[ 有栖川帝統くんの憂鬱 ]


 1.

 自慢じゃねえが俺は人生でモテたためしがない。
 有栖川の名字を背負い猫を被っていたガキの頃はそうでもなかったが、これは俺の本質じゃねえからカウント外だ。家を出てギャンブル漬けの最高の人生を過ごすようになってからは、俺は女よりオッサン連中に重宝された。
 麻雀の頭数、パチ屋の待機列を過ごす仲間、都合のいい労働力と理由は様々だったが、女っ気のあまりない日常でもギャンブルさえできていれば俺に不満はなかった。惚れた腫れたに興味は無く、痴情のもつれなど無縁の日常で、そういう意味でも、今の状況は何だろなって思う。
 ふと目を覚ました朝方のベッドの中で、俺は右に頭を傾け、それから左も同じように確認し、思わず頭を抱えたくなった。寝入った時は確かに俺一人だった筈なのに、いつの間に潜り込んだのか左右を女に囲まれている。何だコレ、異常事態ってヤツじゃねえの。――いや、片方は女じゃねえんだけど。
「うーん……」
 俺の左側を陣取っていた身体がもぞりと身動ぎ、俺はギクリと肩を揺らした。朝に強いせいで真っ先に目が覚めていたけれど、よくよく考えたらいつまでもベッドに居るのは得策ではない気がする。
 バカみてえに高い天井から床まで伸びた、無駄にでかい窓からは、眩しすぎる朝日が燦々と室内に注がれていた。朝に弱い人間でもうっかり目覚めそうな明るさに俺は決心し、ゆっくりと上半身を起こす。まだ寝ている左右の相手を刺激しないよう、そーっと、そろりと、自室なのにまるで泥棒のような慎重さで、まず俺の右側に横たわる身体を跨ごうとして。
「あら。ようやく起きたのですか、帝統」
 ぱちりと開かれた眼に、俺は思わずギャッと悲鳴を上げた。
「んーっ……だいす、うるさいですよ……」
 慌てて口を塞いだが手遅れで、俺の声に気付いた左側の身体もゆるゆると瞼を開こうとしている。
 待て、起きるな、頼むからお前だけでも寝ててくれ――。そう切実に祈ったが、無情にも緑玉色の宝石みてえな綺麗な瞳はぱちりと開き、まず俺を見て、それから俺の横にいる女の姿を捉えた。
「寝癖がすごいですよ、帝統」
 母が梳かしてあげましょう、と最悪のタイミングで構い始めた女に、俺はあちゃあと顔を覆った。俺と乙統女のやり取りに、寝起きのぼんやりしていた幻太郎の頭は素早く覚醒してしまう。
「帝統の寝癖を直すのは小生の仕事です!」
 いやお前の仕事は小説を書くことだろ、と俺の内心のツッコミは言葉にはならない。
「さ、帝統、小生の方へいらっしゃい」
「えーっ……と……」
 声音は優しいが、目の色には有無を言わせぬ迫力があった。
 俺は眼前の幻太郎と、俺の寝間着を握って離そうとしない背面の母親の間で完全に板挟みになっている。
「朝から騒々しい方ですね。帝統の寝覚めが悪くなるでしょう」
「勝手にベッドに潜り込む方に言われたくありませんねえ。そちらこそ安眠妨害なのでは?」
 自分のことを棚に上げてよく胸を張れるものだと、幻太郎の胆力に俺は半ば感心する。二人が同衾していたことにも気付かず爆睡していた己の呑気さを悔やみながら、ここ最近、すっかり日常となってしまった幻太郎と乙統女の相容れないやり取りを、俺は朝からげんなりした気持ちで眺めていた。



「お前さあ、何度も言うけど、シブヤに戻れって」
 朝食を終えた俺が離れの中庭で一服していると、小脇に本を抱えた幻太郎がやってきた。何も言わず隣に腰掛けて当たり前のように本を読み出す姿に、俺は苦い顔でフィルターを噛む。
「ここに居たってやることねーだろ。その本読むの何度目だよ。俺までタイトル覚えちまったわ」
「おや、ジュール・ヴェルヌに興味がおありで?」
「え、何? ぼ、ぼんじゅーる?」
「……ちょっと惜しいですね。著者はフランス人なので、帝統にしては賢い答えじゃないですか」
「だーーっ、もう! 用がないならどっか行けって! お前がいるとタバコが不味くなるわ」
「つれないですねえ。小生は貴方と一緒にいたいだけなのに、そんなに邪険に扱うなんて、悲しいです……」
 ぱたんと本を閉じ、俺をうるっと見つめる幻太郎の瞳は濡れていた。が、コレぜってー嘘泣きだろ、と俺は即座に疑う。このパターンに何度も騙され続けているので、流石にもう引っかかりはしなかった。お見通しなんだっつーの、お前が着物の内側に目薬を常備してんのは。
「しょぼくれたフリすんじゃねえよ。もう何度も言ってんだろ、幻太郎がここにいる意味なんてねえって。いい加減諦めろって」
 目を合わせないよう視線を逸らしながら、俺はすっかり不味くなってしまった紫煙を吐き出した。
 雲一つ無い快晴を見上げ、何なんだろうなこの状況、と俺はまたも自問する。視界に入る景色にシブヤに居た頃のようなコンクリートジャングルは一つもなく、ただ何処までも青い空と、北の大地特有の針葉樹の濃い緑が広がっていた。うっかりタバコを落とせば大惨事になりかねない自然豊かな土地で、ギャンブルをしていない俺と、締切に追われていない幻太郎が、一つ屋根の下で寝食を共にしている。
 俺に家がなくて幻太郎の世話になっていたあの頃なら珍しくもない日常だったが、ここはシブヤでも中王区でもない最北のディビジョンにある、かつて俺の実家が所有していた別荘の一つだった。
 H歴に終止符が打たれた今、別荘の所有権は現政権に移ったものの(オフクロの財産は殆ど国に没収されている)、監視付きで前政権の党首とその息子がひっそりと暮らしている。そこへある日突然、ボストンバッグ一つで乗り込んできたのが幻太郎だった。
「小生、帰りませんから」
「お前なあ……」
「貴方も一緒じゃないと、絶対帰りません」
 俯いてぎゅっと拳を握る姿に、頑固者、と俺は呟いた。
「いくら粘られても、シブヤには戻んねえぞ」
「結構です。長期戦には慣れていますので」
 全然結構じゃなさそうなむっつりと拗ねた顔をして、幻太郎はつんと顔を逸らしていた。何だその可愛い顔は、と一瞬零れそうになった本音を俺は慌てて飲み込む。
「……オフクロに滞在費払ったって本当か?」
「ええ、勿論。あの方に借りは作りたくありませんからね」
 吐き捨てるように肯定する幻太郎の顔は険しくて、それも当然のことだろうと俺は得心していた。
 言の葉党を率いて革命を起こした俺の母親がしてきた事は、清濁併せて世の中を、そして幻太郎や乱数の人生を大きく変えている。恨まれて当然だと思うし、俺は、俺の身体にその女の血が流れている事を二人にギリギリまで隠し続けていた。
 それなのに幻太郎は、こんな田舎まで何故俺を追って来たんだろうか。俺の血筋には怒らなかったのに、黙ってシブヤを出たことには腹を立て、連れ戻そうと躍起になっているんだろうか。
「マジでわかんねえ。何でそんな無駄金払ったんだよ」
「乱数にも同じ事を言われました。暫くは帝統の好きにさせてあげなよとも言ってましたねえ」
「アイツ今何してんの?」
「放浪の旅に出ていますよ。世界中あちこちで、服飾と女性を謳歌しているみたいです」
 携帯の画面をなぞる幻太郎の指が、近況らしき乱数の写真を開く。しがらみから解放された乱数の顔は生き生きと輝いていて、健康な人間そのもので、俺は安堵し、それから首を傾げた。
「え、乱数もシブヤにいねえの?」
「そう言えば。最近めっきり会っていませんね……」
「じゃあ乱数から迎えに行ってこいよ。俺はその後でいいじゃん」
「ダメに決まってるでしょう。折角旅を満喫しているのに、邪魔をしては乱数が可哀想です」
 俺はいいのかよと思わず零すと、「信用の問題です」とにべもなく幻太郎は答えた。
「『オフクロとは仲悪い』って言ってたのに、貴方達、二人揃ってべったりで離れる気配ないじゃないですか」
 この大嘘つきめ、とじと目を向けてくる幻太郎に俺は弁明した。
「ウソじゃねえよ。昔は本当に悪かったっつーか、今が落ち着いてるだけで……俺もオフクロも大人になったんだよ」
「はあ、そうですか。大人になって和解して、母を追ってシブヤを飛び出し、同居しちゃうくらいマザコンになっちゃった訳ですか」
「帝統はマザコンではありません。昔から優しい子でしたよ」
 横から突然湧いた声に、俺と幻太郎は同時にびくりと肩を跳ねさせた。いつの間に近付いていたのか、俺に腕を絡めたオフクロが「親孝行な子でしょう」とドヤ顔で自慢げに笑っている。
 いつからそこに、と驚く俺達を他所に、涼しい顔で母親は腕時計を俺に示した。
「帝統、そろそろ時間です」
「あ、ワリ。今行くわ」
 促すように腕を引かれ、俺は慌ててポケットを弄った。オフクロの外出に付き添う約束を忘れていた訳ではないが、幻太郎と喋っているとどうにも時間があっという間に過ぎてしまう。
 携帯とタバコ、それから車のキーが収まっているのを確認し、オフクロに手を引かれるまま歩き出そうとして――俺はたたらを踏んだ。後ろからぐいぐいと強い引力を感じ、振り返る前に思わず溜め息が漏れる。
「言っとくけど、げんたろーは留守番だからな」
「嫌です、小生も行きます。荷物持ちは多い方が便利ですよ」
 首を捻ると、予想を裏切らない拗ねた顔をした幻太郎が俺の袖を握っていた。
「ダメだ。お前は連れて行かねえ」
「運転なら帝統より丁寧な自信があります」
「あのなあ、そういう問題じゃ……」
「夢野さん。あなたは客人なのですから、運転の必要はありませんよ」
 おっとりと諭すオフクロの声は力強く、そして俺の腕に絡まった細い女の腕力もぐぐっと強まった。
 この家の中では幻太郎の立場はオフクロより弱い。強く出られると返す言葉は無かったようで、言い返せない不満が俺の手を引く力に現れていた。俺と出掛ける約束をしているオフクロと行かせたくない幻太郎の間で、左右から引っ張り合われる俺はたまったもんじゃない。
 二人を振り払うことは簡単だったけれど、そんなことが出来る筈もなく、俺はちぎれそうな自分の腕に思わず悲鳴を上げた。その声にハッとした幻太郎が、慌てて手を離す。
「……何時に戻りますか」
 赤くなった皮膚を擦りながら、弱々しい声のした方へ目線を向ける。くしゃりと顔を歪ませた幻太郎は、俺への問いにありありと不安を乗せていた。
「夕メシまでには戻るつもりだけど」
「わかりました。気を付けて行ってらっしゃい、お母様がいるんですから、乱暴な運転はしてはいけませんよ」
「……おう。行ってくるわ」
 ようやく自由になった身体で踵を返し、俺はオフクロと共に車へ乗り込んだ。プッシュボタンを押す前に鏡越しにちらりと後ろを確認すると、書生服を風に靡かせながら幻太郎がぽつんと立っている。俺の手を潔く離した幻太郎の声は素っ気なくて、しおらしい態度はほんの一瞬だけだった。
 けれど俺には、あいつの考えていることがなんとなく解ってしまう。このまま戻ってこなかったらどうしようという不安が、顔にハッキリと滲んでいた。
 H歴の終焉後、俺は乱数と幻太郎には何も告げずにオフクロの元へと向かった。二人と縁を切るつもりは無かったが、出自を隠していた後ろめたさから暫く距離を置きたいと思ったのは確かだ。最後に会ったのは三人でメシに行った時で、夜のざわめく繁華街で解散した時、俺は数時間後にシブヤを発つことなんておくびにも出さず、またなーっつって、呑気な顔で手を振って別れた。
 それからきっかり十日後だったっけ。ボストンバッグをぶら下げ、カンカン帽を被った幻太郎が、屋敷の門前で睨むように立っていたのは。
 ここは俺とオフクロの家なのに、目を離すとまた俺がどこかへ消えてしまうんじゃないかと幻太郎は何かある度に本気で不安がっていて、俺は正直に言うと、そんな幻太郎を脇目も振らずに抱きしめたくて仕方が無かった。
 シブヤを出た理由は幾つかあるが、わりとデカい面積を占めているのが幻太郎の存在だ。面と向かって非難された事はなかったけれど、俺が東方天乙統女の息子だという事実が幻太郎の中でどう受け止められているのか――或いは拒絶されているのか、知りたいような目を背けていたいような、煮え切らない思考を持て余し続けた結果、俺は逃げることにした。だって、誰だって怖えだろ。惚れたヤツに嫌われてるかもしれねえ状況は。
「――帝統、だいす。道を間違えていますよ」
「へっ? あー、やべ。ボーッとしてたわ」
 助手席のオフクロに指摘され、信号を一つ通り過ぎてしまった事に気付く。何度も通った病院までのルートはもう頭に入っていたが、考え事をすると注意散漫になるのは俺の悪い癖だった。昔から、一つの事に夢中になると他がどうにも見えなくなる。
「夢野さんに懸想するのは構いませんが、運転だけはしっかりしてくださいね」
「へーへー。悪かったよ」
「返事は一回になさい」
 説教を右から左に聞き流すと、「こんなどら息子をわざわざ引き取りにくるなんて、夢野さんも随分変わった趣味ですこと」と溜め息が漏れ聞こえ、俺は慌てて背筋を伸ばした。
「お前さあ、そういうの頼むから、本人の前では絶対言うなよ……!」
「ご心配なく。母は敵に塩を送るほどお人好しではありません」
「どーいう意味?」
「あなたの声をもう暫く聞いていたい、ということです」
 穏やかに微笑んだ女は、国家転覆を成し遂げた事がある奇人とはとても思えなかった。田舎の片隅で静かに閑暇を過ごしている、ただの品の良い貴人にしか見えない。
 けれどその身体には確かにH歴の名残が残っていて、定期的に俺がこの女を病院に連れて行くのは、適合しない真正ヒプノシスマイクを使った副作用が今もオフクロの身体を蝕んでいるせいだった。
 ヒプノシスマイクの解析と医学の進歩次第では回復する見込みもあるらしいが、その可能性には期待しないようにとも医者からは言い含められていた。
「幻太郎が払った滞在費ってさあ、あとどんくらい残ってんの」
「あら、何故?」
「や……しょっちゅう喧嘩してるし、敵って思ってるんだったらストレスになってんじゃねーのかなって。そういうの身体に悪ィだろ」
「シブヤへ戻るよう夢野さんに再三言い含めているのはそれが理由ですか? 私はてっきり……」
「何だよ」
「我慢できずに寝込みを襲って嫌われる前に、追い返そうとしているのだと思っていました」
 意外そうに口元に手を当てる仕草は、的確に俺の真意を突いてきた。オフクロの想像はどちらも正しくて、女の洞察力の鋭さに白旗を掲げたい気持ちになる。
 思えば俺が幻太郎を特別に想っていることも、顔や態度に出した事はなかったのに何故かオフクロには直ぐバレてしまった。肝心の本人は、シブヤでポッセとしてつるんでいた頃から一切気付く気配が無いというのに。
「夢野さんには小切手をいただいたんですよ」
「は?」
「金額の書いていない、白紙のものを一枚。彼は帝統を連れ帰るまで居座りたいのでしょうけれど、私が自由に金額を決められる以上、いつでも追い返すことは可能なんですよ」
 怪訝な顔をする俺に、珍しく愉快そうな声でオフクロが続ける。
「夢野さんとの対話は楽しいので暫く居てもらうつもりです。あなたの反応も見ものですしね。母が共寝をしていれば、早々間違いも起こせないでしょう?」
 毎晩忍び込まれる理由はそれか、と納得できてしまった俺は、返す言葉が浮かばず無言でハンドルを繰るしかなかった。むっつりと拗ねた俺にオフクロはくすくすと笑う。
「恋とは乙なものですね。大人になったあなたと、こんな時間を過ごす日がくるなんて」
「五十過ぎのババアが恋とか言うなよ……」
 嬉しそうな声と耳慣れない言葉に居た堪れなくなった俺がボソリと洩らすと、ハンドルを握る手の甲を思い切り抓られた。痛ってェ! と思わず叫ぶが助手席からは白々しい声が返ってくるだけだ。
「安全運転でお願いしますよ。夢野さんにも注意されたでしょう?」
 お前を乗せてる時はいつだって慎重だよ、とは癪だから言わない。細められた目は息子とのドライブを楽しむ母親のものでしかなく、行き着く先は病院だってのに何でこんな顔すんだよって、俺はむず痒さを堪えながらアクセルを踏む力を緩めた。




 2.

 夜も更けた就寝時、俺はげんなりした顔で自室のベッドで胡座をかいていた。やることもねえしそろそろ寝るかと思った矢先、正面には何故か幻太郎が枕を抱えてちょこんと座っている。いや、マジで、何でいるんだよお前は。
「帝統、小生そろそろ眠いのですが」
「おーそうか。じゃあとっとと戻れや、お前の部屋に」
「電気消してくれません? 暗い方が落ち着くんですよね」
「待て待て待て、人の話を聞け、ベッドに潜り込もうとすんな!」
 シーツを捲り、今にも寝台に収まろうとする身体を慌てて阻止すると、幻太郎は不満そうな顔で唇を尖らせてきた。
「お母様とは毎晩同衾してるくせに」
「し・て・ね・え! あいつが勝手にカギ開けて入ってくんだよ」
「じゃあ私にも鍵ください。一つくらいスペアあるでしょ」
 ほら早く、とひらひらと手のひらを向けてくる幻太郎に、俺は頭を抱えたい気持ちになった。
 オフクロと幻太郎に挟まれて朝を迎える日々に嫌気がさした俺が、就寝時に施錠するようになったのはつい数日前のことだ。マスターキーを持っているオフクロが潜り込んでくるのは阻止できなかったけれど、一番の問題だった幻太郎を遠ざけることには成功し、俺はおおむね満足していた。
 目が覚めて、隣で好きな奴が寝息を立てているのは正直身が持たねえ。例え反対側にはオフクロが居て監視されているとしても、短慮な自分を信用することはできなかった。
 だからうっかり間違いを起こす前に対策できて良かったと安堵していたのに、諦めの悪い幻太郎は、施錠される前に俺の部屋に潜り込むことにしたらしかった。さて寝るかと自室に戻った俺が「遅かったですね」「小生先に寝るところでした」などと出迎えられてから、どちらも折れない不毛なやり取りがかれこれ数十分続いている。
「……わかった。そんなに欲しいなら、お前にやるよ」
 サイドテーブルから鍵を取り出した俺に、幻太郎の眼が嬉しそうに煌めいた。
「言っとくけどタダじゃねえからな」
「え、何です。まさかお金取ろうってんですか?」
 キラキラした眼差しが一転し、汚いものでも見るような侮蔑の視線を向けられ、俺はムキになって賽を一つ取り出した。
「丁が出たらお前の勝ちだ。半だったら大人しく諦めて今後部屋には来ない。いいな?」
「ええ……八百長確定じゃないですか、それって」
「何でだよ! 公平だろーが」
「だって貴方、ある程度賽の目弄れるでしょ」
「だから俺は振らねえよ。お前がやれ」
 放り投げた賽は弧を描き、幻太郎の手の中に収まった。白い喉仏が緊張したように僅かに動き、幻太郎は戸惑いながら賽を摘まんでしげしげと眺めている。角度を変えながら重さを確認するその素振りに俺は苦笑した。
「何も仕込んでねえって」
「これは失敬。貴方が存外素直に提案してきたものだから、つい疑ってしまいました」
 サイドテーブルにあった小物入れを取り、幻太郎の前に置いた。それを合図に、手のひらを数回揺すった幻太郎は賽をそっと放つ。小さなトレイの中で賽はあっという間に動きを止め、上向いた数字は俺の読み通り奇数だった。
 几帳面な性質だからか、幻太郎には賽を振る時決まった面を上にする癖がある。手の傾きや放り投げる角度もほぼ一定なので、奇数を出すだろうなと俺はほぼ確信していた。
「半だな」
「……っ」
「男に二言はねえよな、幻太郎?」
 ほっと胸を撫で下ろしながら、さあ帰った帰った、とベッドの上で悔しそうに呻く幻太郎を追い立てると、俺は思わぬ反撃を食らった。
「〜〜わかりました。じゃあ今夜だけ一緒に寝てください」
「ハァ?! え、何でそうなんの?」
「勝者は敗者へ情けを掛けるべきですよ」
 負けたはずの幻太郎が、妙に強気な態度でシーツに潜り込んできた。読みが外れた俺はおおいに慌て、途方に暮れていると、タイミングが良いんだか悪いんだか扉がガチャリと開いた。開けたのは当然、この部屋の鍵を俺以外で唯一持っているオフクロだ。
「…………あら。お取り込み中ですか?」
「そーです。込み入ってますので、用があるなら明日またどうぞ」
「用なんてありませんよ。いつも通り寝に来ただけです」
 ご丁寧に持参した自分用の枕を見せつけながら、しれっとした顔でベッドに乗り上げようとするオフクロに幻太郎の頬がむっと膨れた。
「帝統と寝るのは小生です。お引き取りください!」
「いやお前も帰れよ……」
 俺のベッドはいつの間にか幻太郎とオフクロに占拠され、持ち主が寝る隙間の無さに思わずげんなりした。もう廊下でいいから一人で安眠してえ。大理石は硬えが、野宿に比べりゃ五倍くらいマシだろう。
「私は夢野さんが一緒でも構いませんが、大人が三人で並ぶと流石に狭いですね……。ゲストルームのベッドが一番大きいのでそちらへ移動しますか?」
「お母様お一人でどうぞ。帝統と小生はここで、二人で、寝ますので!」
「……幻太郎、悪ぃけどお前は部屋に戻れ」
 わざと大きな溜め息を落として告げると、幻太郎の顔は可哀想なほどくしゃりと歪んだ。
「……一晩もだめなんですか?」
「うん、ゴメン。それにオフクロも、勝手にカギ開けて入ってくんのはいい加減やめろや」
「……あら。良いのですか? 私は困りませんが、うっかり狼になって後悔するのは」
「だーーー! ウルセえな、俺がいいっつってンだよ!!」
 頼むから余計なことは言うな、と内心冷や冷やしつつ声を荒げて誤魔化すと、オフクロの方はあっさりと引き下がった。「夢野さんも、あまり帝統を困らせないでくださいね」と有り難いようなそうでないような釘を一言刺して、入ってきた時と同じようにするりと退室する。元々お節介で寝に来ていただけなので、食い下がる強い理由がないのも当然だ。
 問題は、未だシーツの上から動こうとしない幻太郎の方だった。
「……お前も戻れって」
「嫌です」
「あーのーなあっ」
「帝統が寝付くまででいいんです。貴方が寝たら、ちゃんと出て行きますから」
 固く拳に力を入れる幻太郎の訴えに、ああそうか、とすとんと腑に落ちた。俺が眠るのを見届けたら安心して帰れるって、つまりそれは。
「どこにも行かねえよ、俺は」
「……そうでしょうか。そろそろ辛抱できずにこっそり賭場へと抜け出す頃じゃないかと、小生は予想してるんですが」
「あー、まあ、それはその内やると思うけど。お前が心配してるようなことはしねえよ」
「嘘つき。貴方はね、『またな』って笑いながら私達を置いてどこかへ行ってしまえる人なんですよ」
 痛いところを突かれた俺に、返す言葉は無かった。この件に関しては幻太郎の中で完全に信用を失くしているらしい。
 ただ、置いて行かれたことを根に持っている様子なのに、その事で俺を責め立てたり二度とするなと諫めるようなことは口にしてこないところが、コイツらしいなって感心した。俺のやり方に口を出さず、ただ毎晩寝息を確かめて密かに安堵しているような慎ましさが好ましかったし――気がかりでもあった。
 不器用な奴だと思う。普段はあれほど口が回るし冷静に物事を俯瞰できるのに、心を許した相手への干渉がどうしてこうも下手なのだろう。俺はたぶん、幻太郎に本気で縋られたら大抵のことは断れなくなるのに、一歩引いた態度でこっちが拒絶する余地を残されてしまうと、幻太郎のワガママを受け入れずに済んでしまう。共寝はしないしシブヤへも戻らない。俺が幻太郎に対して雑念を持たずに済むようになるまでは戻りたくなかったし、帰れないと思っていた。
 乱数にもまだ、どういう顔で会えばいいのかわからなかったし。
「幻太郎」
「何ですか」
「今日だけだからな」
 俺の隣にわかりやすく一人分のスペースを空けてやると、え、と幻太郎の目が丸くなった。
 考えてみれば、ここへ来てからの俺は幻太郎の頼みをいつも聞いてやらなかった。こんなところまで追い掛けてくる程俺を必要としてくれているダチの願いを面倒くさそうに撥ね除けるばかりで、何一つ頷いた記憶が無い。一緒に出掛けたいだとかそんなささやかなものですら、叶えてやらなかった。
「……いいんですか?」
「その代わり、明日からもう来んなよ」
 期待と驚きに瞳を戸惑わせながら、幻太郎がそろりとベッドに乗り上げる。ギシリと軋む音が部屋に響いた後、ほとんど隙間を空けない距離で俺に触れる体温を感じた。いやこれ近くねえか?! と予想外の間隔に動揺していると、俺の心情など知らない幻太郎は嬉しそうに顔を緩ませていた。
「二人で眠るの、初めてですね」
「ハァ?」
「だってそうでしょ。小生の家に貴方が転がり込む時は部屋は別々ですし、こちらに来てからは常にお母様もいらしたし」
 背丈が同じなのは厄介だなと身に沁みた。幻太郎は向かい合って眠りたいのか、いそいそと身を寄せてくるものだから顔が近い。近いっつーか、息がかかるくらい正面にある。
 睫の長さだとか、触れたら気持ちよさそうな滑らかな頬だとか、ちょっとだけ俺と同じ色が混ざった澄んだ瞳だとか。そういう、普段敢えて避けているものが全部眼前にあるのは、大袈裟でなく生きた心地がしなかった。
 シーツに胡桃色の髪を散らせながらこちらをにこにこと見つめる表情は文句なしに可愛くて、すっぴんでコレってすげえなとまじまじと感動してしまう。煩いくらいに跳ねる心臓は正直で、俺は幻太郎にくるりと背を向けてしまいたい衝動を必死で抑えていた。何でそうしないのかって、理由は一つだ。俺に受け入れられた事で、幻太郎が嬉しそうにはしゃいでいたから。
「明日も一緒に寝ましょうね」
「お前俺の話聞いてたか?!」
「勿論。でも承諾はしてませんよ」
 慌てた俺の反応に、幻太郎がくすくすと口元に手を添えて笑う。楽しげな表情は随分久し振りに見た気がして、俺は思わずじっと見入ってしまった。視線がばちりと合い、幻太郎は少し目を丸くしたものの目を逸らすことはしなかった。ただ穏やかな眼差しを俺に返しながら、優しい声を降らせる。
「貴方と目線が合うの、久し振りな気がします」
「……何だよ、急に」
「いえ、意外だったので。どうせ今夜も追い返されるんだろうなあって思ってましたから」
 棘のある言葉とは裏腹に、たいして気に留めていない素振りで幻太郎がのどかに語る。
「ここに来てからの小生は帝統を怒らせてばかりでしたから、そっぽを向かれたり素気なくされるのはまあ仕方ないなと思ってるんです。貴方の意志を無視してシブヤに連れ戻そうとしているし。だから、嫌われたかもなあってちょっと不安だったんですよね」
 困ったように眉を下げながら笑う顔に、俺が仰天したのは当然だと思って欲しい。人間観察がシュミだと言うわりに自分のことには疎い幻太郎だったが、予想外の杞憂に思わず唖然とする。
「幻太郎、それは」
「?」
「お……」
「お?」
「俺の方じゃねえのか……?」
 ごくりと息を呑みながら確認の言葉を口にすると、幻太郎の下がっていた眉が少し角度を上げ、眉間に皺が寄った。
「え、何の話です?」
 空気の読めない作家に怪訝そうに見つめられ、俺はそこで脱力した。遠回しに好意を示そうとするとやっぱ伝わんねえな、と気落ちするが、そこでもう一声上げる勇気は俺にはない。
「何でもねえよ。眠くてちょっと頭回ってねえだけ」
「貴方、こっちに来てからおじいちゃんみたいになりましたねえ……。夜中こそ有栖川帝統のゴールデンタイムだったのに」
「お前だって似たようなもんだろ」
 電飾をオフにして室内を真っ暗にしながら、シブヤに居た頃の夜を思い出す。締切間際の幻太郎は夜更かしの常習犯だったのに、ここへ来てからはただ静かに読書をするだけの規則正しい生活を送っている。一心不乱に書物机に向かう姿が見れないのは別に構わなかったが(俺は幻太郎が作家だから好きになった訳じゃねえ)、コイツはそれで平気なのかなって懸念は少しだけあった。
 照明が落ちたからか、欠伸をかみ殺す声がした後なだらかな夜の挨拶が響く。「帝統、おやすみなさい」と健全な台詞に軽く返事をして、俺は幻太郎に背を向けた。
「げんたろー」
「何ですか」
「お前はさ、小説書く時みてえに色んな展開を想像しちまうんだろうけど、言っとくけど俺はスゲエ単純だからな」
「はあ……?」
「家や金が無くなってもギャンブル辞めようなんざ絶対思わねえし、お前らと仲間になって何一つ後悔してねえって言ったらその後もずっと後悔なんてしねえし、俺にとって大事だと思ったら最後までそのまんまなんだよ」
 だから俺がお前を嫌う事はないんだと、そう思っていることが伝わればいいと願って吐露した。
 幻太郎がオフクロとどれだけ喧嘩しようが俺の生活を掻き乱そうが、面倒くせえなって思うことはあっても、それで嫌いになるほど緻密な頭の作りはしてねえんだよ。
 喧嘩の仲裁は面倒くせえけどオフクロと張り合ってムキになる姿は可愛いなって思うし、予定が多少狂ったとしても俺の日常に幻太郎がいるのはやっぱいいなって思う。俺にとってはその程度の認識を幻太郎が不安がっているのは、つまらないと思った。もっと堂々と胸を張って我を通せばいい。願望のままに生きればいい。そう思ってつい口を滑らせた俺に、背中越しの幻太郎は何を思ったのか――
「つまり、お母様との邪魔はするなって事ですか?」
 そう言ってべたりと胸を寄せてきた。
「何でそうなる?!」
「なんでも糞もないでしょ。親孝行の邪魔だからお前はシブヤに帰れって、帝統がたった今言ったじゃないですか」
 思わずツッコんだ俺に反論する幻太郎の声は、完全にむくれていた。真っ暗な寝室でも、拗ねた顔をしているんだろうなと想像するのは容易い。コイツ一体どういう思考回路してんだと途方に暮れる俺を、幻太郎は更に窮地に追い込んできた。
「おまっ、くっつくなって!」
「嫌です。小生、貴方と一緒じゃなきゃシブヤには戻らないって決めてるんですからね」
 背中一面にべったりと張り付いたのは幻太郎の体温だった。腕を回され、何故か抱きしめられる体勢になっていることに俺は悲鳴を上げた。状況が全く呑み込めねえが、このままだと拙い展開になることは確信できたのでサイドテーブルの携帯を掴み、俺は素早く指をスライドさせる。
 頼むから起きててくれよと祈りながらオフクロを呼び出す俺に気付いたのか、幻太郎はますますいじけた声で罵倒してきた。「帝統のマザコン、嘘つき」と不貞腐れた声が、「一緒に寝れると思ったのに」と悲しそうにしょぼくれる。流石に胸が痛んだが、背中にべっとりと張り付かれた俺の股間も段々痛み始めているので、幻太郎の声は無視するしかなかった。
「……小生でもいいじゃないですか。お母様の替わりに、ちゃんとシブヤで帝統のママになってあげますよ」
 ママってなんだよ、俺は二人も母親なんつーめんどくせえ生き物はいらねえんだよ、って思いながら、幻太郎にとって俺はどういう立ち位置なんだろうと眉間に皺を寄せてみた。
 息子というか、お気に入りの玩具みたいに思われている節があることは悟っている。シブヤに居た頃からそういう目で幻太郎を見ていた俺は、幻太郎にそういう目で見られていないことなんざとっくに承知していた。けれど並々ならぬ好意を持たれていることは確信していて、だからこそ適切な距離感が掴めずに、自分の出自を考えると告白も出来ず、立ち往生することに少し疲れていた俺はシブヤを出ることにした。
 オフクロが気がかりだったのも本音だし、距離を置くことで幻太郎への感情が友情へ好転しねえかなと、あわよくばな事を考えていたのも事実だった。自分の性質を考えると、本気で好きになってしまったら死ぬまでそのままな可能性も高かったが、誰か一人に固執したことが今まで無いので幻太郎への感情がこの先どう変化するかはわからない。
「幻太郎とオフクロを一緒にすんじゃねえよ」
「わかりました。貴方がその気なら、親離れできるように今後も精々励ませていただきます」
 マザコンと罵られて終わる方がまだマシな気もしたが、形振り構っていられないこっちの心境など微塵も気付いていない幻太郎は、藁にも縋る思いでオフクロを呼び出した俺に、好戦的な声で決意表明を返したのだった。





 3.

 俺が幻太郎とオフクロの夜這いから解放され、安眠を確保できるようになり数日経った日の事だった。
 あー眠ぃい……と瞼をうつらうつら揺らしながら、一階のダイニングに下りた俺の耳に飛び込んできたのは、朝からキャンキャンと威勢の良い幻太郎の声だった。「帝統はいつも和食なんです!」と叫ぶ声に、「あの子は何でもおいしく食べますから、夢野さんの好みに合わせていたんですね」と張り合うオフクロの声が混ざる。もはや日常となったやり取りは目覚まし代わりのようなもので、どうやって収めっかなァなんて考えながら俺はぼんやりと霞む頭を覚醒させ始めていた。
 ちなみに俺は腹が膨れりゃ朝メシは何でもいいと思っている。
「あら帝統、おはよう」
「おー……」
 先に気付いたオフクロが俺に声を掛けると、幻太郎も慌てた様子でこっちを振り向く。「だいす、だいす、今朝は鰺の開きですよ!」と懸命に訴えてくる姿は可愛く、そして何より割烹着着てんのヤベエなって、俺は頭をくらくらさせた。朝から何の試練だろ。成人済みの男とは思えない程割烹着が似合うのは、幻太郎の卑怯なところの一つだ。
 うっかり手を出してしまわないよう、幻太郎の可愛さからなるべく目を逸らしつつ、俺はダイニングテーブルにべとりとうつ伏せになった。昨夜は久し振りの徹マンだったので、正直まだ寝ていたい。
「……珍しくおねむですね。体調でも悪いんですか?」
「ちげー。さっき雀荘から帰ってきたばっかだから、眠くてさあ……」
 近寄ってきて頭を撫でてくれる幻太郎の手が気持ちよくて、ついうっかりシブヤに居た頃のノリで喋った俺にオフクロのキツい視線が刺さった気がした。「帝統、今何て言いましたか?」と確認する声は普段より鋭い。
 あーヤベ、余計なこと言っちまった、と伏せた顔を上げられずにいると、頭を撫でていた幻太郎の指がくるくると俺の髪を弄り始める。
「和了れましたか?」
「とーぜん」
「それは上々。では、朝ご飯は湯豆腐にでも変更しましょうか」
 徹夜明けに開きはちょっと重いですからねえ、と降ってくる温かな声に、俺は胸が締め付けられる思いがした。
 賭場とは真逆だけれど居心地が良くてずっと浸っていたい、俺のスキな空気が流れている。シブヤに居た頃、幻太郎の家に転がり込んでいた時に毎日感じていた空気と同じ匂いがした。ああ落ち着くなって、一瞬気の緩んだ俺は、ぽつりと本音を漏らしていた。
「何かスゲエ馴染む」
「久し振りに賭けたからですか? わかりやすい人ですねえ」
「それもあるけど、なんつーか……」
 幻太郎にしか作れない、俺を取り巻くやわらかなうねりを懐かしいと思った。シブヤに居た頃俺が当たり前みたいに享受していたあの日々が――ギャンブルやって、勝ったら三人で飲みに行き負けたら二人に泣きつき、家が無くなったら幻太郎に甘え、三人並んでヒプノシスマイクを握っていたあの日々が、俺の命をテーブルに乗せたって構わないくらい値打ちのあるものだったんだなって痛感する。
「ギャンブルして、勝っても負けてもお前がそばにいんの、落ち着くんだよなァ……」
「じゃあ今すぐシブヤに戻りましょ。朝食終えたら空港に行って、そのまま小生の家に気の済むまで居ていいですよ」
 この時の俺は多分寝惚けていたんだと思う。
 徹夜で回らない頭と、賭けで使い果たしてゼロになった判断力は、吐き出すべき言葉を選び間違えていた。
「迎えに来たのが乱数だったら、そーしてたかもなあ……」
 くわあと欠伸を噛み殺しながら失言を発した俺は、幻太郎の顔色がざっと青くなったことに気付かなかった。頭を撫でていた手がさっと引かれたことを不審に思い、ん? と頭を上げると、目が合う前に顔を逸らされる。
「あの、朝ご飯の支度……してきますので。帝統はもう少し寝ていて大丈夫ですよ」
「おー、いつも悪ィな」
 台所へと慌てて向かう幻太郎にひらひらと手を振りながら素直に目を瞑った俺は、鈍い鈍いと思っていた幻太郎よりずっと鈍感だった。
 俺の中に乱数と幻太郎への優劣は無い。ただ、邪な気持ちを抱いている幻太郎より乱数の方が本心を見せやすかったのは事実で、その本音が少し零れた、それだけだった。
 けれどその言葉は、幻太郎を傷付けるには十分で。
 この日以降ぱったりと止んでしまった幻太郎とオフクロの諍いに、俺は安堵する一方で、じわじわと嫌な予感が這い上がるのを感じることになるのだった。



 田舎特有ののどかな昼下がり、オフクロを迎えに病院に来ていた俺は待合室のソファで時間を潰していた。
 地方とはいえそれなりの別荘地に建つ唯一の総合病院は、シブヤには遠く及ばないものの広いロビーに人がごった返している。売店で買った競馬新聞をわりと真面目に考察していると、待ち時間もそれほど苦では無かった。
 オフクロは自立心が強いから、医師の話に俺が立ち会うことは基本的にしていない。病院通いに付き添ったり送迎をするのは単純に俺がそうしたいからやってるだけで、オフクロから頼まれたことは一度も無かった。
 恐ろしいほどに自己完結している親だなと思う。俺がオフクロを追ってこの家にやってきた時も、数年振りのまともな対面だと言うのに感動するどころかあの女は眉を顰めていた。暫く同居したいと告げた時の返事は「通いのお手伝いさんがいるので結構です」で、素っ気なくシブヤへ追い返されそうになったくらいだ。
 同居し始めて暫く続いたぎこちなさを壊したのは、他の誰でもない幻太郎だった。半ば無理矢理居候を始めたアイツはオフクロからどうにか俺を引き離したがっていたが、結果的に昔から剣呑だった俺達親子の潤滑油になっている。
 オフクロは突然やって来た幻太郎と俺のやり取りを興味深そうに眺め、突っかかってくる幻太郎との諍いを楽しむようになった。自然俺との会話も増え、なんとなく親子みてえな付き合いが今のところ成立している。
 そういう日が続くようになると、ガキの頃確かに一緒に暮らしていた筈の母親に、俺はまるで別人のような感覚を抱くようになった。家族なんてクソ食らえと家を飛び出した時とは違う感情が芽生えていて、端的に言えば、大事な人間が増えたような気がする。
 病院通いを続けていると、老いた親に付き添う子供を見る機会が増え、オフクロの未来に重ねてふと想像することがあった。いつか足腰が立たなくなってヨボヨボになる日が来ても、この女が俺を頼る姿はイマイチ想像できねえなと思う。俺がどっかで賽を振っている時に一人で気丈にくたばっていそうな気がするし、だから俺は、気が向いている今この時くらいオフクロのそばに居るのも悪くねえんじゃねえかなって考えていた。
 同居がこの先ずっと続くとは俺もオフクロも考えていない。でも一緒に暮らした時間が失くなることはねえし、俺がオフクロを母親だと思って僅かでも気に掛けていることや、オフクロが俺の送迎を満更でもなく思っていることは消えない事実だ。
 そんな事をつらつら考えている時だった。

『くぉら帝統ーーーーっ』
「バッカ、声でけえよ! ここ病院なんだからな!」
 尻ポケットに突っ込んでいた携帯が震えているのに気付き、通話可能エリアに移った途端、耳をつんざくような懐かしい声が聞こえてきた。
 乱数の突然の着信に内心驚きながら、シブヤを出る前と何ら変わらない態度に少しホッとする。
『え、病院?! 何で、帝統どっか悪いの?!』
「俺じゃねえよ。オ…………俺はただの付き添い」
『じゃあもしかして幻太郎――じゃないよね、さっきまで僕と電話してたし』
「お前らほんとマメに連絡取ってんだな。女みてえ」
 感心と呆れ混じりに答えてやると、乱数の顔が般若みてえに釣り上がった。ちなみにビデオ通話なので互いに表情は筒抜けだ。
『そういうデリカシーの無い事言ってるから、幻太郎にフラれるんだよ』
「……何だよソレ」
『それは僕の台詞! 帝統げんたろーに何言ったの? 急に電話してきて僕のところに来たいだとか、傷心旅行ですだとか、帝統のマザコンーとか、パスポートの取り方わかんないだとか、小生が乱数じゃなかったからどうのこうのだとか、もう言ってること滅茶苦茶なんだけど。
 帝統が居ない間に荷造りして出て行ってやるーって息巻いてたから、取り敢えず放置して帝統に事情を――』
「何だソレ?! え、アイツ出て行こうとしてんの?」
『……聞こうと思ってたんだけど、まさかの心当たりないパターンなの……?』
 動揺しまくる俺の覚束無い記憶と、幻太郎の言葉足らずな通話から類推した乱数の助言は、今すぐ告白してこいという非情なものだった。
『素直でわかりやすいのが帝統のいいところでしょ。僕らの前でヘンに取り繕おうとするから拗れるんだよ』
「え、いや、お前なんで知ってんの? 俺が幻太郎にアレだって言ってねえよな??」
『僕の経験値舐めないでよね。帝統が自覚する前から気付いてたよ、そんなの』
 俺の懸想をそんなものと一蹴し、乱数はぷつりと通話を切った。後に残された俺は慌てて幻太郎への通話ボタンを押すが、呼び出し音が虚しく鳴るだけで一向に繋がらない。気が気でない俺はオフクロへ事情を話し、一旦帰宅しようと病室へ足を伸ばした時だった。
 逸る気持ちに混じって、視界の端に映る一人のバアさんが気になった。
 たまに見かける顔で、高齢だからかいつも歩行が覚束無い患者だった。普段は付き添いの人間がいたので気に留めたことはなかったが、何故か今日は一人で院内をウロウロと、同じ廊下を行ったり来たりしている。
 オイオイ大丈夫かよって何となく気に掛けてしまったのは、最近オフクロのそばにいる時間が増えたせいかもしれない。親が老いたらこうなんのかなって何となく重ねてしまうと、他人事とは思えず目が追ってしまった。バアさんがフラフラした足取りで歩く廊下の先には階段があり、何となく胸騒ぎがして足早に後を着ける。
 俺の勘はギャンブル以外でもわりと冴えていて、バアさんが下りの階段に一歩足を掛けた、その瞬間だった。手すりを掴み損ねた皺だらけの腕が宙を掻き、バランスを崩した身体はぐらりと傾く。
 落ちる、と察した瞬間の事は正直覚えていない。居合わせた人間が言うには、俺は見知らぬバアさんの腕を引き寄せ、バランスを崩し、見事自分が転落したらしい。すげえ間抜けだなと自分の格好悪さに顔を顰められるようになった時には、俺は病室のベッドで手厚い治療を受けていた。




 4.

 この女にも人の涙はあったのかと、俺は正直驚いていた。
 目が覚めて、病室に置かれていた鏡越しに自分の頭に物々しく巻かれた包帯を確認し、それから俺の膝の上でさめざめと泣くオフクロの頭を撫でてやる。長い間泣き続けていた女はようやく落ち着いたのか、ハンカチで顔を整えた後泣き腫らした目で俺を見つめた。
「あなたに人の心があったとは思いませんでした」
「開口一番ソレかよ」
 俺と似たような感想を吐き出したオフクロは、「ご老人は無事でしたよ」と続ける。
「転落して頭をぱっくり割ったあなたは、七十二時間ICUに入っていましたけれど」
「マジ? 三日も経ってんの?!」
 慌てた俺にオフクロは頷き、枕元の有栖川帝統と記された患者記録の用紙を指差した。入院日時が記入されたそれに、俺は驚きながら現状を咀嚼する。
 容態が落ち着いているのを悟ったオフクロは、気を取り直したのか涙を止め、テキパキと俺の置かれた状況や入院についての諸々を説明し始めた。
 スッと伸びた背筋と口調に俺は安堵する。目が覚めて、真っ先に視界に飛び込んできたのは取り乱したオフクロの涙だった。あんまり見たいものじゃねえなと痛感する反面、ふと浮かんだ疑問があった。場違いかもしれないそれをどうしても聞きたくなり、俺は思いきって口にする。
「オフクロはさあ、生まれたのが女だったら良かったのにって思った事ねえの?」
 捻くれてなかったガキの頃、オフクロと上手くいってなかった俺は、男に生まれたから好かれてないんだろうなと想像していた時期があった。けれどたった今、目の前で確かに愛情を示した女とその理由は結びつかない。
 驚きに目を丸くした後、たっぷり考え込んだオフクロは、
「確かにそうですね。考えもしませんでした」
 と真面目な顔で頷いた。
「帝統。今からでも遅くありませんので、女性になりますか? 幸いここは病院ですし、優秀な先生がいらっしゃることは実証済みですよ」
 真顔で提唱された俺がウゲエと顔を顰めると、女は嘘ですよと笑った。その緩んだ笑顔が、普段頑ななオフクロが見せた素の表情が、何となく幻太郎の笑った顔にも似ている気がして俺は胸が痛くなる。
 心を許した者へ向ける表情なんだと、気付いてしまった。オフクロが俺を案じて涙を流したように、幻太郎もずっと、俺とは違う形だろうが確かに俺を大事に思ってくれていた。
 三日も経ってしまった今、幻太郎はどこに行ったんだろうと考えると溜め息が漏れそうになる。俺を追ってここへ来たように、突拍子も無いことをやる事があるから、乱数を追ったアイツが今どこに居るのかなんて見当もつかなかった。
 二度と会えない訳じゃねえけど、引き留めたかったなと思う。シブヤへ戻れと何度も口にしてきたくせに、いざ離れていこうとすると惜しくなるなんざ、身勝手にも程があったけれど。
「帝統? ぼうっとしてどうしました、どこか具合でも悪いのですか?」
「あーワリ、何でもねえよ」
「不調を感じたら直ぐに教えるのですよ。些細な違和感でも、放っておいたら大事になったりするのですから。夢野さんから散々聞きましたよ、あなたが賭場でどんな無茶をしてきたのか」
「……幻太郎が何だって?」
「ああ、彼なら帰宅していますよ。今朝までずっとここに寝泊まりしていましたので、一旦荷物を取りに――」
 オフクロの説明を遮って荒々しく開かれた病室の扉に、俺は思わず目を剥いた。何故かそこには、ぜいぜいと肩で息をしながら幻太郎が立っている。
「あら、随分早いのですね。法定速度ならもう少しかかるはずですけど」
 オフクロの挑発も耳に入らない様子で、幻太郎は真っ直ぐ俺の胸に飛び込んできた。だいす、だいすと取り乱した口振りで名前を呼ばれて俺は戸惑ってしまう。
「……私の声は聞こえていないようですね」
 苦笑したオフクロは、珍しく欠伸を堪えながら俺に背を向けた。
「夢野さんも戻ったことですし、母は少し仮眠してきます。あなたに結構な輸血をしましたからね、安静にしろと言われているんですよ」
「……トシなのに無茶すんじゃねえよ」
「あら。生意気なことを言うと夢野さんに教えますよ?」
「教えるって、何を」
「昏睡している間、うわごとでずっと夢野さんの名前を呼んでいたじゃありませんか。『幻太郎、行くな』って、あんまりしつこいし暇でしたので録音しておきました」
 涼しい顔で携帯を見せつけてきたオフクロに、俺は思わずババアと叫んでいた。血圧が急騰したのか頭に血が上るのを感じる。
「吠えるのは結構ですが、あなたも安静にするべきですよ。夢野さんに子守歌でも歌ってもらいなさいな。……彼が泣き止むまで、時間は掛かりそうですけど」
 そう言い捨てて病室を出て行く後ろ姿を、俺は苦い思いで見送った。データは後でぜってー消す、と心に誓いながら、幻太郎の啜り泣きだけが響く室内に二人きりになった途端心臓は躍る。我ながら、集中治療室に突っ込まれていた病人とは思えないほど元気な鼓動だった。けれど俺にしがみついている幻太郎はこの心音に気付かないのか、未だべそべそと涙を流している。
「幻太郎、わりいんだけど手、緩めてくんねえ? ちょっと腹痛えわ」
 抱きつかれている棚からぼた餅な状況を自ら手放すのは惜しかったが、幻太郎はどんだけ顔が綺麗でも歴とした男だ。取り乱した腕力で縋られると、肋骨は素直に悲鳴を上げた。
「……、っすみません!」
 案の定勢いよく離れてしまった体温に、内心あーあと溜め息が漏れる。
「ごめんなさい、帝統、身体は平気ですか?」
 触れていた肌は遠のいたが、幻太郎の眼差しは俺を捉えて離さなかった。少しでも不調な点は無いかと、熱っぽい視線が俺の全身を探っている。濡れた瞳と間近で目が遭い、俺は感動したよ。誰かを思って泣く幻太郎は、本当に美人だなって。
「まだ本調子じゃねえけど大丈夫だよ。俺の悪運の強さは知ってんだろ?」
「それは、嫌と言うほど」
 ティッシュで顔を拭いながら幻太郎が頷いた。赤くなった鼻の頭さえ可愛く見えるのは、何かもう重症かもしれない。一向に薄まらないこの執着心は、いつか完治する頭の傷より深刻な心の病に思えた。
「心配掛けて悪かったな。落ち着いたか?」
「だいす……」
 声を掛けてやると、再び幻太郎の目元がじわりと滲む。壊れた蛇口みてえにぼろぼろと溢れる涙に、俺は身勝手にも愉悦を覚えていた。
 シブヤに戻った筈の幻太郎がここに居る理由はわからなかったが、俺が原因で一喜一憂する姿は嬉しいと思う。献身的な厚情はダチの延長だとわかっているが、今だけは幻太郎が向けてくれる情の厚さを勘違いしていたかった。
 そんな風に、都合良く俺がすり替えに浸っていると。
「帝統。シブヤに戻って、私と結婚してください」
 長い睫から大粒の涙をこぼしながら、幻太郎が突然、斜め上すぎるパンチラインをかましてきた。
「籍を入れましょう。乱数も併せて、三人で」
「……おあ?」
 俺は転落した時の事を何も覚えていない。
 強烈な衝撃が一瞬で記憶を消し去ったように、突然降って湧いた幻太郎の提案は、俺の思考をぴたりと止めた。結婚、籍、と全く耳馴染みの無い言葉をゆっくりと頭の中で復唱する。入籍? 乱数? 三人で?? いや駄目だ、これ考えれば考えるほど訳わかんねえヤツだ。
「プレゼン頼むわ……」
 早々に白旗を掲げた俺に、幻太郎は泣き腫らした顔でこくりと頷いた。
「わたし、貴方がおばあさんを庇って大怪我をした時、何も知らずに貴方の家で荷造り……じゃなくて本を読んでいました。手術中には呑気に貴方の分の夕飯を作っていたし、ようやく報せを受けて病院に駆け付けても、家族以外は面会謝絶でICUに入れてもらえなかった」
 こいつ今荷造りって言ったな、と引っ掛かったものの俺は聞き流すことにした。直後にきちんとメシの用意をしている辺り、乱数への電話で息巻いて出て行こうとしたものの結局思い止まったんだろうなと、何となく想像できる。
「お母様がICUで貴方の手を繋いでいる間、小生はずっと蚊帳の外でした。顔も見れない、容態もわからない、部外者だからと教えてもらえない。
 そもそも貴方が病院に運ばれた事だって、おばあさんのご家族が訪ねて来て初めて知りました。帝統と何の関係もない他人からの又聞きじゃないと、貴方の異変がわからないなんて、そんなの、あんまりです」
「何、お前ICU入れなかったの? 俺らポッセなのに?」
「そうです。部屋にもっ、入れてもらえないなんて、惨すぎます。帝統は私の、大事な――」
 大事な何だ……?! と俺が息を呑んだところで、幻太郎は勢い良くティッシュで鼻を噛んだ。肝心なところを確認できない俺は思わず歯噛みする。
「ずっと付き添えるお母様が妬ましいって、正直思いました。帝統に何かあれば直ぐに連絡が来て、容態も伝えられて、手術の同意書にサインもできる。だって家族≠セから。
 私のところにも、容態が変化すると、彼の入院している病院からちゃんと連絡が入るんです。だからシブヤにいなくても繋がっていられるし、何かあれば駆け付けることができる。でも、帝統とはそうなれない……貴方がうなされている時、私だってずっと手を繋いでいたかったのに」
「あー……うん、まあ、そういう理由な。わかったわ」
 ぐしぐしと鼻を啜りながら訴えてくる幻太郎に、俺は天を仰ぎたい気持ちになった。ほんのちょっとでも都合の良い展開を期待した自分の愚かさを痛感する。
「まあいいよ。籍でも何でも好きに入れろや」
「――えっ、いいんですか?」
「確かシブヤはそういうの自由だったろ。俺と、っつーのは正直スゲエ面倒くせえことになると思うけど、お前がしたいんならいいよ」
「え、ええ、本当にいいんですか?」
 まさか了承されると思っていなかっただろう幻太郎は、狼狽えながら二回確認してきた。
 俺にしてみればお前らが殺したいほど憎んできた血筋が混ざるのはいいのかよと若干の不安もあるが、紙切れの上の約束にそもそも興味がないので、好きにさせればいいかと些か投げやりに返答する。幻太郎の気持ちが俺に向いていないのなら、これは何の意味も無い契約だ。
 ――ああ、でも。
「一つだけ条件付けていいか?」
「どうぞどうぞ。今までの借金帳消しにしてほしいんですか?」
「お前と籍入れんのは俺にしろ。乱数は養子にでもしとけ」
 ……我ながらみみっちいとは思うが、例え書類の中でもそこは譲れなかった。幻太郎はもっと大きな要求をされると思ったのか、意外そうにきょとんと目を丸めている。
「あ、わかりました。じゃあそれでいきましょう」
 すっかり涙の引っ込んだ幻太郎は、俺の承諾に元気を取り戻した様子でうきうきと携帯を取り出した。乱数に連絡するんだろうな、と思いながら眺めていると、通話が繋がる前に思わぬ邪魔が入った。
「母は認めませんよ、帝統」
 携帯の画面に視線を落としていた俺達は、背後から掛けられた声にびくりと肩を揺らした。
「お前寝てたんじゃねえのかよ?!」
「いいえ。二人きりにするのは時期尚早かなと思い直したので、そこでずっと様子を伺っていました」
 僅かに開いた扉の先を示しながら、悪びれずに覗きを白状するオフクロに俺は頭痛を覚えた。ガキの頃の無関心さと、今の過干渉の差が激しすぎやしねえか。
「帝統。あなた夢野さんのことをどう思っているのですか?」
「ハ?!?!」
「あなたのことですから、どうせ紙切れ一枚の契約だと適当に考えているのかもしれませんが、これは軽々しく扱っていいものではないのですよ。夢野さんも、それなりの覚悟で私の息子を選んだのでしょう?」
「勿論です、お母様」
 神妙な顔で頷いた幻太郎だったが、「じゃあそれでいきましょう」っつう軽いノリだった事を俺は忘れていない。そもそも俺の気持ちを熟知している筈のオフクロが、わざわざ幻太郎の前でこんな今更な問い掛けを持ち出すことに嫌な予感を覚えた。
「シブヤからわざわざ追いかけていらした夢野さんの気持ちは解ります。問題は帝統、あなたなのですよ」
「何も問題じゃねえよ。俺と幻太郎が納得してるんだから、お前には関係ねえだろ」
「あなたがどう思おうが、母は心配なのです。今まで随分夢野さんにつれない態度を取っていましたよね。そういう方と懇意になって、あなたは幸せになれるのですか……?」
 不安げに瞳を揺らすオフクロの表情は演技がかっていたが、幻太郎は十分胸を打たれたようだった。親が子に向ける情に弱い節があるのは知っていたが、コロリと騙されてしまうと俺にとって事態は悪化する。
 言っておくが、ソイツは俺が幻太郎を好きな事を散々からかってきた奴だぞ。
「お母様、不安に思わせてしまってすみません……」
 案の定口を挟んできた幻太郎を、俺は固唾を呑みながら見守った。何を言い出すのか予測はつかなかったが、いつもの達者な口振りと語彙力で上手く場を収めるんだろうなと、そう思っていたのに。
「帝統は私の願いを聞き入れてくれただけです。もし彼の不利益になるようなことがあれば、その時はきちんと関係を清算しますので安心してください」
 ――何だソレ、と怒りを覚えた瞬間、ぎこちなく笑う幻太郎を無意識に引き寄せていた。丸く見開かれた緑玉色と目が合ったのは一瞬で、有無を言わせず引き寄せた頬に口付ける。
「くだらねえ心配しなくても、俺は幻太郎が好きだっつうの!」
 目を釣り上げて叫ぶ俺に、ぽかんと口を開いた幻太郎は、頬を押さえながらじわじわと肌を赤く染めていった。耳や首まで熱が滲むほど赤面する幻太郎を見るのは初めてだった。
「意気地がありませんねえ、帝統。頬なんて母とも何度もしてるでしょう」
 ガキの頃の話を持ち出しながら溜め息を吐いたオフクロは、呆れた表情でとんでもねえ発破をかけてきた。
「どうせなら口になさい」
「頼むから、お前はどっか行っててくれ……」
 頬に手を添え、出来の悪い子供を諭す口調のオフクロを俺は半ば無理矢理追い出した。十分からかって満足したのか、素直に病室を出て行く後ろ姿はどことなく楽しげでどっと気疲れする。
「帝統」
「お、おう」
「遠慮は要りません。くちにどうぞ!」
 再び二人きりになった室内を気まずく思っていると、馬鹿に真面目な顔をした幻太郎が突拍子も無い誘いを投げつけてきた。
「…………どうぞって、何が」
「さっきの続きです。小生は、頬でも十分驚きましたが――」
 顔は赤いままの幻太郎が、意を決したように宣言した。
「お母様には絶対に負けません!」
 何でそんなに潔く即決できるんだとか、オフクロがいねえのにやる意味ねえだろとか、浮かんだ疑問を処理する余力は俺には残っていなかった。好きな奴が、俺と母親の仲に嫉妬して張り合っている。目の前に転がっているその事実を、もう何も考えずに拾いたいと思った。
 唇を突き出す、拗ねて膨れた顔も可愛いなと思う。くちにしたら一体俺はどうなるのか、これ以上好きになりたくねえんだよなあと困っている時点できっともう手遅れだ。
 そっと頬に手を添えると、幻太郎の身体が震える。熱を孕んだ目に吸い込まれるように俺は唇を開く。二度目は無いかもしれないと思うと、今ここで全て食っちまってもいいんじゃねえかなって衝動が沸いて、赤い舌を幻太郎の唇に割り込ませると。

「やれば出来るじゃありませんか、帝統」
 と、オフクロの楽しそうな囁きが聞こえた気がした。