[ 残り香 ]


 喫煙の習慣は無かった。タバコより夢中になれるものが俺にはあったし、そのために身の回りのあらゆる現品を差し出す事が日常であったので、タバコはまあ、誰かから分けて貰えたら有り難く吸う程度の物だった。パチ屋で隣り合ったオッサンだったり、賭場に付き添いで来て暇してる女だったり。
 そんな風だったので、吸う銘柄は毎回バラバラなのが当たり前だった。つい数日前までは。
 ギャンブルに勝つ事は珍しくないが、その日は久し振りの大金を叩き出した勝利だった。いつもならその金も全て賭け事にトカすのだが、ふと思いついて、俺はタバコ屋に向かった。においがキツい銘柄を教えて貰い、それを両腕で持てる限り買って、その足で幻太郎の家に向かう。
「え。勝ったのに来たんですか、貴方?」
「おー。幻太郎には世話んなってるからよ。たまには恩返しするぜ!」
 タバコの前に調達しておいた食糧を差し出し、食事と洗濯程度ならできるから暫くは原稿に集中していいぜ、と笑うと、少し躊躇った後幻太郎は素直に俺の提案を呑んだ。原稿に煮詰まっていて、珍しく締切を破っている今の状態では断らないだろうと、予想していた通りだった。
 それから数日、俺は毎日幻太郎の家で、タバコをふかしながら過ごしている。


 幻太郎はいつも身を削って本を書いていた。俺と同じように、大事なモンのために、自分を磨り減らしているのだと解ったのは出会ってどれくらい経った頃だったろうか。
 幻太郎には脱稿すると必ず行く場所がある、と気付いたのも同じ頃だった。どこに行って何をしているのかは知らないが、息抜きや趣味の類いでないことは確信していた。
 エッセイ。講話。雑誌のインタビュー。WEBの連載に書き下ろしの文庫。仕事の大小にかかわらず、何か一つ書き上げる度にどこかへ消える幻太郎。その背中は、息抜きや趣味ではないもっと重い何かを背負って、手放さないように見えた。


 寝泊まりするようになって四日目の真夜中。居候していた居間の襖が控えめに開かれたかと思うと、憔悴しきった幻太郎がぬっと顔を出した。一瞬顔をしかめたのは、多分部屋に充満している煙のせいだろう。普段なら小言の一つも飛んでくるのだが、脱稿明けの作家にはタバコを気にかける余裕は無いらしい、ということを俺は幻太郎から学んでいた。
「帝統、終わりました」
「スゲェじゃん! 頑張ったなー、幻太郎」
「あした、七時に起こして……ください……」
 眠い……と呟いて幻太郎は気絶するようにその場に膝をついた。慌てて駆け寄ったが、脱力した身体を起こした時には既に寝息が漏れていた。迷ったのは一瞬で、俺は幻太郎を寝室には連れて行かず、そのまま居間の俺の客用の布団に押し込んだ。六十一sのまあまあ軽い身体は、ここ数日で更に細くなった気がする。抱きかかえたのはこれが初めてなので、あくまで予測だが。
 頼まれた時間にアラームを設定した後、携帯を充電器に突っ込む。七時まであと五時間しかねえのか、と思いながら、俺は幻太郎を押し込んだ布団に潜り込んだ。シングルに男二人は手狭で、自然と身体は密着する。向かい合った首筋にスン、と鼻を寄せたが何のにおいもせず、俺は溜め息を吐いた。
(移れ、移れ、移れ〜〜)
 目の前の身体をぎゅうぎゅうに抱きしめて、心の中で唱えた。この数日数え切れないくらいに願った言葉を繰り返す。嘘吐きで、捕らえどころが無く、こちらが信じた瞬間全てを無かったことにしたがる夢野幻太郎の中に、俺は果たして存在しているのだろうか。
 抱きしめた幻太郎の身体からは、相変わらず何のにおいもしなかった。


(腹減ったァ……)
 ぱちりと目が開いたのは空腹がキッカケだった。それからむくりと起き上がったのは、部屋に漂ってきた朝食のにおいが原因だった。覚醒しきらない頭を左右にぐるりと巡らせば、布団の上には俺一人きり、襖は全開で、室内は朝の光に包まれて目に眩しいくらいに爽やかだ。廊下からは魚を焼くにおいが漂ってきていて、部屋に籠もっていた筈のタバコのにおいは、どこにも無い。
 のそりと立ち上がって、俺は幻太郎の居る台所へと向かった。

「いいですか、小生は先に出掛けますけど、戸締まりは忘れずに。鍵は持ち歩いていいです」
「おう。朝飯ありがとな」
「いえ……それから帝統、貴方、出かける前に風呂に入りなさい。吸うなとは言いませんけどね、お陰で小生まで朝風呂する羽目になりましたよ」
「……へーい」
 風呂に入ったということは、ある程度においが付いていたのだろう。早起きすりゃ良かったと悔やみながら、ぬるい返事で答えると幻太郎の顔が少し曇った。
「煙草、随分吸ってるみたいですけど、……えー……」
「んあ?」
「その……素直なのが貴方の取り柄なんですから、ため込むよりも好きなことをした方がいいのでは……。元手が無いなら貸して差し上げないこともありませんし、ええ、勿論ほんの少しですけども」
 何の話だ、という言葉はぐっと飲み込んだ。視線を左右にチラつかせながら要領を得ない言葉を紡ぐ幻太郎は、俺より四つも年上なのにこんな時とても幼くなる。ぺらぺらと呼吸をするように嘘は吐けても、素直な言葉は吐き出せない。
「タバコならもう吸わねーぞ」
「えっ」
「競馬場で会ったオッサンがさ、最近の若い奴は電子タバコばっかで気に入らねー、お前もどうせ普通のタバコは吸えねえクチだろ、って絡んでくるから、じゃー賭けるか! って吹っ掛けて。で、貰った分全部吸ってやったから、今日の資金は余裕だぜ」
 ニャハハと笑ってやれば、幻太郎は明らかにほっとした顔を浮かべる。嘘吐きを自負しているくせに何で他人の事はこんなに信用すんだろな、と、意外とすらすらと嘘が出てきた自分に驚きながら俺も安堵した。
 幻太郎はいつも人を観察している。些細な変化にちゃんと気付いて気にかける、優しい奴なのだ。
 余計な心配かけちまったな、と少しだけ反省して、俺は素直に風呂に向かう事にした。


 例えば同じシャンプーを使えば、同じにおいにはなる。景品で香水でも取って来れば、律儀な幻太郎は多分使うだろう。ヤニを移すより遙かに簡単な手段はいくらでもあるが、そこには「俺」がいない。
 いつも遠くを見ている幻太郎に、俺をねじ込むいい方法ねーかなー、と思いながら、勝手知ったる浴室の扉を開けた。