて、離れて、を繰り返した後、ごくりと唾を飲み込んだ乱数がようやく問いかけてきました。
「幻太郎、病院に行こう」
「はあ?」
「二週間も連絡がつかなかった理由はわかった。だから、病院に行こ。検査して貰おう」
「待て待て待て、腕を引っ張らないでください。小生どこも悪くありま……」
「そんな訳ないじゃん! ゴハンちゃんと食べてた? 毎晩ぐっすり眠れてた? 僕の連絡全部無視して、出版社には取材旅行だって嘘吐いて、二週間も行方不明になってた幻太郎の言うことを、俺が信じると思うなよ……!」
「声低っ……乱数、後半キャラが崩れてますよ」
「いいからつべこべ言わずに俺と病院に行け」
「キャー、こわあい、帝統はん助けてえ」
「…………」
「…………あ」
 それは極々自然に小生の口から出てしまった、名前でした。帝統。有栖川帝統。小生が乱数と軽口を交わす時は大抵彼も同席していて、三人でやいのやいのと洒落な会話を楽しむのは、つい二週間前まで当たり前だった日常でした。
 癖が抜けなくていけませんねえ。多分この場に帝統が居たなら、悪ノリして腕を絡めていた気がします。別れた相手にそんなことをするのは、マナー違反なんでしょうけど。
「あー……。あのですね、こういう事なんですよ」
「全ッ然わかんない」
 眉間にぐぐぐと皺を寄せる乱数の返事はもっともでした。あまり情けないところは見せたくないのですが、彼には小生が帝統に片想いをしていた頃から全て筒抜けでしたので、今更取り繕う必要もないでしょう。
「小生、帝統に好かれているかどうかは、あんまり関係ないみたいなんです」
「もっと解りやすく言って」
「ええと。つまり、フラれても帝統が大好きってことです」
 ……これは、二週間かけて小生が着地した結論でした。
 帝統との関係に一方的に終わりを告げられ、さめざめと泣いて暮らしたのは二日程度でした。まあ、もともと長続きしないだろうなと覚悟はしていましたし、(だって相手は帝統ですよ? 付き合うだなんて、首輪ついたペット以上に束縛される関係、あっという間に嫌気がさすに決まっています。しかも相手はこの俺、夢野幻太郎。愛が重いくせに素直にはなれず、本音なんだか嘘なんだか、はっきりしない態度で相手を翻弄する悪癖の持ち主です。素直が取り柄の真っ直ぐな気質の帝統には、とても長く付き合える相手ではないでしょう――)つまり、失恋するのなんて端から想定内でした。
 この世に生を受けた人間がいつか墓に入るのと同じこと。有栖川帝統と恋人同士になった夢野幻太郎は、いずれまた片想いに戻るのだと、最初から知っていました。帝統に好きだと告げられた日から、片時も離れず常に影のように付きまとっていた不安が、形になってしまっただけの事です。
 わあわあと泣いてスッキリしたからか、予想よりも引きずらずにすんなりと現実を受け入れることができました。そもそも小生、良くも悪くも大切な人との別離には慣れていましたし、ひとときでも帝統と付き合えた事でかけがえのない思い出が作れたのは、むしろ僥倖だと言えましょう。
 共に過ごしたささやかな日常の出来事が、どれもこれもいちいち、幸せでした。近所のコンビニに春の限定品が並ぶようになると、ウキウキしながら苺プリンを籠に入れる帝統は年相応で可愛かったし、スーパーで買い物をする時上手におだててあげると、機嫌良く十キロの米袋を二つも家まで担いでくれました。彼は意外と力持ちなんです。付き合うまでは知らなかったけれど。
 他人にとっては些細な発見さえ、得がたい宝石のように思える燃費の良さは、ろくに人付き合いをしてこなかった己の人生の副産物でした。帝統と過ごした時間はどれもこれも大切すぎる思い出で、一つ一つを反芻していたら多分、人生なんてあっという間に終わるでしょう。だから今後、他に好きな人ができることはないだろうなという予感がありました。
 そんな風に気持ちの整理がついたら、今後の事を考える余裕が生まれてきます。小生は帝統に失恋してしまいましたが、こっそり片想いをする分には何の問題もないのでは、と閃きました。
 愛想を尽かすのは帝統の自由。それならば、思慕を寄せるのは僕の自由ではなかろうか。小生、帝統からの別れはきちんと受け入れて承諾しましたし、復縁を迫るようなこともしていません。ちゃんと元の友人関係に戻ろうと決めています。
 ただ、捨てられなかった気持ちを、こっそり持ち続けたいと思っているだけでした。これって問題あります? ありませんよね?
 ――というような事を乱数へ掻い摘まんで説明し終えると、険しい表情を浮かべていた彼の肩の力がふっと抜けました。そしてたった一言。
「可哀想に」
 ぽつりと漏れたそれは乱数の、心の底から滲み出た本音のようでした。これほど慈愛に満ちた声をかけられたのは初めてかもしれません。
「あ〜〜……もう。ホント、可哀想だし、可愛い……」
 ぎゅう、と抱きしめられると、なんだか遠い昔に育ての父母に愛されていた頃を思い出しました。二十二センチの身長差をものともしない包容力に感心します。あなたのそういうところ、大好きですよ、乱数。
「――何してんの、お前ら」
 うっかり乱数の背中に腕を回して感傷に浸っていたら、この場に最もふさわしく、かつ最も部外者な第三者の声が聞こえました。
 おっといけない。そう言えば今日は、久し振りの定例会で集まっていたんでした。
「もー、何で来るかなあ。今いいところなのに!」
「そうですよ帝統。空気を読めないギャンブラーは馬に蹴られてしまいますよ。まあ、馬につれなくされるのはあなた、慣れてるんでしょうけど」
「だー! 訳わかんねえけど取り敢えず離れろや。オラ、さっさとミーティングするぞ」
 ぺったり密着していたわらわと乱数を、べりり、と力尽くで引き剥がした帝統は少し苛立っている様子でした。賭け事以外では驚くほど顔に感情が出る男なので、ははあ、さては今日は素寒貧に終わったか、と推測できます。
 負けて無一文になり、イライラしている帝統。……今夜はどこで雨風を凌ぐのでしょうか。ふと心配になり、するりと口が滑りました。
「帝統、今晩泊まりに来ますか?」
 その瞬間まず乱数の目が丸く見開かれ、次いで、帝統がはっと息を呑みました。二人の驚いた様子に、あれ、小生何か変なこと言いましたっけ、と内心たじろいでいると、「何で?」とやや硬い帝統の声が返ってきました。
「素寒貧に見えたので、今夜は宿無しかと思ったんですが……」
「心配してくれんの? ……ダチとして?」
「ええ、まあ」
「そっか」
 様子を伺うようにじっとこちらを見つめてきた帝統が、少し強張っていた表情をふいに緩めました。
「確かに負けちったけど、今夜は乱数に世話になるよ。心配してくれてサンキューな」
 言葉と一緒に返ってきたのが笑顔だったので、思わず安堵しました。
 確認を取るかのように呟かれた「ダチとして?」の一言に、一瞬狼狽えてしまった己の迂闊さが悔やまれます。帝統の中ではとっくに終わっている関係なのだから、小生が開き直って一生片想い計画を立てているなんて事は、絶対に気付かれてはいけません。
 束縛を嫌う彼に、小生の重たすぎる恋情はやはり不似合いだなあと、どこか他人事のようにぼんやりと考えていました。



 ***



「今日も……来ませんねえ」
 とっぷりと日の暮れた仕事部屋で、壁の時計に目をやりながらぽつりと漏らした独り言は、誰も居ない家の中でいやに大きく響きました。
 二ヶ月前の定例会、つまり帝統に振られてから初めて会ったあの日を最後に、帝統の姿を見かけていません。フリングポッセを結成して以来、定期的なミーティングに加えて何かと集まっては騒いだり、食事に行ったりしていたものでしたが、ここ最近は三人揃うことが少なくなっていました。
 集まったとしても、大抵誰かひとりが欠けています。納期に追われる乱数や、締切が重なった小生はきちんとした理由があっての欠席でしたが、明らかに一人だけ、意図的に不参加を繰り返している。それが帝統でした。
 小生が行けない時は素直に出席し、乱数と二人で会っているようでしたが、逆に乱数が来れない時はドタキャンをしてでも絶対に来ませんでした。定例会でこうなのだから、以前のように小生の家に立ち寄ることなど以ての外です。
 別れても友人関係は続くものだと呑気に信じていた僕は、あれ以来すっかり家に寄りつかなくなってしまった帝統に、打ちひしがれていました。
 よくよく考えれば仕方の無いことかもしれません。別れを告げられる、と言うことは帝統の中で小生への好意は消えているのです。そんな相手といつまでも付き合うはずがないと、少し考えれば解りそうなものなのに、人間の脳というのは自分に都合の悪い事実にはなかなか考えを巡らせないものでした。
 元々愛嬌があって人好きのする男です。新しい家も相手もすぐに見つかることでしょう。そう考えると、恋人としても宿としても立ち位置を失ってしまった夢野幻太郎は、もう帝統にとって必要のない存在なのだと、段々理解してきました。
 小生にとってどれだけ帝統が必要不可欠だったとしても、気持ちが一方通行ではどうしようもない。別れた途端にぷつり、と切れてしまった僕らの縁を繋いでいるのは、今やフリングポッセのメンバー同士であるという事実だけです。
 帝統と僕を選んだ乱数の思惑は未だ謎ですが、そんなものはもうどうでも良かった。僕らは同じチームメイトなんだと、名前のある関係が残っていることに心から感謝を覚えました。
 すっかりこの家の敷居を跨がなくなってしまった帝統を寂しいとは思いましたが、それよりもずっと気に掛かっている事があります。ちらりと外に目線をやると、築年数が古く建て付けの悪い窓を、風がカタカタと揺らすのが見えました。季節はもう秋です。これからどんどん冷え込んでくるシブヤの街で、帝統は今どんな風に過ごしているのでしょうか。
 付き合っている時も、それ以前の友人だった時も、帝統はこちらが驚くくらいの頻度で小生の家を訪れていました。「泊めてくださああい!」と土下座をされた回数ときたら、自称とはいえ職業にギャンブラーを掲げているとは思えないほどの負けっぷりです。(まあ、内心それを心待ちにしていたので、責めるつもりは毛頭ないのですが)
 乱数の家にはたまにお世話になっているようですが、多忙なデザイナー、そしてオネーさんと接する機会の多い彼は、家にいる頻度が小生ほど多くありません。ここ最近頭をちらつくのは、腹を空かせながら困った顔で宿を探して徘徊する、帝統の姿ばかりでした。
 すっかり筆の止まってしまった原稿用紙を前に、うーんうーんと頭を唸らせて出した結論は、帝統に会いに行こうというものでした。居場所は知りませんが行動パターンならある程度読めます。シブヤの街がネオンで輝き始めるこの時間、もし素寒貧になっているのだとしたら宿を探しているはず。だから取り敢えず、彼が本当にどうしようもなくなった時に使っている公園に行こう、と決めました。
 もしもそこに帝統が居なかったら、ああ泊まる場所をちゃんと確保できたんだなと安心すればいい。そしてもしもそこに帝統が居たなら、強引にでも小生の家へ連れて行こうと思いました。
 別れて以来、帝統は僕を気まずそうに避け続けていたけれど、そんな遠慮をする必要はないのだと解って欲しかった。
律儀な一面を持つ帝統は、元恋人を宿として頼るのはマナー違反だと考えていそうだけれど、こっちは全くそう思っていない事を知って欲しい。宿でも食事でも今まで通り立ち寄ってくれたなら、帝統が心配で胸を掻き乱されることも、会いたさで心が餓えそうになることもなくなるのだから、都合良く利用してくれたらいいのにと望んでいるくらいです。
 そんな事をつらつら考えながら、シブヤの名所の一つでもある広大な公園に辿り着くと、探し人はあっさりと見つかりました。時計台の先の三叉路にあるベンチに、見慣れた姿が腰を下ろしています。
 背中を向けている帝統はこちらには気付いていないようで、久し振りの邂逅に胸の内で深呼吸を二回繰り返し、気持ちを整えてから声を掛けました。
「だいすは〜ん」
『ダチ』だった頃の距離感を思い出しながら、空気が気まずくならないように明るい声で呼びかけます。暫く会えていなかった寂しさが堪えきれず、つい帝統の左腕にするりと自分の腕を絡めてしまいましたが、付き合う前からこういう接し方をしていたので不自然ではないでしょう。帝統なら、「ひっつくんじゃねー!」と気安く振り払ってくれるだろうと軽く考えていました。この時の小生は、帝統をどう言いくるめて家に招くか、その事で頭がいっぱいだったのです。振り向いた帝統の眼に傷付いた色が浮かんでいたことなど、気付きもしませんでした。



 ***



「――さて、今日はどんな話をしようかな」
 風を通すために僅かに病室の窓を開ければ、少し冷たい空気が室内に流れ込んで来ました。外を眺めると、病院の外壁にそって植えられたイチョウがまばらに黄葉しているのが見えます。秋の訪れを感じながら、目線を病床の友人へと戻しました。投げ掛けた質問には、当然ですが返答はありません。すやすやと眠る友人の、起きている姿は、もう長いこと見ていませんでした。
 彼の顔がよく見える位置に腰掛けながら、頭の中の書庫を行き来します。どの物語がいいかな、今日は長居はできないからなるべく短い、秋の話を語ろうか。夏が終わったことを知らない彼に、せめて夢の中でも季節の移ろいを感じて欲しい、と願いながら、ゆっくり口を開きます――。
 彼のために用意した物語を、この病室で語るひとときが小生は好きでした。反応を貰えることはまずありませんでしたが、頭の中で描いた世界を音にすると、彼と僕しかいない病室がまるで常世の春のように思えて。普段は固く結わえられた閉じた自分の心が、解放されるのを感じます。
 気を許しているのだと自覚していました。彼の前だと自分はまるで赤子のよう。良くも悪くも、取り繕うことができない。だから、気が付いた時にはぽろりと白状していたのです。
「大事な人に信じてもらえなかったんだ」、と。
 物語の途中でしたが、ぽつりと零してしまった後悔は取り戻せませんでした。震える口が、救いを求めるかのように、友人に縋ってぽろぽろと弱音を落とします。
「帝統は僕のこと、ちっとも信じていなかったみたい」
「小生の気持ち、軽いって言われました。信じられます? 君の転院を追いかけて上京して来るような、人付き合いが下手で一度好きになったら盲目的に情を注いでしまうこの僕が、軽いんですって」
「まともに付き合ったの、帝統が初めてだったんです。だから、失敗したのかな……もっと経験があれば、別れずに済んでいたのかもしれない」
「帝統の言葉をすぐに訂正すればよかったのに、驚いて何も言えなかったんだ。君に友達になろう、って言われた時と同じだった。上手く返事が出来なくて、誤解させて……帝統の信頼を失ってしまった」
「どうして俺はいつもこうなんだろう」
「一度くらい、君のように素直になってみたい」
 数日前の夜が思い出されてしまって、堰を切ったように泣き言が次から次へと溢れました。


 帝統を迎えに行ったあの日、彼はとても機嫌が悪かった。公園で帝統を見つけ、呼びかけた小生の腕は思いがけない力強さで振り払われました。「気安く触るんじゃねえよ」と返された鋭い眼差しに驚き、息を呑みました。単純で感情の出やすい男ですが、こちらに落ち度がない時に、八つ当たりのような態度を取られた記憶は今までありません。
 こんなに荒れてしまう程の何かがあったのだろうかと心配になり、強引に家に誘ったのが多分、まずかった。
「帝統、小生の家に来なさい」
「何で」
「ここに居るということは貴方、負けちゃったんでしょう。食事は済ませましたか? ちゃんと毎日食べてます?」
「うるせえなあ、お前に関係ねーだろ」
 耳障りだとばかりに顔を顰める帝統に、驚きました。普段の彼はこんな反応はしない。食事に釣られ、嬉しそうに顔を輝かせて着いてくるとばかり思っていた小生は、思わず狼狽えました。
「つうか、何でここに居るんだよ」
「さ……散歩です。原稿が行き詰まったので、気分転換に」
「ならさっさと行けよ。俺に用ねェだろ」
「ありませんよ。でも見かけたからには無視できません。泊まるところがないなら、客間を貸してあげますから」
「絶対に行かねえ」
 ぷいとそっぽを向く帝統に、内心唖然とします。何故こうも頑ななのかわからない。いつもの素直さはどこへ行ったのか、と考え、けれど彼は本来素直な気性です。言葉通り小生の家に来たくない確固とした理由があるのだろうと思われました。
 理由……理由なんてそんなの、一つしか思い浮かばない。嫌いな人間とは一緒に居たくないからに決まっています。帝統は好き嫌いがハッキリしているのです。
 「別れてくれねぇか」、と言われた小生は帝統に切り捨てられた側の人間でした。二度と思い出したくなかった言葉が頭を過ぎると同時に、中王区でのバトルも思い出されます。麻天狼の、観音坂独歩に対する帝統の態度を振り返ってゾッとしました。その内俺も、帝統からあんな風に接せられる日が来るのだろうか。
 今目の前にいる、終始不機嫌そうな帝統の姿には十分その要素が見受けられました。別れを告げられた以上ある程度の別離は覚悟していましたが、嫌悪の眼差しに耐えられる自信はありませんでした。
 想像しただけで怖くなり、思わず自分の身体を抱きしめて身を竦めると、帝統が少し焦った様子で急き立ててきました。
「お前早く帰れよ。風邪引くぞ」
 言われて気付いたけれど、夜の空気は確かに肌寒かった。外灯の足元には黄色いイチョウの葉がたくさん積み重なっていて、野宿をするには厳しい季節になりかけているのだと感じます。
「あなたはどうするんですか?」
「決まってんだろ。これから賭場だ」
 嘘だ、とすぐに判りました。賭ける元手もないくせに、せめてもの寝床を求めてこんな夜更けの公園を頼って来たくせに、賭場になど行けるものか。
 苦手な嘘まで吐いて、そんなに小生の家に来たくないのかと思うと胸にじわじわと悲しみが広がりました。
「じゃあこれ、渡しておきます」
 賭場代か今夜の宿代になればいいと、財布から数枚抜き取ったお金を押しつけると、帝統の顔があからさまに歪みました。
「……お前さァ」
「あげるわけじゃありません。十倍に増やしてきてください」
「嫌だね。俺はもう、お前から金は借りねえよ」
 汚いものでも見るような目つきで、渡したお金を突き返されました。思ってもみなかった言葉に目を丸くして、そう言えば、別れる前に貸していたお金を全額返済されていたなと思い出します。
「我が儘ですねえ。利息が嫌なら、今回だけタダで差し上げますから……」
「だから、いらねーって」
「じゃああなた、今夜どうするんですか。野宿するんですか」
 強情を張る帝統についぽろりと、本音が出ました。
「そういうところが嫌なんだよ」
「え」
「過保護で過干渉。いつまでも帝統、帝統って、俺が別れようって言ったのちゃんと覚えてるか?」
「勿論」
 慌てて頷いて、力強く肯定しました。勿論、覚えています。あんな悲しい言葉は二度と思い出したくなかったけれど、忘れたくても忘れられない思い出でした。
「関係を戻したいなんて別に思ってませんよ。でも、あなたは同じポッセのメンバーで……身内のようなものですから。気にかけるのは当然でしょう?」
 今でもしつこく好きでいる事、これからも好きで居続けるであろう事を知られたくなくて、咄嗟に被せた嘘に、帝統の顔色が悲しそうにサッと冷めました。
「お前はさあ、最初からそうだったよな……」
「何の話ですか」
「付き合っててもそうじゃなくても、何も変わんねー。俺が告白しちまったから、ダチの頼みだと思って了承したんだろ」
 淡々とした声でした。感情の少ない話し方をする帝統から、目が離せません。
「お前のスキは軽いんだよ」
 帝統が何を言いたいのかよくわからなかった。でも、溜め息と共に向けられた視線に一つだけ知れた事実がありました。
 帝統の中に、僕への信頼が全く見えませんでした。愛情は重たい方だと自負していた小生は、気持ちを疑われているという事実に、鈍器で頭を殴られたような強いショックを受けます。
 僕がずっと帝統に抱いていた、春の日だまりのような優しさや、夏の強い輝きに焦がれる気持ち、秋風に身を寄せたくなるような心地良さも、冬の雪のように全てを覆って攫って欲しいという願望――そういうものを全て、否定どころか、まるで存在しないもののように扱われて。
 別れようと言われた時よりずっと強い哀しみが胸に去来して、僕をじっと見つめる帝統に何も言えませんでした。「今でもあなたが好きです」と伝える勇気なんて、残っている筈がなかった。


「その後のことはもう、あんまり覚えていないんですよね」
 眠り続ける友人の手を握りながら、僕の話は寝物語からコイバナ(しかも愚痴)ってやつにいつの間にかすり替わっていました。何の反応も返ってこないのに、友人の前では不思議と気持ちが休まります。手を握っているのは僕の方なのに、まるで母親の腕の中で慰められているみたいな安堵を覚えて、ベッドにことりと顔を伏せました。
 少し皺の寄った白いシーツに、じわ、と透明な染みが浮かびます。やるせなくて悲しくて、涙が溢れてきました。声を出さぬよう唇を噛むけれど、かすかな嗚咽は止まりません。ワアワアと号泣したい気持ちを抑えながら、素直な気持ちが言えない自分の声帯が憎くて憎くて仕方ありませんでした。
 まだ好きでいる事を帝統に知られて、疎まれるのが怖かった。本心を悟られたくなくて、嘘を重ねた結果がこれでした。
 幻太郎の嘘は思いやりだよねと、以前乱数は言ってくれましたが、決してそうではないことを痛感します。友人のために嘘を吐くのは本当だけれど、捻くれていて、常に保身を考えていて、素直になれない俺のどうしようもない性分が嘘を吐き出すのも、また事実でした。
 作家のくせに、大事なときに言葉を間違えてしまった。口さがない読者の批判や、文壇界の同期の嫉みは胸に刺さることなく通り過ぎてゆくのに、帝統のたった一言が痛くて痛くてたまらない。誤解されるのって、こんなに辛いものでしたっけ……と涙が止まりません。
 男の失恋はやはり碌でもないなと、頬を濡らしながら恋に散っていった名だたる文豪を思い出して――はたと気付きました。
 小生、帝統に好きだと言った事があっただろうか、と。
 突然の疑問でしたが、涙はぴたりと止まりました。伏せていた顔をシーツからむくりと起こして、帝統と出会ってからの記憶を可能な限り洗い出します。ひとつひとつ大切にしまっていた欠片、そのどれにも小生からの愛の告白はありませんでした。そんな馬鹿なと、振り出しに戻ってもう一巡しましたがやはり言っていない。
 帝統からの「好き」はわりと頻繁に出てきますが(彼は思ったことをするりと口に出すのです)、それに対する小生の答えは、いつも素っ気ないものでした。「はいはい、幾ら欲しいんですか?」だの、「筆が乗ってきたのであっち行ってください」だの、ええそうです、全部照れ隠しです。でも、僕の返事に毎回面白くなさそうな顔をする帝統を、可愛いなあとは思えど何のフォローもしていなかった。
 好きだと言っていなかったことに、今更気付きました。帝統は単純で、そして意外に道理の通った男です。僕達が付き合うことになったのは、彼が僕に気持ちを伝えてくれたからでした。
 好きだ、幻太郎、と言われた時も、僕はなんて返事をしたっけ。
 唇を寄せてきた帝統に、顔を赤らめながら抵抗しなかったのは覚えています。けれど返事は。告白への答えさえも記憶にありませんでした。
 動揺していたから忘れてしまったのでしょうか。いいえ多分……僕は何も、伝えていない。帝統が僕を好きになるずっと前から彼に恋をしていた筈なのに、嘘にまみれたこの口は、告白された時も、付き合っている間も、ただの一度も本音を音にすることができませんでした。
 誤解されるのも、愛想を尽かされるのも当たり前じゃないかと愕然としました。
 僕は今まで色んなものを失ってきましたが、その前に一度でも手を伸ばして足掻いた事があっただろうか。努力をしていれば違う結果になっていたかもしれないし、例え何も変えられないとしても、こんな風に友人の前で泣く事はなかったでしょう。
 気付いてしまえば、後はもう立ち上がるだけでした。シーツを濡らしてしまったのは申し訳なかったけれど、物言わぬ友人に感謝を覚えます。彼の前でなければ、捻くれていて頑なな自分は、こんな素直な決意はきっと立てられない。

 帝統に告白しよう、と決めました。




 ***




 病室を出た後、待合室として誂えられた広いロビーの隅にひっそりと腰掛けました。ここはいつでも人でごった返していて、電話をかけるのに丁度良かった。診察を待つ人、見舞いに訪れた人、病院関係者、医薬品メーカーの営業……小生の通話に気をやる人など誰もいません。
 がやがやとした喧騒の中で、電話はすぐに目当ての人物に繋がりました。小生の欲しいものは何でも用意してくれる、便利で、けれど厄介な男。
 長電話はお互いにメリットがありませんので、簡潔に用件を伝えました。
「素直になれるお薬、ありませんか」
『なんだぁ? 修羅場続きで頭おかしくなったか?』
「小生はいたって正気です。あるんですか、無いんですか」
『用意できないものは無えよ。お前が飲む? 誰かに盛る?』
「自分で服用しますので、副作用が軽いものを。それと――」
 数量や効能の希望を告げ、最後に「報酬は?」と問えば、『夢野幻太郎センセェの次の長編、ウチで出してくれ』とニヤついた声が返ってきました。金品を要求されなかった事に胡散臭さを感じましたが、天谷奴は取引に関しては二言のない男なので、素直に従うことにします。
『しかし文豪ってのは、色恋が絡むと思い詰めるタイプばっかりだな』
「……」
『執筆に支障が出ない程度に頼むぜ、夢野センセェ』
 からかいを含んだ声に、思わずぶちりと通話を切ってしまいました。察しが良いのも一言多いのも、相変わらず気に食わない。腹は立ちましたが、これで準備は整いました。早ければ明日にでも薬は届くでしょう。そうしたら、帝統のところへ言って、気持ちを伝えようと思いました。
 今更だけど。フラれた後でもう遅いって自分でも解ってはいるけれど、最初で最後になってもいい、ちゃんと彼に誠意を見せようと決めました。
 あなたのこと、本当は好きです、って。ずっとずっと大好きで、これからも多分そうなんですって、白状します。
 天谷奴に頼んだのは、自白剤のうんと効果が軽いものでした。薬のせいではなく、きちんと自分の言葉で伝えるつもりでいるし、薬はあくまで保険だと考えていました。いざ帝統を目の前にした自分が、怖じ気づいて嘘で誤魔化したりしないようにするための、予防線です。
 本当はとても怖い。嘘の言葉なら否定されたり拒絶されてもちっとも痛くありませんが、心を丸裸にして伝える素直な言葉に、身を守る術はありません。拒まれたら悲しく、拒絶されれば痛い。けれど。どんな結果になったとしても、もういいや。俺の本心を解って欲しいと思う相手ができてしまったのだから、人生で一度くらい、当たって砕けるのもきっと悪くないでしょう。
 告白する時は帝統の手を握ろうと思いました。小生の手、多分とても震えているだろうから、言葉よりも雄弁に気持ちが伝わるかも知れない。それに、いつもペンを握っているこの手なら嘘は吐かない筈だと、信じてもいました。






 2

 好きだ、幻太郎、と吐露してしまった瞬間を鮮明に覚えている。それは俺が幻太郎に初めて気持ちを伝え、初めてキスを交わした日だった。
 いつから、だとかどうして、だとかは覚えていない。ただ気が付いた時には、俺の心臓のど真ん中にダチだと思っていたはずの幻太郎をダチ以上に大事に思う気持ちが芽生えていて、それは日に日に硬さと輝きを増していった。まるで磨けば磨くほど綺麗になる、宝石みたいに。
 ギャンブル以外は空っぽだった俺の中に、全く予想もしていなかった来客の登場だったものだから大いに動揺した。一人で身軽に生きていた俺には、恋だの愛だのは面倒で煩わしい存在でしかない。なるべく関わらないよう注意して遠ざけていた筈なのに、それは思いも寄らない場所から出現した。
 ダチで、同性で、チームメイトの夢野幻太郎。かなり変わった言動の男で、初対面の印象はあまり覚えていない。ただ、紡がれたリリックを綺麗だと思った気はする。
 そいつと同じチームメイトになり、一緒に過ごす内に、気付けば冒頭の台詞を吐いていた。ギャンブル以外にあまり頭を使わない俺は、自分の衝動的な性質から学ぶ事が多々ある。この時も、好きだと口走った後に(あー、俺幻太郎の事好きだったのか)って納得したし、唇を重ねた瞬間胸がときめいてしまったものだから、ああこれ本物だわ、って確信した。
 口と口をほんの数秒間くっつけただけの、中学生みてえなキスに、俺は不覚にもめちゃくちゃ感動してしまった。幻太郎の唇のやわさや、ひんやりと冷たい皮膚を永遠に味わっていたくて。幻太郎が息苦しそうに顔を歪めたので、一旦唇を離した後、両肩を掴んで「もう一回していい?」と尋ねていた。そうしたらあいつ、真っ赤な顔でウロウロと視線を彷徨わせた後、無言で頷くものだから、嬉しくなった俺は遠慮無くキスを再開し、そうして俺はその日から幻太郎の恋人になったつもりでいた。
 今思えば、好きだと言ったり別れてくれと言ったり、俺は随分身勝手な男だ。


「お前のスキは軽いんだよ」
 幻太郎と別れた後、一度だけ揉めた事がある。別れて欲しいと頼んだ時はあっさり了承した幻太郎だったが、恋人関係を解消した後も、何かにつけてあいつは俺の世話を焼きたがっていた。
 それに苛立ってつい零してしまった本音に、あ、ヤベ、と慌てたのは、幻太郎の顔がみるみる真っ青になっていくのを見てしまったからだった。だから俺は、酷いことを言ってしまったのだと一瞬で悟ったんだ。
 今思えば、謝るなり言い過ぎたって否定するなりすれば良かったんだろう。でも幻太郎に告げたのは本心から出た言葉だったし、あの時の俺は完全にやさぐれていたので、そんな配慮は出来なかった。いつもそうだ。俺は自分のことばっかりで、幻太郎のためになる事ができた例しがない。
 でも俺だって泣けるもんなら泣きたかった。だってさあ、幻太郎の気持ち、マジでわかんねえんだもん。
 あいつは懐に入れた人間皆に優しすぎて、俺に注いでくれる優しさだとか情が愛なのか友情なのか、付き合い始めてから俺はいつも解らなくて不安だった。
 幻太郎の口から「好き」という言葉がハッキリ出たのは、ただの一度も無い。俺はギャンブル以外では思った事をすぐ口に出す性質なので、結構頻繁に言うんだけど、幻太郎の口から同じ言葉が返って来る事はなかった。
 強請ればキスには応えてくれるし、俺を甘やかしてもくれる。でも幻太郎の方から恋人らしいやり取りを求めてくることは一切無くて、ひょっとしてこれ、全部友情の延長じゃねえのって、俺は次第に疑うようになっていった。
 最初はそれでもいーやって呑気に構えていた。ダチだと思っていた俺に告白されて、優しい幻太郎がそれを断れなかっただけだとしても、付き合ってる内に絆されてくれれば俺の勝ちじゃんって卑怯なことを考えた。幻太郎は人付き合いが極端に薄い生き方をしていたから、恋人として一緒に過ごしていたら段々感化されてくれそうな自信があったんだ。だから俺は、その日が来ることを期待して気長に待つつもりでいた。
 けれど一ヶ月、二ヶ月、と日が経つにつれ俺の心境は段々と変化してしまった。幻太郎があんまりにも優しくて、クズな俺を否定せず丸ごと受け入れてくれるものだから、こいつはもっとまともな奴と幸せになった方がいいんじゃないかって悩むようになってしまった。俺は自分の生き方をクズで身勝手だと自覚していたから、それに幻太郎を付き合わせることに躊躇いと不安を覚え始めた。
 友情と愛情を履き違えたまま感化されてしまえばいいと思っていたのに、幻太郎に絆されて変わってしまったのは俺の方だった。
 幻太郎がまだ俺のことを好きになりきれていないのなら、俺がこいつを手放せる内に別れてやりたいと思った。もし俺が「別れてくれ」って頼んで、拒否せずに幻太郎がそれを受け入れたなら、その時は素直に振られよう、と。俺の気持ちが幻太郎に届かなかった事実を受け入れようと決めた。
 だから、別れた後も俺は自分の選択を後悔していなかった。初めて幻太郎のために真っ当なことをしてやれたと、俺に別れを告げられたあいつの心情など考えず、自己満足に浸っていた。
 情の深い幻太郎が俺に未練を残さないよう、ちゃんと次のまっとうな出会いに進めるようにって、突き放した態度を取った事であいつが追い詰められてしまったなんて、ちっとも考えつかなかったんだ。



 ***



「乱数、見るな!」
 咄嗟に叫んだ俺は、乱数の事務所に散らばっている布きれの一番手近なものを引ったくって、幻太郎に被せていた。
「あー、帝統乱暴っ。顔は出してあげてよね、幻太郎、今すっごく苦しいんだから」
「そうじゃねえだろ……何だこれ。何があった?!」
 幻太郎を背中に隠しながら、俺は乱数を呆然と見つめた。
 乱数から呼び出しの電話があったのはついさっきだ。パチ屋の隣の定食屋でメシを食っていた俺は、軽いリズムの、でも声のトーンだけは真面目な乱数に妙な問いかけをされた。
『帝統はさ〜、幻太郎のことスキ?』
「好きも糞もねえよ、とっくに別れたわ」
『つまり、もう好きじゃないって事? 幻太郎のこと嫌いになったから別れたの?』
「……乱数、俺今メシ食ってっから、そーゆー話なら切るぞ」
 乱数はフリングポッセのリーダーだったし、俺と幻太郎が付き合った事も別れた事も知っていたが、その事について言及されたのはこれが初めてだった。妙な違和感を覚えたものの、できるだけ避けたい話題だったから俺は気まずさを優先し、電話を切ろうとした。
 好きに決まってんだろ。俺は一度も気持ちがブレたことねえよ。別れ話を持ちかけたのは俺だったけど、振られたのは完全にこっちなんだわ、チクショウ。
『あのね。もし幻太郎のこと、まだ大好きだったら、腹括って僕の事務所に来て』
 やさぐれていた俺に、ぐっと声を潜めた乱数が
『幻太郎が帝統に会いたがってるの』
 と続けた後、電話は一方的に切れた。
 話の全く見えない呼び出しに困惑し、俺は悩んだ。『迷った時は賽子を振る』という信条も忘れ、二時間も馬鹿みてえに悩み、そうだよ賽子振ればいいんじゃん、とようやく思い至って女神に頼った。
 「偶数が出れば行く、奇数なら行かない」で、出た目は偶数だった。でも俺は躊躇ってしまい、卑怯にももう一度賽子を振った。出た目はやっぱり偶数で、俺は女神に少しだけガッカリしながら、乱数の事務所へと足を向けた。でも結論から言えば、女神はやはり信じるに値するモノだったんだが。

 布に包まった幻太郎は、相変わらず苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。俺が事務所に足を踏み入れて目にしたものは、薄い浴衣一枚を羽織っただけの頼りない姿で、ソファの上にくったりと転がっている幻太郎だった。荒い呼吸と上下する肩に、具合が悪いのかと慌てて駆け寄った俺は、すぐにギクリと立ち止まる。
 はだけた裾から覗く幻太郎の白い足は、何故かしっとりと汗ばんでいた。近づいてよくよく観察すると、浴衣はあちこちはだけていて、太腿が見えているわ、薄い胸板にぷくりと浮いた赤い乳首まで露出しているわ、俺は慌てて幻太郎を布で簀巻きにしたのだ。
「帝統がなかなか来ないから悪化しちゃったんだよね。可哀想に……」
「オイ、幻太郎に何があった!」
 動揺する俺をシカトして乱数は労るように幻太郎の頭に触れる。その瞬間、耳を疑うような甘い声が幻太郎の口から漏れた。
「ハ?!」
 驚いた俺は、素っ頓狂な声を上げていた。けれど乱数は呑気に幻太郎の頭を撫で続けていて、子供のような小さい手が動く度に幻太郎は途切れ途切れの、甘い声を出した。嬌声ってやつだ、俺もまだ、幻太郎のは聞いたことが無かったのに。
「おま、やめろ、触んじゃねえ」
 慌てて乱数の手を払いのけると、にんまりと口角が上がる。
「可愛いでしょ、幻太郎」
「?」
「飲んだんだって。媚薬」
 媚薬。……媚薬?
 耳慣れない、けれど意味はわかる単語を俺は頭の中で反芻した。
「幻太郎はちゃんと覚悟決めて、帝統と向き合うつもりでいたみたい」
「ハ? 何? 全然わかんねえ、こいつ自分で妙な薬飲んで、こーなったの?」
「んー。自分で服用したのは確かだけど、薬の中身に手違いがあったみたい。僕に電話してきた時、こんな筈じゃなかったって、すごく困ってたもん」
 乱数の説明に、俺は思わず噛み付いてしまった。
「幻太郎、お前に連絡したのか」
「そりゃそーでしょ。何でもかんでも帝統が幻太郎の一番だと思ったら、大間違いだよ」
「……そんなんじゃねえよ」
「そお? 面白くないって顔に書いてあるけど」
 乱数の指摘に何も言い返せない俺を置き去りにして、「えーっと、鍵、鍵……」と乱数は引き出しを漁り始めた。
何してんだこいつ、いやそれより幻太郎をどうすれば、と困惑していた俺に、
「ハイこれ」
 宙を舞って手元に降ってきたのは、車のキーだった。
「症状は四十八時間以内には収まるらしいよ。だからそれまで幻太郎のこと、よろしくね」
「おい、ちょっと待て」
「車貸してあげるから、今の幻太郎、誰にも見せないであげてね」
 帝統だって見せたくないでしょ、と余計な一言を付け足して、乱数は無情にも俺と簀巻きの幻太郎を事務所から追い出してしまった。
 幻太郎を抱えながら、一方的に閉められた扉に呆然とする。腕の中の身体は風邪でも引いてるんじゃねえかってくらい熱くて、俺は扉と幻太郎を交互に見た後、腹を括って車のキーを握りしめた。




 車を走らせて向かった先は、幻太郎の家だった。誰にも見られたくないでしょ、と言う乱数の言葉は的を射ていて、俺は今の状態の幻太郎を確かに誰にも見せたくなかった。可能ならば乱数の記憶からも消してしまいたいと思っている。
 施錠して、鍵をコートのポケットに入れてしまえばこの家にはもう誰も出入り出来なかった。ついでに携帯の電源も落とせば、こいつに連絡を取れる人間はもう誰もいない。俺以外は、誰も幻太郎に触れない。
 けれど、熱っぽい身体を布団に横たえてしまうと、これから何をするべきか解らなくなってしまった。勿論幻太郎を放ってはおけない。症状が治まるまで留まるべきだし、そうするつもりでいるけれど、情けねえことに俺の股間はめちゃくちゃに張っていて、ズキズキと痛みを訴えていた。当たり前だが、俺は幻太郎に欲情していた。
 目の前に転がっているのはまさに据え膳だったが、でもそれは幻太郎の意思ではない。薬を飲んだ詳しい経緯は謎だったが、乱数に助けを求めたということは、幻太郎は今の状態を望んでいなかったということだろう。
 くったりと力をなくした身体を見下ろしながら、頭の中の冷静な部分を必死に掻き集めて現状を解析しようとした。けれど、幻太郎に媚薬を渡すような人間がいたのかと思うと目の前が真っ赤に染まる。男だか女だか知らねえが、マイクを握りしめて思い切りリリックをぶつけてやりてえ。そんな物騒なことを沸々と考えていたら、布団に横たえていた身体がもぞりと動いた。
「う……」
「大丈夫か、幻太郎」
 慌てて覗き込むと、虚ろな目がゆっくりと瞬きをして、こっちを見た。だいす、と名前を呼ばれてその声の甘さに俺は言葉に詰まってしまう。
「ここ、どこ、ですか」
「えと……お前の家。なあ、大丈夫か? 何か欲しい物ねえ?」
 水とか持ってきた方がいいのか、でも風邪引いてる訳じゃねえしな、と狼狽えながら尋ねると、幻太郎は俺の名前を呼んだ。
「帝統」
「おう、何」
「俺は帝統が、ほしい」
 熱を持った声が小さく囁いた。耳をそばだてていなければ聞き逃してしまいそうな程の、小さな訴え。でも俺は、幻太郎の声をハッキリと拾ってしまい硬直した。
 ――俺が欲しい、って、どういう意味だ?
「帝統、手を貸して」
「え、あ、うん」
 欲しいって何だ、まさかそういう意味じゃねえよな、と都合の良い方に捉えてしまいそうになり俺は慌てて思考を切り替えた。幻太郎に強請られたので、取り敢えず頷いてやる。何を手伝わされるのだろうかと呑気に構えていたら、息も絶え絶えな幻太郎が、思いがけない力強さで俺の右手を引っ張り――着崩れた浴衣の割れ目に差し込んだ。
 熱を持って硬くなっている陰茎を突然押し付けられた俺は、驚いて思わず手を引っ込めてしまう。今右手に触れたものに呆然としながら幻太郎を見つめると、耳まで赤く染めながら
「放っておけば治まるって、わかってます……でも、でも、」
 我慢できないんです。帝統、たすけて、って泣きながら乞われ、俺の返事は一つしかなかった。




「あ、あんっ、あっあっ、出ちゃう、やだ、いや、だいす、見ないで……」
 四つん這いになった幻太郎の太腿が痙攣し、やがて静かに止まった。性器を掴んでいた俺の指の間をとろりとした体液が伝う。これで四度目の吐精だった。
 見ないでと言われた俺は、見ちゃいけねえと思いつつどうしても幻太郎を盗み見てしまう。顔を見られるのを嫌がった幻太郎が後背位を望んだのは、俺にとっても都合が良かった。真っ赤な顔が余韻に震えている様子だとか、力を無くした性器から白濁がとろとろと零れて布団を濡らしている姿をじっと眺めていられる。
 何より、幻太郎の顔が見れないのが良かった。こんな状態の幻太郎を正面から捉えてしまえば、俺は正直何をしでかすかわからない。
「う、あっ、あう、だいす、だいすっ」
 イったばかりなのに、幻太郎は再び俺の指を使って自慰を始めた。
「だいすっ、ごめ……ごめんなさい、指、きもちいい」
 何度も達しているのに、幻太郎の性欲は一向に収まる気配がない。俺の手のひらに擦り付けられた性器はあっという間に硬さを取り戻していて、あんあん喘ぎながら、苦しそうに幻太郎は泣いていた。ぼろぼろと涙を零して俺に謝る姿が可哀想で可愛くて、胸がきゅうっと締め付けられる。
 幻太郎の好きなようにさせている俺の右手は、生まれて初めて他人の精液でべたべたに塗れていたが、不快な気持ちには全くならなかった。なのにこいつは、申し訳なさそうに瞳を濡らし続けている。ごめんなさいごめんなさい、と繰り返される謝罪と共に、「嫌いにならないで」と悲しそうな声が響いたので、
「ならねえよ、バカ」
 って否定したら幻太郎は眼を丸くして吃驚していた。
「薬のせいだって、ちゃんと解ってる。……苦しいんだろ? 手伝ってやるよ」
 幻太郎に好きなようにさせていた手を、俺はとうとう自分の意思で動かし始めてしまった。
 指の腹を使い、根元から上へとなぞるように指を這わせてやると、幻太郎の肩が大きく震える。そのまま屹立した陰茎の先端を引っ掻くと、ゆるい刺激にも関わらず幻太郎の口からは悲鳴が上がった。当然だ、自分でするより他人に弄られたほうが性感は桁違いに上がる。
 俺が幻太郎に触っているのは、あくまで看病の延長のつもりだった。幻太郎は薬のせいでおかしくなっているだけだし、俺はそれを解っているから勘違いしたりなんかしない。今こいつの目の前にいるのがたまたま俺だったから、幻太郎は俺を欲しがっただけ。乱数がいれば乱数を頼っただろうし、そう考えるとこの場にいるのが他の誰でもなくて良かったと安堵する。
 付き合っている間、一度も触れたことのなかった白い肌に手を伸ばす。これはセックスではなく弱っている幻太郎を介抱するだけの行為だ。何度吐精しても収まらない強い快楽に、疲弊しきってしまった幻太郎の代わりに、扱いて擦って発散させてやればそれでいい。余計なところは絶対に触らない。俺にその権利は無い。
 頭の中でそう言い聞かせながら、俺は自分の股の間で勃起しているものから目を逸らした。




 ――何でこうなった、と思いながら、空になったローションのボトルを放り投げた。そしてこれまた、いつの間にかバックから正常位に体勢が変わっている幻太郎を真っ正面から見つめる。期待に揺れる視線を向けられて、俺は無言で指を差し入れた。
 ボトル一本を使い切るまで散々慣らした幻太郎の後孔は、すんなりと俺の指を受け入れてしまう。指を二本重ねて腹の方へ折り曲げてやれば、幻太郎はあっけなく悲鳴を上げて遂情した。だいす、だいすと縋るように名前を繰り返す姿が可愛くて堪らなくて、引き寄せられるように唇に吸い付く。
「んっ、ふっ」
 衝動のまま舌を差し入れてしまい、しまった、調子に乗りすぎたと慌てて引っ込めようとしたら、幻太郎の相好がふわりと崩れた。嬉しそうに顔を緩めながら、俺より幾分ちいせえ舌がちろちろと舐め返してきたものだから、体温がぶわりと上がる。
 ――初めに誘ってきたのは、幻太郎の方だった。
 誘うっていうのは言い方が悪いと解っている。幻太郎は素面なら絶対にそんな真似はしないし、付き合っている間、一度も性的な行為を望まれなかった俺は幻太郎にその気がないことをちゃんと知っていた。知っていたのに、薬のせいでまともな思考のできない幻太郎の誘惑に、負けた。
 自慰を手伝うだけのつもりでいた俺は、胸を触って欲しいと強請られ、耳を弄られたいとべそをかかれ、あっちこっち言われるままに可愛がってしまう。止めるべきだと解っていたのに、手が指が、どうしても止まらなかった。
 触れる先から声を上げて泣く幻太郎が可愛くて愛おしくて、今日を逃せばもう二度とこんな時間は訪れないのだと思ったら、俺はいつの間にか熱心に幻太郎の後孔を広げていた。狭い窪みに指を抜き差ししながら、コレは流石にまずくねえか、と頭の中で警鐘がガンガン鳴っている。けれど指は止まらねえし、何より幻太郎本人が、そこを弄られるのを一番悦んでいるのがたまらなく嬉しくて。
 嫌がってねえみたいだし、いいかな……と恐る恐る指を三本に増やしても、拒絶されることはなかった。
「げんたろ、気持ちいいか……?」
「いいっ、いいですっ、けど」
「けど?」
「足りない……もっと大きいの、だいすので、ぐちゃぐちゃにしてほしい」
 目尻に涙を溜めた幻太郎の視線は、物欲しそうに俺の股間をじっと見つめている。自慰を手伝っている間も、身体中あちこちを可愛がっている時も、幻太郎の欲しがっているものは一つだけだった。
 痛いくらいに張りつめて勃起している部分は、できるものなら俺だって何とかしたい。何とかっていうのはつまり、目の前の、素っ裸で俺に股を広げている好きなヤツに突っ込んで、あんあんよがる声を思う存分聞きたいって意味だ。
 でも俺にだって、越えちゃいけない一線があることくらい解っている。薬が切れて正気に戻った時に、幻太郎が受けるショックを考えたら、俺は辛うじて踏み止まれた。好きでもねえ男に突っ込まれて悦んだなんて、一生残るトラウマになるだろう。そんな事をして嫌われたくない気持ちもあるけれど、一番は、幻太郎を傷付けたくねえっていう俺の本音だった。好きな奴を大事にすんのは当たり前だろ、と言い聞かせて、俺は頭を振る。
「俺、幻太郎に挿れるつもりはねえよ」
「え……」
「大丈夫、指でちゃんと気持ちよくしてやっから。なっ」
 頭を撫でながら、極力優しい声で諭してやると、幻太郎の顔がさあっと青くなった。唇を震わせながらなんで、と問われる。
「そんなにぼくのこと、嫌ですか」
「バッ……ちげえよ、そうじゃなくて、」
「だいすとしたいんです。お願い、なんでもするから……」
 はらはらと涙を零す幻太郎が、俺の股間に顔を近付ける。履き慣れた白いパンツを剥ぎ取られ、露わになった俺の性器を幻太郎は何の迷いも無く咥えた。
 ぬめって温かい舌、何より好きなヤツにしゃぶられているという事実に俺の身体は正直に反応した。硬さを増して屹立する陰茎に、幻太郎のちいさい口が苦しそうに喘ぐ。可哀想になって慌てて腰を引くと、幻太郎はまた泣いた。ぼくにされるの、嫌ですかってぼろぼろと涙を零されると、どうしていいかわからなくなる。ひょっとしてこのまま抱いた方がいい? お前、後で後悔しねえ? 「あれは小生の本心じゃなかったので忘れてください」、なんて言われたら、俺はすげえ傷付いちゃうんだけど。
 舐められただけで溶けそうに気持ちよくなってしまった俺は、段々思考が鈍っていく。絶対に挿入はしないと掲げていた決意がぐらぐらと揺れ始め、そんな隙を突くかのように幻太郎が身体を起こした。硬直している俺の膝に跨がり、首に腕を回す。幻太郎の胸と俺の胸がぺったりと密着し、そしてくっついたのは汗ばんだ肌だけじゃなかった。
 硬く張りつめた俺の性器に、幻太郎の入り口が擦り寄せられて思わず肩が跳ねた。指で開いたとは言えまだ狭い窪みが、それでも俺を呑みこもうと覆い被さってくる。先端がほんの僅かに入ってしまう。「あっ、あん」と幻太郎がぎゅうっと眉をひそめた瞬間、俺の理性はぷつりと音を立てて切れた。
 いや。いやいや、待て、駄目だっつってんだろ。止まれよ俺。何で顔を赤らめながら、幻太郎の腰を引き寄せてんだ。
 赤く色づいたちっせえ穴に、何自分のおっ勃てたチンコあててんの。挿れるなよ、それは絶対に幻太郎を傷付けちまうから、俺はこいつとセックスしちゃいけねえんだ。
 ――そう、なけなしの理性を必死で掻き集めて俺は腰を引こうとした。引くつもりだったんだ、本当に。
 でも理想通りに行かないのが現実で、俺の右手はゴム、ゴムどこだ、って畳の上を手探っていた。確かローションと一緒に置かれていたはず、と焦っていたら、強い力で腕を引っ張られた。
「いらない……そのまま出していいから、早く、いれて」
 よかねえよ、バカ! って怒鳴りたかった。でも身体は単純で、幻太郎が赤く膨らんだ尻の穴に俺の指を持って行って擦り付けるものだから。浅い呼吸を繰り返しながら、はやく、はやく、って急かすものだから、噛み付くように俺はキスをしていた。
 幻太郎の口はちいさい。俺と同じ身長でも、体重が軽いから厚みはないけれど、肩幅はちゃんとあって歴とした男。だけど口をくっつけると俺の唇に簡単に覆われてしまうちいささに、俺は感動を覚えていた。可愛い、好きだ、と思いながら夢中で唇を吸い、舌を舐めると、上手く息継ぎのできていない幻太郎が必死で舌を絡めてくる。
 その拙さだとか健気さに余計興奮してしまって、俺は硬く勃起した性器を幻太郎の尻孔に必死で擦り付けた。
「あ、あっ、だいす、来て、入れて……っ」
 はあはあと呼吸を乱しながら、幻太郎は自分の膝裏を支えて尻を持ち上げた。色々丸見えなんだけど恥ずかしくねえのかな……薬ってすげえな、と、俺は不謹慎ながら感謝する。
だって素面だったら、絶対にこんな姿見せて貰えない。誘われて、挿れやすいように尻まで持ち上げられれば、俺の理性はひとたまりもなかった。
 赤黒くガチガチに膨れた陰茎は、先端からぽたぽたと透明な液を垂らしてみっともねえくらいに幻太郎を欲しがっている。ゴムは次から絶対に定位置に置くと決め、俺は誘われるままに幻太郎を貫いた。甲高い悲鳴が上がり、組み敷いた顔が苦痛に歪むのが目に映る。
 痛いか。そりゃ痛いよな、だってお前男だもんな。本当なら女に突っ込む筈のチンコ持ってて、そんでそれは今、俺に突っ込まれた痛さでちょっと萎えてしまっている。そして、幻太郎に突っ込んでいる方の俺はというと、もうこの世の春って感じに気持ちが良くて身震いしていた。気を抜くと多分動かなくてもイケる。この差はなんだろうな、卑怯だよなって、俺は寂しくなった。
 俺ばっかイイ思いして、幻太郎はただただ我慢してるだけで。付き合ってた時もこんな感じだったのかなって想像する。幻太郎は変わり者だけど、懐に入れた奴にはヤバいくらい優しくて献身的だった。不器用な奴だなって俺は呆れながら、でも段々とその不器用さを愛おしく思うようになっていた。気付けばスキになってて、告って、んで、ダチ思いの幻太郎はそれを断れなくて俺と付き合う羽目になった。単純な俺は、幻太郎が俺と同じ気持ちでいるものだと思い込んでいて、でもそうじゃないんだと気付いた時にようやく……ようやく、こんなクズでも幻太郎に誠意を見せられるんだって、安心した。別れたくはなかったけれど、俺は自分の保身より幻太郎の幸せを優先できたことが嬉しかったりもしたんだ。
 それなのに、このザマは何だろうな。結局俺は自分の欲を優先して、幻太郎が受け入れてくれるからって好き勝手に腰を振っている。メチャクチャ気持ちよくて、でも胸の中にはぽっかりと小さな穴が空いていた。途中までは確かに我慢できていたのに、最後まで耐えきれなかった自分が不甲斐なくて悔しくて、幻太郎におかしな薬を渡した見知らぬ他人に、八つ当たりのような気持ちを覚える。
 何で大事にさせてくんねーの。こんなクズが精一杯守ろうとしてるもの、易々と壊してくれるなよ。俺にとって大事な……マジのマジで大事なものなんだからよ。
「ごめんな、幻太郎……」
 囁いた懺悔は多分届かない。俺に組み敷かれている幻太郎は、快楽を散らすのに必死だった。だからせめて、気持ちよくさせてやりてえって思う。後悔しても、セックスする前にはもう戻れないのだから、俺に出来ることと言えばもうそれぐらいしか残されていなかった。




「あのさ、俺にして欲しい事とか、ある?」
 幻太郎の中に吐精した後、俺は縋るように幻太郎を抱きしめながら呟いていた。罪滅ぼしって訳じゃねえけど、不本意な形で抱いてしまった詫びと言うか、何でもするつもりで尋ねてみたのだが、どうやら幻太郎は違う意味で受け取ったらしい。顔を真っ赤に茹で上がらせて、え? えっ? と暫く狼狽えた後、観念したように固く眼を瞑って俺の理性をブン殴ってきた。
「……じゃあ、あ、足を持ち上げてください」
「ハ?」
「膝の裏をこっちに、こう……」
 突然の指示にポカンと呆けた俺だったが、「恥ずかしいんですから早くして」と急かされて慌てて幻太郎の膝裏を掴んだ。「こうか?」「もっとです」「え、これ痛くねえ?」「平気ですから、もっと」躊躇いながらも望まれるまま、胸にくっつくくらいに足を思い切り折り曲げてやると、目の前に幻太郎のなだらかな尻と股が飛び込んできたものだから俺は自分の顔が耳まで真っ赤に染まるのを感じた。
 目を逸らそうにも、自分の眼球なのにコントロールできない。女が谷間を見せて歩いていたら視線が釘付けになるように、俺は幻太郎の硬く張りつめた性器だとか、赤く熟れた後ろの孔だとかにごくりと喉を鳴らした。
「だいすの……もっと奥まで、ほしい、です」
 ついさっきまで俺にぶち撒けられて、くったりと身体を弛緩させていたくせに、幻太郎は何故か続きを欲しがった。勘弁してくれ、と頭を抱えて内心唸った俺は、けれど幻太郎と繋がる気持ち良さをもう知ってしまっている。して、と言われれば諸手を挙げて飛び付いてしまう二十歳のガキだった。
 あっという間に勃起した陰茎を上から差し込めば、さっきと全く違う角度に背中が震える。責め立てているのは俺の筈なのに、五感を全て支配されているような錯覚を覚えた。
「あっ、あう、だいすっ……あ、あん」
「げんたろ、どうしよ、挿れるだけでイキそう」
 強烈な快楽に襲われ、恥も外聞も無く本音が零れる。幻太郎のやわい体内に俺の性器を突っ込むのがどうしようもなく気持ちよくて、幸福で、体力が尽きるまで俺は幻太郎を手放すことができなかった。



 ***



 幻太郎が正気に戻ったのは、告知通りきっかり四十八時間後、俺にさんざん抱き潰されて布団から起き上がれなくなっているタイミングでの事だった。
 勝手知ったる幻太郎の家なので、セックスでぐちゃぐちゃにしてしまった布団は客用のものを新しく敷き直していたし、身体も綺麗に拭っていたので、見た目だけなら普段通りの幻太郎がそこにいた。でも、顔を覆って深い溜め息を吐く姿に俺は姿勢を正さざるをえない。正座なんていつぶりだと、身体を強張らせながら幻太郎の反応を見守った。
 ゆっくりと口を開いた第一声は、
「友達のあなたに、こんなことをさせてしまった」
 後悔に塗れていた。
 ダチ。そりゃあ……そうだよな、幻太郎にとって、昨日からの出来事は不幸な事故みてえなもんだ。ダチどころか、告白しておきながら一方的に振るような身勝手な男と、不本意なセックスをしてしまったのだから。
 謝ればいいのか受け流せばいいのかわからなくて、俺は何も言えずに黙り込んでしまう。それをどう受け取ったのか、幻太郎は悲しそうに俯いた。
「ごめんなさい。嫌でしたよね、小生と、今更こんなこと」
「別にいーよ。お前が好きでしてた訳じゃねえの、わかってるし」
 正気に戻った幻太郎はいつも通り冷静だった。いっそ全部記憶が飛んでてくんねえかな、と少しだけ都合の良い期待をしていた俺は、セックスをする前となんら変わらない距離に悲しさを覚えてしまう。
「あのさあ……忘れてほしい?」
 意を決して尋ねた。
「言い訳だけどさ、俺、最後までするつもりなかったんだよ。薬でヘンになってる幻太郎のこと看病してえって、本当にそれだけのつもりだった。俺、お前のこと大事だから我慢できるだろって高括ってたんだけど……ごめんな、無理だったわ。幻太郎のこと、まだ好きだから、我慢できなかった。酷いことしたよな。悪いって思ってる」
 弁解めいた言葉をぺらぺらと吐きながら、口の中は緊張でカラカラに乾いていた。スリルや興奮が生き甲斐な俺でも、逃げ出したいくらい怖いと思うことはある。今がまさにその時だった。
 理性を取り戻した幻太郎の目に映る自分を見たくなくて、立ち上がる。居た堪れなさから逃れるように部屋を出て行こうとした俺を、
「好きです、帝統」
 ふいに響いた幻太郎の声が引き留めた。
 するりと耳に届いた言葉の意味はこの場にあまりにも場違いで、俺は立ち去るのも忘れて硬直した。幻太郎、今なんつった? と困惑していると、固まっている腕を幻太郎が両手で握りしめてきた。
「あなたは――忘れてしまっていいです。ただ、僕はきっと一生忘れないから、覚えていることを許してくれませんか。帝統のことを好きでいる間は、忘れたくないんです」
 抱いて貰える日が来るなんて思わなかった、と声を震わせる幻太郎に俺は目を疑った。何だか随分と、都合の良い言葉が流れている気がする。気のせいかな、俺夢でも見てんのかな、って疑念を否定してくれたのは、俺の手を握る幻太郎の手のひらの熱さだった。普段はペンを持つ手が、祈るように俺の手を握りしめて震えている。その姿が何だかもう、たまらなくて。
 もしもこの後「嘘ですよ」って一言が付け足されたとしても、俺は幻太郎が初めて言ってくれた「好き」の方を信じようと思った。その言葉は胸の奥深くにするりと入り込み、身体のすみずみに、まるで根を張るように溶け込んであっという間に俺の一部になってしまった。幻太郎ってやっぱスゲエわ。言葉が血肉になる感覚は、きっともうこれきりだ。




 ***




 さわさわと秋風に揺らされた枝が、もう何度目なのか、黄色い葉を地面に落とした。土が埋まるほど、と言えば大げさだが、イチョウの葉で敷き詰められた公園を俺は幻太郎と共に訪れていた。
 宿として時折世話になっていたこの公園は、広い敷地にも関わらず狭い間隔で利用客が点在していた。シブヤを含めた周辺のエリアから人が訪れるので混雑しているのは当然だが、それにしたって違和感を感じる。なんつうか、俺と幻太郎を取り巻くように、少し距離を置いて鈴なりに人が群がっていた。
 幻太郎はさっきまで熱心に公園を行き交う人々を眺めていたが、やがて満足したのか、今は持参していた文庫本に夢中になっている。こいつが読書タイムに突入すると俺は基本的に放置だ。それは別に構わなかったが、ヒマになった俺はさてどうするかと思案して……今日はそのまま、ヒマを持て余す事にした。
 秋とは言え、午後の公園は麗らかで昼寝をするにはもってこいだ。欠伸を一つ噛みしめて、俺はベンチの上に寝転がった。頭は幻太郎の膝の上にちゃっかりと乗せる。お咎めがないのを良いことに、俺はそのまま目を閉じた。
「ゲンタロ〜」
「はいはい、なんですか」
 読書中の幻太郎の返事は素っ気ない。けれど、降ってきた声は優しさに満ちていた。
 それに気をよくした俺は、幻太郎の膝の上に乗せていた頭の向きをゴロンと変える。ガキっぽいかなと一瞬迷ったが、まあいいやと、幻太郎の腹に顔を埋めながら腕を回して抱きついた。野次馬から悲鳴が上がり、うるせえなあと顔をしかめるが、優しい手に頭を撫でられてそれもすぐに気にならなくなる。
「帰ったら、シていい?」
 返事の代わりに、つむじに幻太郎の唇が降ってきた。また遠巻きな悲鳴が上がり、売れっ子の作家なのに公衆の面前でいいのかねと思う反面、我が儘が叶えられた俺の心は安定していた。
 俺は他人の視線は気にせず生きているし、幻太郎もそういうところがある。乱数もそうだ。フリングポッセは全員自由に生きているし、俺はこいつを、この身体に流れる言葉が絶える日まで、自由に愛している。