[ 御来光 ]
「夢野は年末どうしてた?」
穏やかな声とにこやかな笑み。けれど俺は、問われた瞬間ザッと血の気が引いた。
元旦に彼を見舞うのは、もうずっと続いている正月の過ごし方の一つだった。彼の顔を見て、それから初詣に行く。体調によっては会話ができない年もあったが、今年は調子が良いらしく、久し振りの長い会話に胸を弾ませていたところへ思わぬ踏み絵を差し出された。
「いつも通りの……代わり映えしない年越しだったよ。原稿をやって、くだらないバラエティ番組を見て終わったさ」
「へえ、珍しいな。大晦日はいつも歌番組だったろ。夢野のお父さんが好きだった、アレ」
そうだな。俺らしくないラインナップだ。
だって隣にあの男がいた。もうすぐ年末恒例の歌唱対決が始まろうという頃、勝手にリモコンを弄り、無人島サバイバル生活対決とやらにチャンネルを変えるような男と一緒に、俺は大晦日を過ごしたのだから。
(ちょっと帝統。小生こんなの見ませんよ)
(えー。でもこれ、結構参考になるんだぜえ)
なるんだぜえ、じゃない。家主なのに何故あの時チャンネルを譲ってしまったんだ、夢野幻太郎。
大晦日にふらりとやってきた男をほいほい家に入れて、二人で蕎麦を食べ、だらだらとテレビを見て気付けば新年を迎えていた。コタツで寝たまま年を越したのは生まれて初めてだったし、新しい一年が始まる瞬間隣に家族以外の人間がいるだなんて、そんな年越し、体験したことがなかった。
なのに俺は違和感を持たなかった。帝統が家にいることをまるで当たり前のように、今朝だって、年明け最初のパチンコに意気揚々と向かう背中に「小生は夕方までには戻ります」「じゃー手土産持って帰ってくるわ」なんて、帰宅時間を示し合わせる始末だった。
まるで一緒に暮らしているみたいな会話を思い出して、その事実に愕然とする。たった一つの光への恩返しのために生きていくと決めた筈だったのに、俺の隣にはいつの間にか帝統が居る。そんな日常に慣れきって、幸せすら感じているだなんて。
自分がどうしようもなく薄情な人間に思えた。
「夢野。毎年来てくれるのは嬉しいけど、正月なんだから、もっと遊べよ」
病室を去る間際、彼にそんな事を言われた。
俺のような人間を友にしようとした彼は、昔から察しが良くて優しい。掛けられた言葉と、うまく笑顔の作れない青白い顔と、こちらに手を振る骨の浮いた薄い身体が、俺にはどうしようもなく眩しく見えた。
願わくば今年もこの光が絶えませんように。今年も、来年も、その先もずっと。そう祈りながら病室を後にして、そして帝統の居る家に帰る俺は、心を決めていた。
「帝統、ちょっとお話がありんす〜」
食事を終え、風呂から出てきた帝統に声を掛けると、彼は少し首を傾げながら居間に入ってきた。
ちゃぶ台を挟んで胡座をかく帝統の髪は濡れたままだ。何度言っても面倒くさがって乾かそうとしないので、いつか風邪を引くんじゃないかと内心ひやひやしている。
濡れて艶やかになった瑠璃色を見つめていると、
「すぐ乾くって。お前、心配性だよなあ」
察した帝統が呆れた口調で、でも嬉しそうに笑った。その笑顔に胸がきゅうと締め付けられる。
可愛いと思ってしまう自分が滑稽だった。そんな感情とはまるで正反対の言葉を、これから帝統に告げようとしているのに。
「手短に言いますね。小生、この家を売ろうと思うんです」
「ハッ?」
「と言うのは嘘ですが」
「おまっ、そういう冗談はやめろよ! ビビったじゃねーか……」
「いえ、引っ越しを考えたのは本当です。生活費がね、やばいんですよ」
ウソの二文字に胸を撫で下ろした帝統に、用意していた資料を広げて見せた。帝統が入り浸るようになってから右肩上がりになった光熱費、食費、未回収の貸金等々。
用意周到とも言える領収書やレシート、こつこつと書きためた家計簿は、帝統と出会う前からの習慣だった。幼少時代は貧しく、就いた職業は個人事業主なので、自然と身についたスキルとでも言おうか。
「偉いなあ、お前。こーゆーの、やろうと思ってもなかなか出来ねえぞ」
「……ご覧いただければ解るかと思いますが、生活費がかかりすぎているんですよ。このままじゃ小生の貯金、無くなっちゃいます」
それは嘘だが、貯めた金に手をつけるつもりは一切無かった。印税は全て『彼』の有事の際に差し出すためのもので、自分で使うつもりはない。
「マジか! やべーじゃん、俺いくら用意すればいい?」
「いえ、お金は不要です。その代わり――」
もう小生の家には来ないでください、と続けると、帝統の感情豊かな瞳が一瞬で強張った。それに気付かない振りをしながら、淡々と言葉を続ける。
「私一人なら何の問題もないんですよね。今までちゃんと、生活してこれた訳ですし」
何のためらいもなく金を準備しようとする帝統が、嬉しかった。
スリルさえ追い求めなければ、帝統はいつでもギャンブルで儲けを叩き出す事が出来る。けれど定宿を持とうとしない彼が、金を稼いでこの家を維持させようとする心根は、小生の喜びであり一番の障害でもあった。
「どうでしょう。一年の計は元旦にありとも言いますし、これを機に貴方も生活を改めてみては?」
「嫌だ」
固まっていた帝統が、想像していたよりもずっと強い声でハッキリと答えた。
「もう来るなって言われて、ハイわかりましたって頷くとでも思ってんの? メシも風呂も全部面倒みてくれて、返済の催促もされないこんな居心地良いお前んちを、俺が離れるとでも思ってんの?」
見知らぬ他人が聞いていたら眉をしかめそうな、身勝手な言い分だった。けれど帝統の声は段々と細くなる。
「お前に来んなって言われたら、俺、もうこの家に居られねえよ」
くしゃりと歪められた顔は、心細さに震える迷子のようだった。目が声が、帝統の全身が、明確な拒絶と悲しみを伝えてくる。夢野幻太郎の決意を揺さぶってくる。
「頼むから、嘘だって言ってくれ、幻太郎」
帝統。ああ帝統、貴方がそういう真っ直ぐな性根をしているから、小生は貴方に惹かれてやまないんです。
家にだって上げるし、食事だって賭けの資金だって何だって用意してやりたくなる。ぐいぐいと遠慮無しに踏み込んでくる距離の近さを許してしまうし、それどころかもっと近づきたいと、自分から思ってしまうんです。
不器用なくせに愛の重い小生には、一度にたくさんのものを大切にすることなどできやしないのに。
「ねえ帝統。甘えるのはそろそろ終わりにしませんか。――貴方の面倒みるの、ちょっと疲れちゃったんですよね」
顔を見て嘘を吐く勇気は無くて、そっと目を伏せた。
帝統、どうか許して欲しい。光は一つあれば十分で、二つも抱えてしまったら、俺の世界は崩れてしまうんだ。