「ごめんな、ゲンタロー」
 抱きしめた身体は可哀想なくらい強張っていた。
 よしよしと、幼い子供をあやすように背中をゆっくりと撫でてやるが、その行為さえ怖いのか震えている。困らせている自覚があったし、悪いとは思っている。けれども、悪いことをしたいとも思っていた。


 ネオン街の雑踏を浮き足立って歩きながら、今日の成果を振り返って俺はにんまりした。手元に残った金はたいした額では無かったが、そんなことはどうでもいい。ギリギリの綱渡りをしているようなスリルが味わえた。それが今日の全てだ。
 金が残ったので夕飯にもありつけた。あとはこのまま帰宅するだけ――その筈なのに、俺の足は勝手に動く。自宅ではない、幻太郎の家へ。


「服は……着ていますね。さては夕飯ですか。野良猫に懐かれるのも困ったでおじゃ〜」
「いや、メシも食ったぜー。 今日は大勝利!」
 腕を組みながら頭のてっぺんからつま先までを眺めてくる幻太郎に、Vサインを見せながらにかっと笑う。和やかだった空気がその瞬間、ぎこちなく固まったのを感じて
(ホント、察しが良くなったなァ)
と感心しながら、俺はにこにこと笑う。
「……風呂でしたら、麿は済ませたのでご自由にど〜ぞ」
 強張った表情を隠すように、幻太郎がサッと顔を背ける。悪いなと思いながらも、逃げようとする男の手首を俺は無遠慮に掴んだ。
「ごめんな、ゲンタロー」
 ぎくり、と。誤魔化しようが無いほどに硬直した可哀想な身体に謝りながら、掴んだ腕を引き寄せる。体重も腕力も標準よりやや劣る幻太郎は、呆気なく俺の腕の中に収まった。
 風呂上がりという言葉は嘘ではなかったようで、少し湿った髪から湯上がりの匂いがする。頭がクラリと揺らされて、逆上せそうだと思った。ぎゅっと力をこめて抱きしめると、俺より二周り細い身体は硬直したが、密着した皮膚からは鼓動が聞こえてくる。俺のものではない。幻太郎の、普段のすまし顔からは想像もできない早い鼓動が、俺の皮膚に響いてくる。――これだ。これが欲しくて、ここに来るのを俺は止められない。
 突き放されないのをいいことに、甘えるように幻太郎の肩に顔を埋めると、今度は俺の心臓が早鐘を打ち始めた。二つの鼓動が混ざって溶けるような感覚に、思わず溜め息が漏れる。酒は一滴も飲んでいないのに、頭がおかしくなりそうな酩酊を覚えた。


 キッカケはもう思い出せない。ただ、幻太郎を抱きしめる気持ちよさを知ってしまった俺は、気付いた時にはこの習慣から抜け出せなくなっていた。
 勝った時も素寒貧の時も、メシを食った後の満たされた時も、寝起きで頭の回っていない時も、ふっと突然欲しくなる。衝動は不定期かつ突然で、一度だけ、幻太郎の代わりにたまたまその場に居た乱数を抱きしめた事があったが、満たされるどころか虚しさを覚えた上に、ドスの効いた声で放送禁止用語を浴びせられた。あの時は二十四歳っておっかねー、と少しだけ泣きそうになった。


 最初は軽いハグだった。ダチのコミュニケーションに収まる程度の、軽く受け流せる抱擁。けれどすぐに回数が増え、時間が増し、初めの頃は冗談を言う余裕があった幻太郎は、気付いた頃には俺の腕の中でがんじがらめになっていた。
 何も言えず、ただ俺が満足して離れるまでの時間を息苦しそうに耐えている。嫌だと言われたなら俺はいつでもやめるつもりでいたのに、幻太郎が何も言わないから、どんどんと頻度が増え、遠慮は薄れた。今ではもう、嫌だと言われてもやめられる自信はあまり無い。
 大差ない身長のお陰で、抱きしめている時の幻太郎との距離は驚くほど無かった。ほんの少し動けば、多分もっと、深いところまで見れるし触れる。その可能性に気付いた俺の中に、ギャンブルとは違う衝動が渦を巻き始めた。幻太郎といると沸き上がるこれは、この気持ちは何だ。
 試しに首筋に埋めていた顔を、僅かに浮かす。湯上がりだからか緊張しているからか、しっとりと湿っている首筋をぺろりと舐めてみた。何の味もしない同性の肌だったが、ひと舐めした次の瞬間、俺はかぶりつくように自分の舌を押し当てていた。舐めるように噛み付くように、スラリと伸びた細い首に、執拗に舌を這わせる。頭にカッと血が上るのを感じていた。
「だい、すっ……や、やめ」
 やめてください……とか細い声が鼓膜に届き、俺は一瞬で理性を取り戻した。
「悪ィ! 帰るわ、俺!」
 首筋に埋めていた頭を慌てて離し、両肩を掴んでいた手も潔く離した。パッと手放した瞬間に名残惜しさは覚えたものの、顔を上げて正面から幻太郎を見れば、理性を取り戻さざるを得なかった。
「ごめんな幻太郎、えーと、俺、飲み過ぎたわ!」
 真っ赤になった幻太郎が、涙目で俺を見ている。何故、どうして、と声にならない困惑が伝わってきて、俺は途方に暮れた。
 ほんの一瞬前に感じた気持ちよさと、やんなきゃ良かったという後悔の板挟み。勝ったのは後者で、好きな奴は泣かせたくねえな……と調子に乗った己を悔やむ。
 幻太郎に拒絶されたのは、今日が初めてだった。

[ 悪いことはできない ]