[ 消えたクライアント ]


 シブヤの喫茶店・花霞でスマホを片手に待ち時間を潰していた男は、とあるプレスリリースにふと目を止めた。すいすいと親指を滑らせ社名と内容を確認していると、ベルの鳴った店内の扉から待ち合わせ相手がやって来たのが見えたので、咥えていた煙草を灰皿に押しつける。
「すみません、お待たせしました。一雨」
 名を呼ばれた男は顔を上げると、見知った相手に気安い応えを返した。
「よお先生。優勝おめでとう」


 私立探偵の今昔一雨はシブヤの作家・夢野幻太郎と短くない付き合いがあった。
 幻太郎がフリングポッセに加入する以前からの知己として、加入後の彼の変化には些細な疑問を抱いている。作家とフリングポッセの二足の草鞋を履きこなす幻太郎と顔を合わせる機会はそう多くなく、向かい合わせで着席した幻太郎と会うのは久し振りだったので、軽い世間話のつもりで一雨は疑問を口にした。
「ゴダイ社長の調査ならいつでも請け負うぜ」
「え?」
「会社買い取ったんだってな。これからはせんせーじゃなく、オーナーって呼んだ方がいいか?」
 からかい混じりに一雨が笑うと、正面の幻太郎はきょとんとした顔を浮かべていた。
「新素材開発のプレスリリースを読んだが、悪くない内容だな。飴村乱数がSNSで上手く宣伝すりゃ売り上げは固いだろうし、悪くない投資先だったと思うぜ」
 先程目を通した情報への感想を告げながら、一雨はコーヒーを一口啜りカップをソーサーに置いた。かちゃんと陶器の触れる音がし、ふと見上げた視線の先では幻太郎がぼうっと固まっている。
「……せんせー、どうしたよ?」
「あ、いえ、失礼しました」
「調子でも悪いのか?」と問う一雨に幻太郎は首を振ったが、その顔色は赤かった。
「投資……だとか、身辺調査だとか、何も考えていなかったので」
「……そうなのか?」
「ええ。ゴダイさんと我々の利害が一致した、ただそれだけなので、今回は貴方の手を煩わす事はありませんよ」
 そう答えてコーヒーに口を付ける幻太郎は、気分を落ち着けようとしているように一雨の目に映った。
 幻太郎は一雨を優秀な探偵だと買っているし、事実、一雨はゴダイについて既に下調べをしていた。経歴、人柄、そして会社の経営状況。特筆すべき汚点はなかったが、唯一の懸念はゴダイの人の良さだと一雨は判断していた。
 H法による男性の増税は会社の経費を圧迫し、男性の雇用がどんどん減らされる中、ゴダイはその受け皿を引き受けていた。職にあぶれた男性を率先して雇用し、そうしてH歴に社員が男性だらけとなったゴダイの会社は男尊女卑と見なされて取引先から敬遠される事が増え、経営は右肩下がりになり、高利の融資に手を出して会社は自転車操業の悪循環に陥っていた。――フリングポッセに、出会うまでは。
(利害の一致、ねぇ)
 再び煙草に火を点けながら、一雨は内心首を傾げた。
 借金はなくなり、エンプティーキャンディーという取引先と広告主を得て、フリングポッセのネームバリューで遠のいていた契約先からの信用も戻りつつある。先程伝えたように、会社の経営は右肩上がりに回復するだろう。
 けれどもそこに、利害の一致が見えていたのか果たして一雨は疑問だった。
 初対面の相手に、2ndD.R.Bの優勝賞金を全額明け渡した。決算書も見ず、身辺調査もしない、ただチームメンバーの恩人という情報だけでオーナーを申し出るなんて、幻太郎らしくない無謀な博打のようだと思う。一雨の知る夢野幻太郎はもっと慎重で、理性的な男だった。

「一雨。遅くなりましたが、これを」
「おー。確認させてもらうぜ」
 テーブルに差し出された封筒を受け取り、中の紙幣の枚数を数えて一雨は幻太郎の顔を見た。
「多くねえか、せんせー」
「お渡しするのが遅くなりましたので、お詫びですよ」
「そんじゃ、有り難く貰っとくわ」
 涼しい顔で答えた幻太郎が差し出したのは、一雨への報酬金だった。2ndD.R.B前、フリングポッセが中王区に追われていた頃に、柳田という男の調査を頼まれた事を一雨は思い出す。原稿の所在を把握していて、長年慎重に取り戻す機を伺っていた幻太郎が突然動いたことに一雨は少し意外に思ったものだった。
 慎重さを捨て、感情で動く事が増えたなと感じている。だが依頼人の一人にすぎない幻太郎に、一雨が必要以上に干渉することは無かった。
 封筒を内ポケットへ仕舞い、用の済んだ席から一雨は立ち上がる。紫煙をくゆらせながら
「良かったな、先生」
 と告げた言葉は幻太郎の変化に対してのものだったが、言葉は正しく伝わらず、「優勝など一夜の夢まぼろしですよ」と一笑が返ってきただけだった。