[ ただの恋人です ]


「どぞ」
 客間のローテーブルにコーヒーカップを置くと、幻太郎の担当者は居住まい正しく頭を下げた。
 幻太郎よりは年上……シンジュクの社畜と同じくらいの歳だろうか。社会人ってすげえな、ちゃんとしてんな、と当たり前のことに感動しながら、俺は少し躊躇った後、彼女の正面に腰を下ろした。
 予想以上に柔らかい座り心地に尻がムズムズしたのは、幻太郎の家にある唯一のソファーを、俺はあまり使わないからだ。居間や寝室の畳の方が座っていてしっくりくる。洋室だらけの実家で育っておきながら、出会って一年も経たない幻太郎の家の方が身体に馴染んでいるのって、なんか不思議だ。勿論、悪い気はしていない。
「幻太郎、部屋から出てこれないと思うんで、俺で良ければ用件聞きますよ」
「ありがとうございます、助かります。メールも電話も繋がらなかったので、どこかで缶詰されてるのかと思いましたが、有栖川さんがいてくださって良かった」
 安堵した顔で差し出されたのは、ずっしりと重い紙袋だった。中を覗くとぶ厚いハードカバーの本が数冊、資料らしきものがまとまったファイルが二冊入っている。
「渡すだけで大丈夫ですか」
「はい。お手紙を添えていますので、お渡しいただければ結構です」
 にっこり笑う担当者と俺は、初対面ではなかった。幻太郎が世話になっている出版社の中で、一番この家に来る頻度が高いヒトだ。幻太郎への荷物を、本人の確認も取らずに俺に預ける程度には、俺と幻太郎の付き合いを察している。
「夢野先生、食事は摂られていますか?」
「やー、それが怪しいんですよね。俺も、そろそろヤバイかなと思って今日来たところなんで」
「じゃあ長居はやめておきますね。有栖川さんの読みは大体当たりますから。先生をよろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げられ、返す言葉に一瞬詰まった。自由にギャンブルを楽しんでいる俺の日常では、およそ掛けられることのない言葉と信頼に戸惑う。はあ、どうも、と生返事を口にしていると、タイミング良く俺を呼ぶ声がした。

「……帝統。帝統や〜〜」
「あら、先生、ひっどい声」
 口に手を当てて驚く担当者の声音は、言葉とは裏腹に心配する素振りは薄い。幻太郎との付き合いの長さを考えれば、この程度は慣れっこなのだろう。でも俺は、担当サンと違って付き合いも長くなければ幻太郎に抱く情も違う。
 声が聞こえた瞬間にはソファーから立ち上がり、一礼し、書斎へと早足で向かっていた。


 足を踏み入れた書斎は、真っ昼間だというのに薄暗かった。一歩踏み出すと足元でクシャリと音がする。よくよく見ると床中に紙が散乱していたので、踏ん付けてしまったメモを拾ってシワを伸ばした。
 それから大股で窓へ向かうと、締め切られたカーテンを開いて窓の施錠を解く。床のメモが飛ばないよう少しだけ窓を開いて、最後に幻太郎が突っ伏しているちゃぶ台へ向かった。
「大丈夫か、幻太郎」
「No problem.」
 肩に手を掛けて軽く揺すると、しゃがれた声で何故か英語で返事された。こいつまた水分摂ってねえな。
「お茶とコーヒー、どっちがいい?」
「どっちもいりません」
「いやお前、何か飲んだ方がいいって、ぐえっ」
 台所へ向かおうと身体をひねった瞬間、全力でタックルされた。腰に巻き付いた腕が修羅場中とは思えない力強さで俺を掴んで離さない。
「行っちゃやです、帝統……」
 虚飾のない素直な声に、俺の足は理性に反してぴたりと止まった。
「十日ぶりなんですよ。わかってますか」
 オイ、ずりいだろそんなの。こっちはお前を心配して気を揉んでやってんのに、そんな可愛い声で俺の気遣いを台無しにするのか。
 そう反論するつもりが、何故か俺は幻太郎に向き合って、修羅場の不摂生でカサついた頬にキスしていた。
「だいす、もう一回」
 満足気に笑った幻太郎にねだられて、再び唇を落とす。今度は額だ。
「もういっちょ」
 次は瞼。
「全然足りません」
 唇で最後、と思ったのに。
「もっと、して……」
 とろけそうな顔で言われて、つい舌が伸びた。薄く開かれていた唇に舌をつっこむと、あったかくてやわっこい幻太郎の舌先が触れてくる。あー気持ちいい、とうっかり夢中で吸っていたら、突然べり、と身体を引き離された。
「ふふ、ふふふふ」
 口周りの唾液を舐め取りながら不敵に笑ったのは、幻太郎の方だった。突然の豹変に、溜め息と安堵が同時に湧くのはこれで何度目だろうか。
「ありがとうございます帝統。今の小生さいつよです! 無敵ってやつですよ」
 めちゃくちゃ閃きました、傑作の予感です! と瞳をきらめかせた幻太郎は、俺の方など見向きもせずに机に齧り付いた。真っ白だったノートパソコンの画面に、いっそ恐ろしい程の勢いで文字が綴られていく。
「……げんたろーさん、メシは?」
「四時間後にお願いします」
「……了解」
 振り向きもせず答えた作家に、俺はやや虚しい気持ちになりながら、顎に滴った唾液を拭った。



「愛ですねー」
「え、聞こえてたんですか」
「はい。先生が高笑いしながら無敵宣言した瞬間、思わずガッツポーズしてしまいました」
 これで今回も安泰ですと、駅までの道のりを一緒に歩いていた担当者は、感動した様子で声を上げた。
 が、俺は苦笑いを浮かべることしかできない。四時間も待ってられねえし、幻太郎にスイッチが入った以上あの家に居ても俺がやることは何もなかったので、気分転換にスロットを回すことにした。気分転換というか、半ばヤケクソではあるが。
「夢野先生の修羅場、昔よりずっとまともになったんです。有栖川さんが来るようになってから変わったんですよ」
 締切破りも減って助かります、と機嫌良く語る担当者には何も答えず、俺は頭を掻いた。
 今より酷かったって、すげえな幻太郎。お前がそんなにボロボロになって身をやつして、それでも書くことを止めないのは自分の為じゃないのに、そこまで出来るものなのか。
 作家はお前に合ってると思うけど、お前が小説を書くことが好きで好きでたまらなくて、毎日机に向かっている訳じゃないことが、俺は時々悔しくなる。

「帝統に愛されてると、できないことなんて何もないって思えるんです」

 そう言って笑うお前を可愛いと思うけれど、その唇を無性に食いちぎりたくなる衝動が俺の中にはあって。
 いつも必死に踏み留まりながら、綺麗な愛だけを贈っているって事を、お前はいつか気付いてくれるんだろうか。