[ ユートピアを綴る ]
AM6:40
朝目覚めると帝統が絡まっていました。
昨夜布団に入った時は確かに一人寝だったのに、いつ帰宅したのでしょうか。シングルサイズのサマーケットから長い手足をはみ出して、呑気に鼾を立てている男に溜め息を吐いたところで、小生の一日は始まりました。
暦の上では小暑でも、早くも連日蒸し暑い気温が続いています。この季候でよくもまあ密着できるものだと、帝統を引き剥がし、布団から這い出て汗ばんだ肌を手で扇ぎます。壁に目線をやると時刻はいつもの起床時間より二十分ほど早く、丁度いいかと思いながら風呂へ向かうことにしました。
手早くシャワーを浴び、下着にシャツを羽織っただけの格好でまずは台所を確認しました。冷蔵庫を覗いて食材をチェックし、今日の買い出しの内容を決めます。二人で暮らすと決めた時に奮発して買った、私達の背丈より高い冷蔵庫は、最近どうにも液晶画面の調子が悪いのが悩みでした。「機能多いと壊れやすくねえ?」と家電量販店で物色していた時の帝統の一言は正論だったけれど、迷わずカード一括払いであっさり購入を決めた自分が思い出されました。
だって浮かれていたから。男二人、しかも何でも胃に収めてしまう帝統の食材を、これからは日々用意しなければなりません。しかもそこには高い頻度で乱数の分も加わる。大容量家族向けの冷蔵庫を買って何が悪い、と思いました。メッセージ機能付きの液晶画面だって、帰宅が不規則な帝統への伝言板としてもう七年以上も立派に活躍してくれています。……最近は殆ど真っ黒で、何の文字も映していませんでしたが。
相変わらずうんともすんとも言わない液晶から視線を外し、シンクで適当な果物を摘まんで朝食を済ませます。これから喫茶店へ出掛けて原稿をする人間が腹を満たすのは矛盾していますが、スケジュールが押し始めているので、店内での時間は極力人間観察や執筆に充てる予定でいました。
今日はどこへ行こうかと、頭の中で店の候補を絞りながら手早く着替えを済ませれば、後はもう家を出るだけでした。いつもの執筆用具が詰まった鞄を一つ持ち、玄関へ向かう――前に、寝室をひょいと覗き込む。これはもう抗えない習慣になっています。
俺が居なくなり一人になった布団の上で、のびのびと手足を伸ばして帝統は熟眠していました。時刻は七時を回っているけれど目を覚ます気配は一向になく、昔は徹夜の雀荘帰りでもちゃんと起きていたんですけどねえ、と畳を軋ませながら近付いても、緩んだ口元はむにゃむにゃと音にならない寝言を繰り返すだけでした。
帝統は二十八歳、小生はもう三十二歳になります。色褪せた畳はこの家での時間の流れをくっきりと現していて、朝日が差し込む室内を眩しく思いながら私は身を屈ませました。
「行ってきます、帝統」
前髪を掻き上げて額に口づけると、エアコンの冷気に当てられた帝統の肌はひやりと冷たくなっていました。
空調を調節し、ケットを被せてなるべく手足が冷気に当たらないようにしてやります。過保護だとは思わないし、寝顔を見つめる己の眼差しが惚けていることも、出掛ける際に唇を落とすことを呼吸のように自然にしてしまうのも、いつの間にか恥ずかしいとは思わなくなっていました。出会って八年が経っていたし、小生の首元にはもう七年もネックレスが下がっています。
喫茶店で二時間ほど原稿を練った後店を後にすると、シブヤのアスファルトは陽炎に包まれていました。
普段なら道行く人々も観察するところですが、うだるような暑さの中ではその気力も湧かず、次の目的地へと足を素早く運ばせます。こんな時、歳を取ったなとしみじみ感じてしまう。数年前までは季節を問わず余力があったものだけれど、今はもう、酷暑に抗う気持ちにはなれません。
「兄さん、お待たせ」
待ち合わせのコーヒーバーに到着すると、こちらに手を振る似た顔と目が合いました。隣に並んでいつもの一杯を手早く注文すれば、至福のひとときが始まります。
中王区と対立した長い、長かった旅路の後、退院した兄には肩書きが一つ増えました。ルポライター一筋だった兄が産業カウンセラーも兼業するようになったのは、己の信念を追うあまり、国家権力という巨大な渦を相手に一人で抱え込んでしまったこと、その結果弟を――僕の人生を犠牲にしたことを悔やんだからだそうです。
犠牲という認識に思うところがなかった訳ではありませんが(小生だって兄さんの原稿を勝手に手放しています)、僕が兄さんを想っているように、兄もまた同じ気持ちを僕に向けてくれていて、その結果今の職業を選択したのなら何も言うまいと決めました。
週に一度、契約しているシブヤの病院に出勤する日を私は毎週心待ちにしていました。兄がいる生活は何年経っても色褪せることはなく、最初の一年くらいは元気そうに笑う度に泣き出してしまっていて、そんな俺に兄さんが苦笑していたのも、今はもう良い思い出でした。
コーヒーの匂いに満ちた店内は入れ替わり立ち替わり、次々と客がやって来ては出て行きます。私達も例に漏れず、出勤前の一杯という僅かな時間を惜しむように、兄が今調べている事件や小生の新作の話、互いの近況と、尽きない話題を饒舌に口にします。
二人で話している時間はあっという間で、新作のあらすじに目を輝かせながら「時間が足らないなあ」と惜しむ兄に、私は思わずむくれました。
「兄さんもたまには家に来ればいいのに」
それは本気の誘いでしたが、兄は笑顔でいつもと変わらぬ返事を口にするだけでした。
「そのうちね」
「そればっかり。兄さんのそのうち≠ヘもう聞き飽きたよ」
「まあ、わざわざ行く理由はないからねえ。お前はよく泊まりに来てくれるし、ここで毎週会っているし」
空惚けた顔でコーヒーを啜る姿に、「来たくない理由があるんじゃないの」とは口にできませんでした。度々伝えている誘いに兄がなかなか乗ってくれない理由は何となく察しています。小生と帝統が共に暮らすようになって以来、兄の来訪は目に見えて減っていました。
兄と帝統の距離を何となく寂しく思いながら、空になったカップを片付けようとしたところで。
「帝統くんかい?」
不意に小生の電話が鳴り、画面に表示された名前を見た兄の目に鋭い光が走りました。
兄と私、二人分のカップを持ってダストボックスに向かいながら応答すると、代引きの荷物が届いたという連絡でした。『立て替えたいけど金がねえ』と情けない声を出す男に笑いながら、用意してある封筒の場所を伝え、電話を切ろうとすると、目が合った兄が替わって欲しいと言う仕草をしました。
「お早う、帝統くん」
『おー、にーちゃん! 元気してますか』
「お陰様で。先日は有り難う、とても楽しかったよ」
『あの店結構良かったっすよね。今度幻太郎と乱数連れて四人で行きてえなあ』
「是非。次は私に奢らせてくださいね」
そんな会話を数巡した後、兄が通話を切り、小生は溜め息を吐きました。
――仲は悪くないんですよねえ、この二人。これで何故家に来てくれないのか理解できません。
「ごめん、そろそろ行かないと」
腕時計を確認して兄が立ち上がると、週に一度の楽しみはお開きとなりました。
二人で店を出た後、兄は病院へ、私は帰宅する前にスーパーへと向かいます。庫内を思い出しながら足りない食材をカゴへ入れていると、思いがけずそれと出会ってしまいました。
「お前さあ……」
帰宅した小生を出迎えた帝統は、手元に視線を落とすと瞳に呆れを滲ませました。背中に執筆道具を詰めたバックパックを背負い、右手にエコバッグとつやつや輝く西瓜、更に左手にも同じ西瓜を抱えた稀代のストーリーテラーの姿が、玄関の姿見にはくっきりと映っています。
「……や、いーよ。いいけど、せめて俺を呼べよな」
「これめちゃくちゃ美味しいやつなんですよ、帝統!」
興奮した声で報告すれば帝統は無言で小生の手から西瓜を奪ってくれたので、空いた左手ですかさずハンカチを掴みました。浮いた汗を押さえながら扇風機の前に向かい、帰路とは真反対の天国を味わいます。背中越しに冷蔵庫を開閉する音が聞こえてきて、どうやら帝統が気を利かせてくれているようでした。
ああ、やっぱり我が家は最高です。
「げんたろ、シャワー浴びる?」
「いえ、お昼食べたら出掛けなきゃいけないので、戻ってからにします」
「打ち合わせ?」
「挨拶回りですよ。今朝荷物が届いたでしょう?」
補足すれば帝統の視線は客間に流れ、納得したように頷きました。
「もうそんな時期かー」
百貨店から届いた箱達はどれもこれも折り目正しく包装がされており、その全てに御中元と書かれた熨斗が巻かれていました。乱数には「貰う方じゃないの?」と笑いながら律儀さを褒められますが、商業作家は読者、そして編集者がいなければ本を出すことができません。
今日は何軒回れるだろうかと頭の中で試算していると、片付けを終えた帝統が居間に顔を覗かせて言いました。
「俺も着いていっていい?」
PM3:00
昼食の後、幻太郎にくっついて都内の出版社を廻ったのは暇だからというのが一番の理由だった。昨夜の徹マンで懐は綺麗さっぱり空になり、種銭を稼ぐまでパチスロも競馬場もお預けになってしまえば、やりたいことと言えば労働か幻太郎と居るかの二択だ。
くそ暑い中スイカを二玉も持ち帰ってきた幻太郎に、一人で出歩かせたら熱中症になるんじゃねえのって心配して荷物持ちを買って出たのは正解だったと思う。行く先々で幻太郎を見て顔を赤くする受付の女を把握したり、訪ねてきた俺達二人に「相変わらず仲が良いですね」と担当を感心させたり、そして今、出版社から駐車場までの近距離でさえファンにとっ捕まった幻太郎を、俺はそれとなく見守っている。
二人や乱数も交えた三人で歩いていると声を掛けられることは、昔に比べると随分減ったが今でもたまにあった。元々幻太郎と乱数は本業の方でも顔が広かったし、特に乱数は三十を過ぎて髪型と服装をガラリと変えてから、男女関係なく鬼のようにモテるようになった。そんで幻太郎の方は、俺と暮らすようになった頃からちょっと変なファンが増えたらしい。人妻要素がどうのとか、よく解んねえ理由を耳にする度、人妻っつーか俺のなんだけどなと内心思っている。
――それにしても長えな。あんまりしつこいようなら俺が断ってやるか、とパーキングエリアの隅で待っていた俺が幻太郎に近付いたのと、顔を真っ赤にした女が鞄から一枚の写真を取り出したのは同時だった。
何だっけ、チェキっつうのか? 正方形のちっせえ写真には幻太郎と女が二人で写っていて、俺は思わず目を丸くした。隣を見ると幻太郎も少し驚いた顔をしていて、女はそれを、以前書店のサイン会で撮ったものだと震える声で説明した。
「ええ、勿論覚えていますよ。懐かしいな」
微笑んだ幻太郎の声は柔らかかった。
「書店にようやく本が並び始めた頃でしたね。初めてサイン会を開いて頂いたんですが、あまりにも人が集まらなくてすぐ終わっちゃったんですよ。時間が余って、担当さんの提案で急遽撮影会をした記憶があります」
目を細めて幻太郎が見つめる先には、あどけない顔の、多分二十歳かそこらの夢野幻太郎の卵が写っていた。新刊が出れば新聞に載るしシブヤのあちこちに広告が貼られる、三十二歳の幻太郎とは似ても似つかない、緊張した面持ちの駆け出しの青年は俺が初めて見た幻太郎の一面だった。
「……ですが、これは頂けませんねえ。目線もずれているし表情が硬い。携帯をお借りしてもよろしいですか?」
言われるままに女が差し出した端末を、幻太郎は何故か俺に手渡してきた。
「はい、帝統」
「えっ何」
「何じゃありませんよ。気が利きませんねえ、写真お願いします」
女の口から小さな悲鳴が上がり、俺は仕方なく端末を構えた。撮るぜーって声を掛けながら、逆光に気を付けつつ何枚か撮影してやる。飄々とした態度であれこれポーズを変えて楽しんでいる幻太郎と、終始ガッチガチに固まっている女はどこからどうみても夢野幻太郎とそのファンでしかなかった。妬く要素なんて一個もねえなと思う。
幻太郎はその後女が持っていた本にサインまでしていた。手厚い対応に何度も何度も頭を下げて去って行った女は、殆ど涙目だった。大事そうに握りしめていた幻太郎の本は、きっとこれからもあの女の手元で宝物みてえに扱われるんだろう。嬉しいようなモヤつくような、スッキリしない気持ちで小さくなっていく背中を見送っていたら、不意に腕を引かれた。
「お待たせしました。車に戻りましょうか」
「おー……え、どうした?」
生返事を返すと、手にするりと指が絡んできて思わず声が上がった。「やっぱり夏は暑いですねえ」なんて言いながら、さっきまでファンのために動いていた指は、そのことをけろりと忘れたかのように俺の手の中に収まっている。
薄暗い静かな駐車場の中を歩きながら、胸の中の、僅かに温度が上がっていた部分が急速に凪いでいくのを感じた。妬く要素なんて一個もねえのに、気が急いていた自分がいたのを自覚する。
手繋ぎ一つで気持ちが浮上する現金な俺は、少し汗ばんだ手を車に乗り込むまで勿論放しはしなかった。
「はあ、涼しい……やっぱり片時も離れたくありませんねえ」
冷風に当たりながらしきりに幻太郎が褒めているのは、家のエアコンではなくラブホのエアコンだった。
車に乗り込んだ後そのまま帰宅するつもりでいた俺は、帰路とは違う道を走り出した車に首を傾げた。「道違わねえ? 工事でもしてたっけ」と尋ねると、返ってきたのは「お風呂寄っていきません?」の甘えた声と、手際の良いハンドル捌きだった。
あれよあれよという間に俺達はネオンの点いていない真っ昼間のネオン街に辿り着き、サラリーマンとか学生とか、色んな奴が行き来する往来の中を堂々とチェックインして今に至る。
「ひぃ、あっちー。駐車場から遠いのがネックだよなー、このホテル」
真夏の路面は照り返しが激しく、少し歩いただけでも肌が焦げるように熱を持つ。浴槽に湯が溜まった頃合いを見計らって服を脱ぎ飛ばし、エアコンから離れようとしない幻太郎を引きずって勝手知ったる顔で風呂場へと向かった。シブヤのラブホは二人でほぼ制覇したから間取りは把握していて、ここもたまに世話になっている一室だ。
浴槽に裸にひん剥いた幻太郎を連れて入ると、柄にもなく幸せってやつを感じた。向かい合ってぬるま湯に浸かる幻太郎も、ああーとかうーとか、ジェットバスに気持ちよさそうに目を細めている。
「じーさんかよ」
「いやだってこれ……めっちゃくちゃ気持ちいい……はー天国です」
「こらこら、寝るな。起きろよ、じーさん」
うっとりと目を閉じてしまった幻太郎の前髪を掻き上げると、掛け湯で濡れた髪は普段隠れている額を簡単に晒してしまう。そのまま頭を撫でてやると、甘えるように前腕に頭を寄せられ、胸にぐさりと太い矢が刺さったような気がした。
幻太郎はよく俺のことを猫みたいって甘やかすけど、それってこういう感覚なんだろうか。普段は素っ気ない恋人に無防備な姿で擦り寄られると、心臓がグッと締め付けられて無性に甘やかしてやりたい気持ちになる。俺の腕に凭れた幻太郎の口元はふにゃりと緩んでいて、正直それは見慣れた表情だったけれど何でだろうな。昔よりめちゃくちゃ可愛く思えてしまった。
ファンからは昔と全然変わらないなんて褒められてるみてーだけど、乱数よりはちゃんと年相応な変化が幻太郎にはある。早起きを好むようになったし、筋トレが習慣になったし、髪質もちょっと変化して抱き心地も昔とは違っている。
「……視線が痛いですよ、帝統」
じーっと見つめていると、不意に瞼を開いた幻太郎とぱちりと目が合った。その虹彩を綺麗だと俺はいつも思う。
「お前、じーさんになっても絶対可愛いよな」
「っはあ?」
「幻太郎のこと好きだわーって気付いた時も可愛いって思ってたけど、あの頃より今のお前の方がやべえじゃん? どうなってんだろうな、謎だわ」
顎に手を当てながら真面目に尋ねた俺に、幻太郎は居心地が悪そうな顔を浮かべて湯船から立ち上がった。「先に上がります」と素っ気なく背けた顔は耳まで真っ赤になっていて、俺は笑いながら腕を掴んで引き戻す。
「待て待て、はえーって」
振り向こうとしない幻太郎がどんな顔をしているのかなんて、賭けるまでもなかった。
「風呂入りたかったんだろ?」
熟れた耳元で囁くと、「眼科行った方がいいですよ」って弱々しい声が返ってくる。その素直な反応が嬉しくて、緩く勃ち上がっていた俺の股間は簡単に硬度を増した。
「な、げんたろ、今日どんな体位でしたい?」
「貴方ほんっとにデリカシー無いですよね?!」
「えー、いいじゃん、折角ホテル来たんだしさあ。お前に気持ちよくなって欲しいんだよ」
笑いながら軽く唇に触れる。しっとりと濡れた感触が気持ちよくて、啄むようなキスを繰り返していると幻太郎の口が緩く開いた。すかさず舌をねじ込むと、待ってましたとばかりに逆に吸われる。誘ってきたのは幻太郎の方とはいえ、乗り気なことが伝わって俺の気分は簡単に上がった。
浴室の照明は淡く青みがかっていて、ついさっきまでの、何もかもギラギラと照らされていたシブヤの炎天下とは真反対に静けさが漂っている。舌が絡まり、唾液のやり取りをする音だけが耳に届くと、互いに段々息が上がってきて、ここが家なら無限に吸っていたいと思えるくらい幻太郎の唇は誘惑の塊だった。
「帝統って好きですよねえ、キスが」
「いや全然好きじゃねえよ。お前だからこうなってんの」
「それも知ってます」
ふふっと笑った顔が可愛くて、頭がくらくらする。キスも好きだけど早く挿れてえなと思いながらカウンターのボトルを掴むと、俺の手がローションに伸びたのを見て幻太郎が身体を反転させた。鏡に手を突いて顔だけ振り返った素直さに、俺は思わず舌なめずりをする。こいつ立ちバック好きだよなあ。俺も勿論好きだけど。
「あっ、んん!」
ローションでべとべとになった指で尻孔に抽挿を繰り返すと、悲鳴じみた声が簡単に上がる。シャワーセックスは声が響いて良い。普段掴みどころの無い嘘ばかり吐いている幻太郎の、まっさらで無垢な声を聞いてしまえば、俺の性器はひとたまりもなかった。幻太郎の左手を拝借し、完全に勃ち上がったペニスに触れさせて懇願する。
「げんたろ、触って」
「うん……」
ぽーっと惚けた顔で素直に指を絡めてくる姿に、無性に感動した。俺達のセックスは何年経ってもおざなりっつーか義務感っつーか、そういうのとは無縁のままで、正直結構びびる。俺もう四桁は抱いてるんだけどな、お前のこと。
いつかレスになったりすんのかなってたまに考えたりもするけど、股間にそそり立つバキバキの俺のチンコからはいまいち想像がつかなかった。
鏡に映る俺達の姿を見ながらそんな事を考えていたら、指の腹で俺の亀頭をくりくりと撫でていた幻太郎が首を傾げた。
「乗り気じゃありませんでした?」
「んん?」
「目線が合わないので、何か考え事でもしてるのかと」
何だそれって、またまた俺の胸に太い矢がぐさりと刺さる。疑問と不安がないまぜになった瞳に見つめられ、幻太郎に触れられている場所が一段と熱を持った気がした。
「だってお前、俺がじっと見てると怒るじゃん」
「そりゃあ、ガン見されると流石に居心地悪いですけど……」
けどって何だ。言外に、目が合わないことへの不満や物足りなさが滲んでいて、俺は堪らず幻太郎の身体を引っ張った。
向かい合ったまま幻太郎の左足を掬って、浴槽の縁に乗せる。背中に腕を回せば吐息がかかる距離に幻太郎の赤い顔があって、俺の相好はへらりと崩れた。
「何にやにやしてるんですか」
「んー」
「顔が見たいなんて、小生一言も言ってないですからね?」
「や、俺が見たいだけだから」
上機嫌な返事をして口づけると、幻太郎の唇は何かを言いたそうにもごもごと少しだけ動いたが、すぐに瞳を閉じて大人しくなった。
口を吸う度赤くなっていく頬に、俺はやっぱりニヤけが止まらない。
「あっ、あんっ、ああー……っ」
甘い声と同時に俺の腹に飛沫がかかり、幻太郎の身体からくたりと力が抜けた。浅い息を繰り返す、イッたばかりの肢体を支えながら、俺の性器は幻太郎の奥をがつがつと穿つのを止められない。
「やだ、ばか、止めてえ……っ」
「ごめ、ごめんげんたろ、もーちょい耐えて」
苦しそうに首をふる幻太郎だったが、その両腕は俺を突っぱねることなく背中に回されていた。口では止めろと言っているのに、身体はまるで抱かれるのを喜んでいるみたいな反応を返すから、可愛いと思う気持ちに拍車がかかってしまう。
シャワーの水なのかローションなのか俺達の体液なのか、よくわからないものに塗れた素肌をぴたりとくっつけ合いながらストロークを繰り返して、熱くうねる幻太郎の体内に吐精した。あんあん喘いでいた幻太郎の声が一際高く浴室に響き、内ももががくがくと震える。俺は幻太郎が相手だとすぐ射精できるけど、我を忘れて乱れる幻太郎が見たい一心でいつも必死にイクのを我慢しているから、あ〜〜コレだよコレ、ほんっと可愛い……と思わず悦に入る。
ヤってる最中の幻太郎は、贔屓目抜きに世界一だと思う。めちゃくちゃ自慢してえけど、他の誰かに見せる訳にはいかないので俺は世界で一番のものを有り難く独占している。顔が見足りねえなと、事後の疲労にぐったりしている幻太郎の顔を上向けて口づけると、力の抜けた腕が頼りなく俺に縋り付いてきた。
舌を軽く食むと甘い声が漏れる。イッた後だし、あんまり強く吸ったら可哀想かなと思って舌先をちろちろ舐めるだけに止めていたら、幻太郎の方から懸命に舌を絡めてくるものだから、俺の股間はあっさりと元気を取り戻した。
どーしよ、一旦風呂から出て休ませた方がいいよな。風呂で何度もやると逆上せるし、冬に炬燵で励んだ時は脱水症状になりかけたし、セックスって難しいなーとつくづく思う。加減すればいいじゃんって話だけど、それが出来ないから苦労するんだよな。
部屋へ戻るべきだと理性では解っていたけれど、何故か俺の指は幻太郎の窄まりをくるくると撫で始めていて、頭と身体の不一致をどうしたものかと悩む。ぬかるんで暖かい幻太郎の小せえ穴に、正直早く挿れたくてたまらない。
「だいす、あの……あのう」
「えっ、何」
やべ、怒られるかなと慌ててやましさしかない指の動きを止めると、幻太郎はきょろきょろと瞳を彷徨わせた後、恥ずかしそうに口を開いた。
「次は後ろがいいです……」
鏡張りの浴室の壁にぴたりと頬を付けて、幻太郎がおずおずと尻を差し出す。
その後の俺の動向は、お察しというやつだ。
PM5:00
浴室で互いに二度射精したので、今日はお風呂えっちの日だったなと小生完全に油断していました。
風呂を出て髪を乾かし、さて着替えをと床に投げっぱなしの衣服を拾おうと屈んだところで、同じく浴室から出て来た帝統に腰を掴まれました。
「わっ、ちょっと帝統?」
抱き寄せられてバランスを崩し、思わず声を上げたところで腰に当たる硬い感触に気付きます。慌てて振り向くと、ぎらぎらと輝く機嫌の良い眼差しと目が合いました。
「時間ないですよ?!」
「問題ねえ」
弾んだ声で強引に手を引かれ、二人もつれるようにベッドへ倒れ込みました。枕元のデジタル時計が視界に入り、ううんと思わず唸ります。
帝統は万事に於いて制限のある方が俄然張り切る男でしたが、小生の頭の中にはホテルを出た後のスケジュールや延長料金がちらつきます。どうしたものかと躊躇したのは一瞬で、さわさわと胸を撫でる手をえいっと抓ってやりました。
「おしまいですよ。ハイ、離れて離れて」
「えーー、ケチ」
口を尖らせた帝統でしたが、のし掛かっていた身体は素直に離れました。無理強いしないところを好ましく思う反面、たまにはいいのにな、と考えているのは内緒です。
「締切近えの?」
「……ええ、まあ」
「担当さんからの電話増えてっから、そうかなーって思ったわ」
袖に腕を通しながら尋ねる帝統は、小生のことをよく見ていました。ギャンブルで身に付いた観察眼だと思っていたその鋭さが、興味のある対象にしか発揮されていないことを知ったのはもう随分昔のことです。
連れ立ってホテルを出て駐車場へ向かっていると、不意に背中から帝統を呼ぶ声が聞こえました。
二人揃って振り向くと、帝統が得心した顔で応えを返します。
「お知り合いで?」
「あれ、お前会ったことなかった?」
「帝統は顔が広すぎるんですよ。交友関係をいちいち把握なんてしてません」
ちらりと目線を向け、珍しいなというのが小生の第一印象でした。夏の盛りにきっちりスーツを着こなした妙齢の女性が、視線に気付いたのか私にも会釈を向けます。爽やかで愛嬌のある笑顔に思わずこちらも自然と笑みがこぼれました。
「感じの良い方ですね」
「あー、そういや営業の仕事してるって言ってたな」
興味の無さそうな口振りで、最近知り合った賭博仲間だという彼女の説明を帝統がしていると、陽炎のように遠かった声が段々鮮明になり、明るい挨拶が私達の目の前で投げ掛けられました。
――営業職と語る彼女は窃盗組織の一員で国際手配をされている。賭博好きを装い有栖川帝統に近付いたのは、元総理の一人息子が相続した美術品が目的であり――そうつらつら夢物語を展開していた小生でしたが、彼女と言葉を交わす内、帝統の瞳が輝きを増した事に気付いて空想を中断しました。
二人の話に耳を傾ければ、帝統の頭の中など手に取るように解ります。これから行われるトランプギャンブルのメンバーに誘われた彼の弾んだ声と、その後に続いた断りを入れる萎れた声は小生の苦手なものの一つでした。ギャンブルが生き甲斐の帝統が誘いに乗らない理由なんて、一つしかありません。
やれやれと内心で溜め息を吐き、懐から財布を取り出して帝統に声を掛けました。目の前でひらひらと揺れる紙幣に帝統が怪訝そうに顔を歪めます。
「……トイチか?」
「心外ですねえ。ただの心付ですよ、今日は荷物持ち手伝って貰えて助かりましたので」
おっかなびっくりといった顔で小生の差し出した紙幣を眺めていた帝統は、直ぐに受け取ろうとはせず歯切れの悪い反応を見せました。喜んで飛び付くだろうと思っていたので、思わぬ反応に小生は首を傾げます。
「要らないんですか?」
「だってよー、運転はお前だったし、俺大したことしてねえからなあ」
「じゃあ貸しにしておきますから、種銭にどうぞ」
「よっしゃ! 十倍にして返すから待ってろよ」
渋い顔から一転、パッと顔を明るくして笑った帝統を見ただけで、もうお金なんてどうでもよくなってしまうのは小生の悪い癖でした。私達の隣に初対面の女性が居てくれて良かったと安堵します。人目も憚らず可愛い恋人へ抱きつきたくなってしまった衝動を、抑えることができましたので。
そんな小生の内心など知らない彼女は、帝統を突然連れて行くことを一礼して詫びましたが、「遠慮なく身ぐるみ剥いでやって構いませんよ」と返すと、事も無げに笑いました。その虹彩に垣間見えた不敵さに――やはり窃盗団の一員なのかもしれない、と再び空想が盛り上がります。次の打ち合わせでこのネタを出してみようかなとわくわくしたところで、不意に肩を掴まれました。
「じゃー行ってくるな、幻太郎」
唇に軽く落とされたのは、いわゆる行ってきますのキスってやつです。人目を一切気にしない帝統は、家での習慣を屋外でも平気でやってのけるので、説教が通じないと悟って以来諦めて極力受け流すようにしていました。
慣れとは恐ろしいもので、当初は写真を撮られたりもしていましたが、物珍しさが薄れた今となってはシブヤの街で私達に目を留める人など殆どいません。彼女もその一人で特に驚いた様子はなく、「はいはい。行ってらっしゃい」と私が帝統の頬にキスを返したのを見届けてから、最初の会釈と変わらない爽やかな笑顔で帝統と共に雑踏に消えてゆきました。
その後ろ姿を見送ってから、車に乗り込み、往路は二人だった道を一人でドライブします。隣に帝統が居ない車内は静かで、窃盗団の話を膨らませながらハンドルを回すと、誰もいない我が家に向けて車はゆるやかに走り出しました。
PM7:00
筆が乗る時とそうでない時の違いって何なんだろうな。そんな事をげっそりした気持ちで考えながら、締切がそろそろ差し迫ってきている作家は仕事部屋の書物机に突っ伏していました。
目の前にはぐちゃぐちゃにインクの走った原稿用紙が散乱しています。停滞してしまった文字の羅列を一瞥し、大きな深呼吸を一度してからすっくと立ち上がりました。壁に沿って設えられた書棚に向かったのは、資料を取り出す為でも気分転換の読書をするためでもありません。
目線の高さにある一段、飾り棚として使われているスペースには、アンキロサウルスのぬいぐるみだとか、帝統から貰った歴代のネックレスの数々だとか、そういうものに混じって一本の万年筆が飾られていました。手に取るとしっくり馴染むそれは数年前に乱数からプレゼントされたもので、原稿が煮詰まった時の小生の救世主でした。
小瓶を手に取り、インクを吸入させていると、いつも不思議とスイッチが切り替わるような感覚を覚えます。胸がすくような、倦んでいた頭が冴え冴えと晴れるような気持ちになって、白紙の原稿に向かう勇気が湧いてくるのです。
ペン先についたインクを拭う頃には、頭の中で整然と物語の続きが組み立てられていました。物音一つない静かな仕事部屋には、万年筆が原稿用紙を滑る音、時折資料を捲る微かな紙の音だけが響きます。
執筆する小生の横で時計の針が何度も周回するこの時間だけは、今も昔も唯一変わらないものでした。書かなければ生きていられない夢野幻太郎という存在が、目的を果たした今でも己の中に居座っていることが面映ゆく思え、結局自分は最初から自分でしかなかったのだなと、ヒプノシスマイクを握っていた頃を懐かしく追憶します。
窓に映る眺めが夜景に変わった頃、執筆の手を止めたのは、乱数からの着信がきっかけでした。
「――お電話ありがとうございます。お客様相談窓口担当、夢野がご用件を承ります」
『あ、良かったー元気そうだね!』
「それは小生の台詞なんですが。連絡もつかないしSNSも更新されないから、帝統も気にしていたんですよ」
乱数からの連絡は一週間ぶりで、声を聞くのは更に十日ぶりでした。クライアントと揉めているという話を聞いていたので察してはいたものの、三十二歳の身体は燃費が悪い事を痛感しているので、心配していなかったと言えば嘘になります。
『ありがと〜。ようやく落ち着いたからさ、これから三人でゴハン行かない?』
「ええと……今夜は二人でどうですか」
『あ、帝統どっか行っちゃったの?』
数時間前の路上でのやり取りを掻い摘まんで説明すると、『じゃあ今日はオニーサンと会うからいいよ』とあっさり納得されてしまいました。オニーサン? と思わず低い声が出た小生に、気を良くした様子で乱数の弾んだ声が返ってきます。
『おっ、なになに、ヤキモチ?』
「妬いて何が悪い。オニーサンって誰ですか、小生初耳ですよ」
『縫製がめっちゃくちゃ上手なオニーサンだよ。ミシンが恋人ってカンジでずっと無視されてたんだけど、最近ようやく仲良くなれてさ〜! 一度ゴハン誘ってみたかったんだよね』
「ぐぬ……なんか有意義そうな人ですね……」
『オニーサンのお陰でデザインの幅が広がったから、幻太郎と帝統にずーっと着せたかった服がようやく完成しそうなんだよね。出来上がったら写真いっぱい撮ろうねえ』
水を得た魚のようにはしゃぐ乱数に、小生はそれ以上何も言えなくなってしまいました。
『それにしても幻太郎、帝統には全然妬かないのにねー』
こちらの過干渉を満更でもなさそうな反応で受け止めた乱数は、最後に不思議そうに呟いて通話を終えました。
乱数に親しい人間が増えると気がそぞろになりますが、帝統に同じ事が起きても然程気に留めていないのは確かに事実です。恋人に対する反応として一般的にずれている自覚はあったけれど、小生をそうさせたのは他ならぬ帝統自身でした。
――だって嫉妬なんて忘れちゃいました。素っ気ない小生の態度に帝統は時折拗ねるけど、この八年間で地層のように積み重なった揺るぎない自信と、帝統から受け続けた愛情は盤石で。
知らないところで女性の賭博仲間が出来ていようが、帝統の出自を利用しようと見合い話が持ち上がろうが、心が揺れることはもうありません。そもそも、帝統があの女の息子である事実を呑んだ覚悟に比べれば、そんなものは些細な感情に過ぎませんでした。
◆
カジノテーブルの前で悔しそうに腕をつく女と裏腹に、俺は口笛を吹きながらトランプを手に取った。口ずさんだメロディの曲名はジャックポットだが、今日の勝負はブラックジャックだった。
俺の勝ち札となったハートのジュディスに上機嫌でキスをする。周りではヤジと賞賛の混じった声が上がっているが、気分は最高だった。
「帝統、次は俺とやろうぜ」
そう声を掛けてきたのは、俺達がいるマンションの家主だった。ギャンブルが好きすぎて独り身を貫いていると言うだけあって、オッサンの家はだだっぴろい一室をカジノルームに改造している。間借りして仲間内で賭博を楽しんでいる俺が言えたセリフじゃねえけど、家でギャンブルってすげえなと素直に感心する。スロットマシンの隣で眠るなんて俺にはムリだ。リールに七が揃うまで延々とボタンを押し続けて、幻太郎に怒られる光景しか浮かばねえ。
ポケットに突っ込んでいた携帯を取り出し、俺はオッサンの誘いに首を振った。一勝負始めるには少し時間が遅すぎる。
「なんだあ、勝ち逃げかよ」と面白くなさそうなオッサンに、同じく負けて拗ねていた女が「幻太郎先生が待ってるのよ」と投げやりに補足した。
「スゲェな、何で解ったんだ?」
「顔に書いてあるからね……ああーー悔しいっ。何でこんな丸分かりな帝統に負けちゃったんだろ!」
「うーんご名答……」
思わず唸ると、「惚気は止めろ」と睨まれ、「夫婦の口調が似るってマジなんだなあ」とオッサンには感心された。
そんなこんなで、俺は無事増えた金をポケットに突っ込みほくほくした足取りでマンションを後にした。
明日の種銭は一円でも多い方がいいので、電車は使わず夜道を歩いてシブヤへ向かう。ロッポンギからならそう時間は掛からないし、この夜景を暫く見れなくなることを考えると、無駄な時間だとは思わなかった。
あと何回、このディビジョンでギャンブルをするんだろうか。想像した時に頭の中に浮かぶ馴染みの顔がいくつもあって、笑いがこみ上げてきた。見知った人間と、まるでコミュニケーションを取るみたいに賭博を楽しむ≠フは、丸くなったという事なのだろうか。幻太郎や乱数には何も言われないけれど、俺のギャンブルの仕方は昔と比べて随分変化していた。
家を出て、決まった住所も無く、安定しないスリルに満ちていた二十代前半を懐かしく思った。あの頃の俺が今の自分を見たらどう思うのだろうか。眉を顰めて興醒めするかもしれないし、けれど二十八歳の俺の隣に三十二歳の幻太郎がいるのを見たら、案外すんなりと納得するかもしれない。
賭博は相変わらず俺を支えるぶっとい芯だったが、そのために命を張ることはもう無くなっていた。乱数の為に幻太郎と二人揃って命を賭けた経験は、俺に新しい命の使い方を明示したし、生き方が変わった今でも俺は俺の人生を愛している。
――ただ、三人で出来るもっと楽しい事が他にあるんじゃねえの、とはぼんやり考えていた。
雑踏に耳を傾けながら、夜の街を幾つも通り過ぎた。
駅周辺の繁華街を横切る度、民間広告に混じって街頭ビジョンに流れる、政府のスポットCMが目に入る。随分若い現総理は、CMやネット、あらゆる媒体を活用して国民と意思疎通を図ろうとしているので、顔を見ない日はない。碧棺合歓という小難しい漢字は、俺でさえ読めるようになっていた。
そんな風に政府の広報が努力するから、俺の頭の中には、もう一生会わないだろうと思っている女の顔がいつまで経っても消えないし、家で幻太郎とテレビを見ていると不意に映る政府の広告に落ち着きを無くしてしまう。
もう昔の話だけど、帰宅したら家が蛻の殻だったのは、俺の人生で一番のトラウマだった。
俺と母親の血縁関係を知った幻太郎が家出をしたのは、同棲を始めてすぐの頃だった。買ったばかりのぴかぴかの冷蔵庫の液晶画面に、作り置きの詳細と短い別れの言葉が綴ってあったのを俺は未だに夢に見る。
揉めに揉めて、お互い傷付け合って、けれど幻太郎はそれでも俺の元に戻ってきた。あの頃のことはトラウマであると同時に、俺の中にギャンブルよりも優先できるものが生まれた瞬間でもあったし――幻太郎の情の深さに俺が沈んだ瞬間でもあった。
夢野幻太郎は、心を許した人間のためなら自分をどこまでも殺せる優しい男だった。あいつの隣という居心地の良さを知ってしまった俺には、にーちゃんが幻太郎と一緒に居たい気持ちが良く解る。
退院したばかりの頃、幻太郎はにーちゃんの家に入り浸っていて、俺は完全に空気みたいな扱いが続く日々を過ごしていた。乱数にはそんなことは無いと慰められたが、家に幻太郎がいない時間が増えるにつれ俺は段々不安に駆られた。
もしこのまま幻太郎が戻らなかったら。あの時のように、俺から離れてしまったら。
誰もいない家に帰宅してただいまと独り言を落とす度、思考は暗い沼に囚われて、俺はとうとう幻太郎の目を盗んでにーちゃんに不満をぶつけてしまった。何をどう訴えたかはうろ覚えだったが、とにかくそれ以来、にーちゃんはぴたりと俺達の家に寄りつかなくなった。
幻太郎がその事を寂しく思っている事には気付いているし、そろそろいいだろ、腹を決めろよ、って自分に言い聞かせたい気持ちもある。だってにーちゃんは、もうすぐ幻太郎に会えなくなるんだから。
PM11:45
「勝ったぞー!」
意気揚々とした声と同時に抱きつかれたのは、ダイニングで夜食のスープを飲み終えた後でした。
テーブルの端に置いてある、昔質屋から回収した帝統のラジカセから流れるラジオを切って、
「お帰りなさい、帝統」
振り向きざまに唇を重ねると、機嫌の良い帝統の笑みは更に深くなりました。
「これ返すなー」
「最近調子良いですねえ。勝ちが続いてるじゃないですか」
貸した分に利息がついた紙幣を受け取りながら、昼間会った彼女が負けた事を聞いた小生はそれは残念、と思わず口にしていました。
「盗みに失敗した彼女は、これからどうなるんでしょうか……」
「へ? 何の話だ?」
「本になったら読ませてあげますよ」
疑問符を浮かべる帝統をあしらいながら食器を片付けている間に、帝統は手早く風呂を済ませて戻ってきました。髪を伸ばすことを止めてしまった分、只でさえ烏の行水だった男の入浴時間は驚くほど短くなっています。一緒に入浴する事もある身としては、本当に洗っているのだろうかと疑わしく思うことはないけれど、風呂は手早く切り上げるくせに、その後だらだらと小生に寄りかかって無為な時間を過ごす帝統には得も言われぬ胸の温かさを覚えました。
この男、ホントに小生が好きだな……とつくづく感心します。兄と違って血も繋がってなければ、読者と違い著作のファンという訳でもなく、乱数が居なければ人生で交わることなど生涯きっと無かったであろう真反対の男に深く愛され、住居を共にして七年が経つって凄いことじゃないでしょうか。
台所で明日の下拵えをしながら小生がそんなことを思っているなどと知らない帝統は、呑気に冷蔵庫を開け、ウイスキーの瓶を取り出しました。
私も帝統も、酒を呑むのは寝酒か乱数がいる時くらいのものでした。ギャンブルと執筆に飲酒は必要ないので、著作が賞を獲った時に記念品として頂いたウイスキーはなかなか減らず、ずっと冷蔵庫に鎮座しています。
「最近よく飲みますね、それ」
炭酸水や牛乳、その時冷蔵庫にある適当なもので割って飲む姿が珍しくて思わず尋ねると、返ってきたのは「早めに空にしといた方がいいかなーと思って」という淡泊な答えでした。
ああそうかと得心して、それから、小生よりもきちんと準備を考えている帝統の心構えにまた胸が温かくなります。
「パスポートってワクワクするもんだったんだな」
「どういうことです?」
「ガキの頃は義務みてえに持たされてたけど、お前や乱数とどこへでも行けるチケットなんだって思うと、悪くねえじゃん?」
ダイニングテーブルの端の小物入れを覗き込む目は、期待に満ちた輝きを湛えていました。「小生は旅券を取ったの、これが生まれて初めてですよ」と教えてやると「楽しみだな!」と快活な声が返ってきます。ウイスキーを舐めながら嘘の無い笑顔で旅券を眺める帝統は、俺にとって掛け替えのない、世界で一番の伴侶でした。
「あんまりムリすんじゃねえぞー」
そう言って眉間に皺を寄せながら寝室に向かった帝統は、小生が原稿を続けると思っていたようでした。
然程経たない内に寝息が聞こえてきたのを確認し、やおら立ち上がった小生が向かったのは確かに書斎でしたが、書物机には座らずに書棚の前をうろうろと往復します。あれでもない、これも違う、ともう何日も迷い続けているのは、旅のお供にする書籍の選別でした。
――シブヤではない見知らぬ土地で、まだ見ぬ物語や人々に触れてみたい。
小生が帝統にそう告げたのは、年が明けて直ぐの頃でした。
炬燵でぬくぬくと暖を取っていた帝統は、最初意味を理解しきれずに、蜜柑に手を伸ばしながら呑気な声を出しました。
――取材旅行、今度は遠いのか? ひょっとして海外?
――そうですね、海は越えたいです。できれば一年くらいシブヤには戻らず、色んな場所へ行きたいと思ってます。
そこまで説明した瞬間、皮を剥く帝統の手がぴたりと止まりました。炬燵で暖まっている人間の顔色とは思えぬほどにみるみる血の気が失われ、あ、説明ミスりましたね小生、と反省した時には強く腕を引かれていて。
俺が家を出て行くと誤解した帝統に縋られ、延々と組み敷かれ、声が枯れるほどに鳴かされたのは、まあ完全にこちらの落ち度でした。小生の家出が帝統にとってトラウマになっている事はなんとなく悟っていたものの、まさかこの期に及んで、俺が帝統を置いて一人でどこかへ行ってしまうという、そんな発想が浮かぶのは正直心外でしたが。
帝統を宥め、懇切丁寧に小生の描くこれからの希望を説明し、理解と了承を得られてからは、少しずつ家の整理を始める日が続いています。幸い仕事の方は作家・ギャンブラー・デザイナーと三人揃って場所を問わない職業でしたが、問題は小生の手荷物でした。帝統ほど身軽ではいられず、乱数のように現地で調達すればいいと考えられるほど物への執着が薄い性質でもなく、蔵書の中からどうしても手放せないものだけを決める作業は、今後の仕事の調整よりも遙かに難題でした。すんなり決まった携行物といえば、乱数から頂いた万年筆くらいです。
選別の為に蔵書を読み返しているので、なおのこと時間は幾らあっても足りませんでした。――そう、読書だけでもこれだけ事欠いているのに、小生には帝統、そして乱数がいるのです。
三人でやりたいこと、見たい景色、味わいたい世界がこの世には沢山あって、生きるのにまるで時間が足らないとつくづく思います。三人でなら何度繰り返したって飽きることなく楽しく過ごせるのに、人生は何故一度きりなんでしょうか。
そんな風に溜め息を漏らしている内に、今夜の選別作業もタイムリミットを迎えてしまいました。
明かりを落とした寝室で明るく光る携帯は、夜中の一時を表示していました。欠伸を噛み殺しながら、二組並べられた布団の内の小生の方ではなく、帝統の方を選んで潜り込みます。サマーケットをあらぬ方向へ蹴飛ばし、何も羽織らず大の字で寝ている姿はまるでちいさい子供のようで、苦笑しながらサマーケットを引き寄せました。エアコンで冷えぬよう、なるべく帝統の方に被せながらぴたりと寄り添うと、彼の心音はメトロノームのようで心地よく、うとうとと眠りを誘います。
「おやすみなさい、帝統……」
抗わずに目を閉じて、また明日、と囁くと、返事は無いけれど寝返りを打った帝統の腕が小生の身体を抱き寄せてくれました。この体温さえあれば、世界のどこでだって生きていけると、もう確信しています。
甘えるように目を細め、そうして今晩も二人絡まったまま、私達は朝日の目覚めを待つのでした。
展望を綴る
窓に映る雪景色を横目に、エアコンの効いた室内で炬燵にぬくまり、BSの競馬特集に齧り付いている時間は平和そのものだった。
冬を凍えずに過ごせる正月は、何度迎えてもありがてえなとしみじみ思う。通算すれば俺に住所が無かった期間より幻太郎と暮らすようになった時間の方がもうずっと長くなっていたが、しんどい思いをした経験というのは未だに脳に染みついていた。
まあ、あの頃はあの頃で家が無くても楽しかったし、鮮明に覚えてるっつーことは、記憶から消したいような嫌な経験じゃなかった証拠でもあるが。
「年が明けましたねえ」
「だなー」
「今年の目標ありますか?」
「勝って勝って勝ちまくる!! まずはナカヤマだな」
「年末のアリマは散々でしたから、次は勝てるといいですねえ」
ミカンを呑み込みながら勢い良く上げた俺の拳は、幻太郎のにこやかな笑みに挫けそうになった。一週間前の大敗の傷はまだ癒えてなかったし、それにしてもコイツ、すっかり競馬のスケジュールに詳しくなったなーと感心する。今年のダービーは幻太郎を連れて行くのもいいかもしれない。
「お前も何か目標あんの?」
二個目のミカンに手を伸ばしながら何気なく聞いた。修羅場をしないとか、にーちゃんとどこそこへ行きたいだとか、例年通りの願望が挙がるんだろなって想像しながら何気なく聞き返した言葉だった。
でも違ってた。幻太郎は珍しく言葉を濁した後、実は……と慎重に口を開いて、年末のアリマなんかよりずっと重い、俺のトラウマを呼び起こす言葉を告げてしまった。
「んん、ぅーっ」
口を塞いで舌を絡めても、幻太郎の抵抗は根強かった。口を自由にするとどんな恐ろしい言葉を告げられるのか解らなくて、それが怖くて俺の手付きはますます乱暴になる。
「だいす、待っ……話を聞いて」
息継ぎの合間に訴えてくる言葉は全部無視した。早く、早くいつもみてえに可愛く鳴けばいいのに。蕩ける声で、俺の名前以外の言葉は全部忘れて、ただただ名前と喘ぎ声だけを繰り返すいつもの幻太郎になれよと焦る。
無理矢理浴衣を剥ぐと、胸元で光るネックレスが現れて俺はたまらない気持ちになった。こんな、家で寛いでいる時でさえ身に着けるほど大事にしてくれているのに、俺を置いて遠くへ行こうとしている幻太郎が信じられない。
居間の照明を受けて光るネックレスは、俺が贈ったもう何本目になるか解らない飾りだった。
初めて贈った時はまだダチで、「パチンコの景品ってこんなのもあるんですねえ」と、喜んでるんだか持て余してるんだかわからない口振りで受け取ったくせに、次に会ったポッセの定例会で幻太郎はそれをきちんと身に着けてくれていた。
気付いた瞬間の俺に芽生えた、ダチの筈の幻太郎に対する胸の動悸は今でも覚えている。こそばゆいような感覚と、仄かに湧いた優越感は、友情とは呼べない確かな劣情だった。
味をしめて、適当な口実で二本目を、チェーンが傷んだ頃合いを見計らって三本目を贈る頃には、幻太郎を祝う気持ちは薄れていてネックレスはただの独占欲の現れになっていた。喜んでいるのか解りづらい表情で、けれど大事に保管してくれている幻太郎に、申し訳なさと所有欲を覚えて――前者はあっさり形を潜めたくせに、狭量な後者だけは今も健在で、幻太郎を捕らえて離さない。
今だって、浴衣の帯で腕を縛ってしまえば、完全に主導権は俺のものだった。唇を塞がれた幻太郎はもごもごと何かを訴えているが、俺の耳には届かない。浴衣を割って下着を剥いでやれば、綺麗な若葉色の瞳がぎゅっと閉じられた。
「うっ……ぁ、やめて、帝統……」
緩い角度だったが幻太郎がきちんと反応していることにホッとする。剥き出しになった性器を撫でてやれば、顔色がサッと赤くなり俺の待ち望んでいた甲高い悲鳴が上がった。
「だい、す……あっ! や、そこ、」
「気持ちいい?」
解っていて敢えて問えば、幻太郎の首が何度も上下して俺は安堵する。着ていたスウェットを雑に脱いで、だらだらと先走りの零れている俺のものと重ねて擦り始めると、幻太郎の目がとろりと正気を失うのは早かった。
互いの性器を重ねて擦るだけの自慰と、後孔に指を軽く抽挿しただけの前戯で、挿入もせずに俺達はあっさりと達してしまう。射精した後ぽーっと惚けていたのは多分数秒で、幻太郎はすぐに目を瞬いた。理性を取り戻すのが早いのは男の厄介なところだ。
「違うんです、あの、小生が言いたいのは――」
話が戻りそうな気配を察して、俺は構わずに幻太郎の太腿を持ち上げた。え、と丸く見開かれた目を見つめながら貫いた瞬間、悲鳴みたいな嬌声が上がる。
「げんたろ、好き」
「あっああっ」
「すげー好き……」
正常位のまま鼻と鼻がくっつくくらいの距離で囁くと、熱を持ったやわい肉壁がきつく締まった。あーこれ、あんま保たねえなとぼんやり思いながら腰を振り続けていると、不意に幻太郎の目尻から涙が零れる。
――善すぎて出た反応か、それとも抱かれるのが嫌なのか。どう考えても前者に決まっているのに、この時の俺にはその自信が全く無くて、冷水をぶっかけられたみたいに一瞬で身体が強張ってしまう。
「だいす、俺も」
腕を縛られ、好き勝手に揺さぶられている幻太郎が、浅い呼吸を繰り返しながら口を開いた。
「好きすぎて、どうしよう……」
ぐすぐすと涙混じりのしょげた声が俺の心臓に命を吹き込む。理性が飛んで本音しか出て来ない、セックスの最中の告白に胸がかっと熱くなった。
噛み付くようにキスをして夢中で腰を打ち付けると、幻太郎の口からは苦しそうな悲鳴しかもう出て来ない。話も聞いて貰えず、無理矢理快楽を引きずり出されている可哀想な身体を、俺は貪ることしかできなかった。
「もっかい言って」
「ひあっ、や、やだ、深い……」
「言って。好きなんだろ、俺のこと」
「あうっ、あ、すき、大好き」
抽挿に耐えながら、震える声が健気に答える。幻太郎にはもう何度も伝えて貰っているし、好き合っているのなんて解りきった事実なのに、いとも簡単に揺らいでしまう俺は大人になっても弱いままだった。
前に幻太郎が出て行った時もそうだったが、好きだけど離れていくことがあるんだと、俺は身を以て知っている。引き留める術を知らないから、ただバカみたいに腰を振って手を繋いで、離したくないと伝えることしか出来なかった。
事が終わり、幻太郎の真意を説明された俺は、部屋の隅で小さく縮まることしか出来なかった。「あー痛い、腰も喉も心も痛い痛い」と当て擦る幻太郎に、すみませんでしたと正座のまま頭を下げたものの、
「あなたどうせまた同じ事やるでしょ」
的を射た言葉に俺は何も言い返せなかった。
無言を肯定と受け取ったのか、じと目を向けていた幻太郎が溜め息を吐いて品を作る。
「妾と帝統は前世で結ばれなかった姫と武士〜」
「え、何だよ急に」
「今世で巡り合えたのですから……」
懐かしいフレーズを幻太郎が紡ぐ。今でもあのやり取りを覚えているのは、出会って間もない頃に言われたこの言葉に、変な奴だなと強烈な印象を受けたからだった。言われた当時は鳥肌が立つだけだったが、今振り返るとこいつ、他のヤツにも同じ事言ってたりしねえよなとくすんだ気持ちが湧いてくる。
「一時も離れていたくないというのは、本当ですよ」
苦い笑みを浮かべた幻太郎が俺に腕を伸ばした。
羽織っていただけの浴衣が落ちて、まだ熱の残る素肌が俺を包み込む。抱きしめられても正直まだ不安は消えなかったが、幻太郎が本当の事を喋っていることは勘で解ったので、俺は無言で頷いた。
ガキの頃に同じような言葉を言われたことがある。離れたくないと言いながら俺を置き去りにした女の嘘も、幻太郎が普段吐くしょうもない嘘も、俺はどちらも未だに騙され続けているけれど。
好きだからしょうがねえよなー……と匙を投げるような気持ちで、俺は目の前の体温を強く抱きしめ返した。
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2021年夏にありゆめ2合わせで出した、『ユートピアを綴る』という本でした。この本の前日譚になる『ユートピアを泳ぐ』という本を発行したので、前作が読めた方が良いかな〜と思いWEB再録してみます。当時手に取ってくださった方、本当にありがとうございました!