※兄が4/1生まれ、数分遅れて日付を跨いでから取り上げられた幻太郎は4/2生まれという設定のお話です※





[ #夢野幻太郎誕生祭2022 ]


 早朝、身支度を終えた幻太郎は家を出る直前、手短にスマートフォンをチェックしていた。メッセージアプリになかなか見ない数の未読数が溜まっているのを視認し、駐車場までの道のりでそれらをざっくり読み終えて、愛車に乗り込むと手短に返信を打っていく。愛車、と呼ぶほど車へのこだわりが強い訳ではないが、酒を断るには最適な手段なので今日のような日はハンドルを握る動作が普段より軽くなるのも道理だろう。
 本日四月一日は、『夢野幻太郎』の生まれた日だった。
 幻太郎の普段の言動は他者を煙に巻くものばかりだが、プロフィールはきちんと公開している。作家としてもシブヤディビジョン代表としても名の通った彼の元へは、少なくないバースデーイベントの依頼が届いていたし、幻太郎は可能な限りそれらを快諾していた。助手席に放った鞄の中には、トークイベントを兼ねたサイン会、執筆セミナー、出版社からの接待等々、朝から夜にかけて埋まった、今日の予定が書き込まれた手帳が横たわっている。
 誕生日を祝うメッセージへの返信を片付け、二つだけ未読を残した後、ハンドルに手を掛けた幻太郎は滑らかに車を発進させた。



「……珍しーなぁ」
「何が?」
 スマートフォンを見つめる乱数に答えたのは、ダンボールを抱えながら事務所を往来している帝統だった。箱の中にはサンプル品、生地の切れ端、スケッチブック等が詰め込まれていて、帝統が事務所を往復する度に散れていた室内がすっきりと片付いていく。
「未読のまんまなんだよね」
 口をむうっと尖らせた乱数が付きだしたブルーライトの画面には、乱数と帝統がそれぞれグループ内で送った祝いのメッセージが表示されている。それを一瞥した後、帝統は興味がない口ぶりで「忙しいんだろ」とフォローした。
「読者とのイベントだの世話ンなってる出版社との飲み会だの、先約で埋まってるから今日は無理って言われたんだし」
「そうだけど。誰かさんと違って幻太郎はいつも返信が早いのに、ヘンじゃない?」
「そういう目で見るなよ……。仕方ねーだろ、種銭無くなったら携帯換金するのが手っ取り早いんだって」
 目線を逸らした帝統が、室内を移動する速度を速める。納期明けの事務所は瞬く間に整理され、乱数の目論見通り、明日ここで開催される一日遅れの幻太郎のバースデーパーティーに向けた準備は順調に進んでいった。
「乱数もスマホばっか見てないで手伝えよ。俺は飾り付けとかわかんねーから、お前に任せるわ」
「オッケー。シブヤでいっちばん幻太郎をハッピーにするお部屋にするぞ〜〜!」
 端末をテーブルに置き、ぴょこんと立ち上がった乱数が声を弾ませる。乱数は常に仕事にも遊びにも全力だったが、微笑んだ表情には、大切な相手を祝おうとする使命感のような緊張が珍しく混じっていた。



 夜更けの首都高を走る幻太郎の車は、自宅への帰路ではなくある意味第二の自宅とも呼べる場所へ向け走っていた。ハンドルを握る手が朝よりも若干重く感じるのは、胃の重さからだろうか。勧められるままに食事を次々に口にしたのは、世話になっている担当者が接待抜きに今日という日を心から祝ってくれていることを汲み取ってしまったからだった。
 駐車場に停車し、降車した幻太郎の右腕には大振りのアレンジメントが提げられていた。『先生は面倒くさがりですから』、と茶化しながら渡されたのが花束ではなく手入れの要らない仕様で作られたアレンジメントだったのは、長い付き合いの成せる気遣いだったのだろう。祝いの品を躊躇わず手にして幻太郎が向かったのは、『夢野幻太郎』が眠る病室だった。

「兄さん、お待たせ」
 そう声を掛けた幻太郎は、座り慣れた椅子に腰掛けながら今日の出来事を順を追って兄へ報告する。撮っていた写真や動画を交えながら、ファンから掛けられた言葉やセミナーでのやり取り、出版社が設けた席での接待振りやこれまでの付き合いに対する謝辞、スマートフォンに届いた多数の祝辞……それらを返答の無い相手へ滔々と伝え終え、全てのデータを兄のスマートフォンへ転送すると、
「全部兄さんに向けられたお祝いだよ」
 と幻太郎は微笑んだ。
 消灯時間を過ぎ、シンと静まり返った病室の窓辺には先程のアレンジメントが置かれている。夢野幻太郎へ贈られた花は、デスクライトの仄かな明かりを受けて病室に彩りを添えていた。今日一日の出来事を未練もなく全て兄へ受け渡した幻太郎は、サイドテーブルの置時計をちらりと一瞥した。カチ、カチと秒針が回る音がやけに大きく思えるのは、もうすぐ日付が変わろうという夜更けだからか、それとも幻太郎自身の期待から来る錯誤だろうか。
 秒針が一周し、盤面の下に表示されていた日付が四月二日に変わったのを見届けた幻太郎は、スマートフォンをもう一度開いて未読にしていた二つのメッセージを開いた。目に飛び込んできた乱数と帝統からの誕生日を祝う言葉に、迷子の子供のようにくしゃりと顔を歪め、それから眠る兄の胸元に顔を埋めた。細い溜め息を吐き、震えた声で懇願を吐き出す。

「……これ、俺が貰ってもいいかな」
 兄へ渡せなかった二つのメッセージは、幻太郎にとって唯一の我が儘であり希望だった。
 日付を跨いだ出産だった双子は、兄と弟で出生日が一日異なっている。幻太郎にとっての誕生日は四月二日で、乱数と帝統の誘いをわざと一日ずらしてしまった己の過ちに幻太郎自身戸惑っていた。兄が受け取るべきだと頭では理解しているのに、一日ずらして欲しいと口は勝手に懇願していた。
 全てが終わった時、兄の為に築き上げたものは全て兄へ明け渡すつもりで日々を過ごしている。仮初の、偽りの存在である弟の手中には何も残らないしそれで良いと信じていた。けれど。
 薄暗い室内にぼうっと浮かび上がるブルーライトの画面を、途方に暮れた気持ちで幻太郎は見つめる。こんな筈ではなかったのに、そう思いながら、二つのメッセージは兄へ転送できずにいた。