[ 帰り道をなくして ]
生きるのが楽しいと思ったのは、多分今が初めてだった。
幼少から実家を出るまでの時間は人生で一番つまんねえ時期だったし、一人で生きるようになってからも、満たされているのはギャンブルに興じている時だけだった。だからそれ以外の時間を――例えば幻太郎の家のちゃぶ台でテレビを見ながら飯を恵んで貰っている時だとか、湯の張った風呂に浸かりながら好き勝手に入浴剤を入れて、「わっちの好みじゃ無い」とぶつくさ文句を言われたりだとか、宿の礼にと、庭の草むしりや傷んだ家具の修理をしている時だとか――そういう時間を、満たされた気持ちで過ごしている自分に驚いた。
悪くなかったんだ。幻太郎と過ごす時間にはギャンブルとは違う居心地の良さがあって、それは俺の思考をぐずぐずに解し、浮つかせ、そして欲張らせた。
暖かい食事で食欲を満たし、ふかふかの寝床に安眠を得れば、残る欲は一つだった。フリングポッセを結成してから毎日が楽しくて、そっちが疎かになっていたのも良くなかった。
幻太郎の家に泊まり始めた当初は、居間と寝室で別々に寝ていたが、光熱費が勿体無いといつの頃からか、寝室に布団を二つ並べるようになっていた。手を伸ばせばいつでも届く距離に、幻太郎はいる。
豆電球一つ残した微かな灯りの下で、隣に眠る男の顔をじっと見た。そう男だ。幻太郎は間違いなく同性で、胸も無ければ股についてる物も同じなのに、俺の第六感がこいつなら抱けると確信していた。
顔は綺麗だし所作に品がある。線が細くて中性的で、何よりこいつは優しい。俺の頼みを、文句を言いつつ毎回受け入れてくれるのだから、最近ご無沙汰でしんどいと泣きついたら絆されてくれそうな気がした。
(よし、ヤらせてもらおう)
あっさりと出た結論に俺はワクワクした。そろりと起き上がって、寝息を立てている幻太郎に覆い被さる。伏せられた瞳を彩る睫は長く、ウンウン全然イケるわ!と、浴衣の合わせ目に手を伸ばし、俺は何のためらいも無く、幻太郎の肌を開いた。
夢野幻太郎という男は自分の領域に入れた人間にとにかくマメで、優しかった。
夜更けの呼び出しでも迎えに来てくれるし、腹を空かした俺に飯を作り、寝床を与え、時には金さえ用意してくれた。呆れた顔をしていても、迎えてくれる声はいつも暖かかったから、馬鹿な俺が勘違いするのに時間はかからなかったんだ。幻太郎の手厚い好意が、すべて友情からくるものだったと知ったのは、火花が散りそうなほどに強烈な平手打ちを食らってからだった。
「差し上げます」
俺に無理矢理脱がされた寝間着の前を押さえながら、固い声で幻太郎が告げる。突き出されたのは一枚のカードキーだった。
「執筆用に出版社が用意したレンタルオフィスですが、個室ですし、気兼ねなく雨風を凌ぐには十分でしょう。駅から徒歩一分、二十四時間年中無休で開いているので便利ですよ」
あまり使われていないのか、新品同様にぴかぴかと輝くそれを受け取れずにいたら、幻太郎が深呼吸のような深い溜め息を吐きながら、無理矢理ポケットにねじ込んできた。
「今後一切、小生の家には来ないでください。呼び出しの電話も御免です。貴方と私はもう友人でもなんでもない」
「げんたろ、」
「俺に触るな」
伸ばした腕をぴしゃりと叩き落とされた瞬間、俺は自分の過ちにようやく気付いた。初めて受ける明確な拒絶が信じられない――信じたくない。
「やっぱり、小生のダチは一人いれば十分です」
言い訳はあれこれ浮かぶのに、何一つ言葉にならなかった。口の中はからからに乾いていて、自分の心臓の音が身体中に響いて五月蠅い。
幻太郎の冷めた瞳に心臓を貫かれる。息をするのがこんなに苦しいのは、生まれて初めてだった。