[ ルビー色の耽溺 ]


「げんったろー! チョコくれ!!」
「人の家に上がり込んで第一声がそれって、どうかと思いますよ、帝統」
 溜め息を吐きつつ紙袋を突き出してやれば、四つ年下の男は子供のようににかりと笑いました。待ってましたと言わんばかりのしたり顔に、さてはこいつ、僕が帰宅するのを待ち構えていたのでは、と疑ったくらいです。

 予定の擦り合わせがうまくいかず、二月十四日に出版社に行かなければならないと決まった時点で、ある程度覚悟はしていました。
 この時期に届く熱心な読者からの贈り物は毎年ありがたく頂戴していましたが、今年は例年の比ではないのだろうなと予想できただけに、版元に赴く足取りは自然と重くなります。フリングポッセに加入してからというものの、読者以外のよくわからないファン層や、出版関係者の家族だか友人だか知人だか知らないが、伝手を辿って接触したがる人間はたいそう増えていました。
 小生、顔がめちゃくちゃに良いので貢ぎ物は珍しくもないのですが、バレンタインには辟易していました。何故チョコレート一色なんでしょうね。稀に気を利かせたチョコ以外の贈り物も混ざってはいるものの、この日小生が出版社から受け取ったのは、ほぼほぼカカオの群れでした。
 ユーカリだけ食ってるコアラじゃあるまいし、どうしろっていうんですか、コレ。こちとら独身男性で引きこもりの小説家ですよ。糖分を必要とするほどカロリーを消費する生活はしていませんし、チョコレートを一緒に分け合ってくれそうな人は、食事制限の厳しい入院生活を送っています。
 どうせなら彼にも渡せるものが欲しかったと、少々罰当たりなことを考えている時、チャイムが鳴りました。こんな夕方に誰が、と疑りつつ、頭には一人の男の顔が浮かんでいました。

「……いい食べっぷりですねえ。見ているこちらが胸焼けしますよ」
「そーか? 美味えぜコレ」
 もしゃもしゃと頬をリスのように膨らませながら、チョコレートの入っていた箱を帝統が振りました。それは一粒千円はする有名なブランドのもので、高価なものを頂いてしまったことと、それをろくに見もせずに他の男に渡してしまったことに少し罪悪感が芽生えました。
 どうしてでしょうか。小生は感想の手紙一枚貰う方がずうっと嬉しくて胸に響くのに、人は何故、高価なものを贈りたがるのでしょう。
「帝統、やっぱりそれ、一つ頂いてもいいですか?」
 己の薄情さを省みて、口に入れられる分だけでも食べてみようかと手を伸ばすと、意外にも帝統は眉間に皺を寄せました。
 不機嫌をはっきりと顔に表して、小生が手を伸ばした分だけチョコレートの詰まった百貨店の紙袋を背中に隠します。いや、おかしくないですか。それ小生が貰ったものですよ。
「……何、欲しいの?」
「ええ。折角ですし、一つくらいお気持ちは頂いておこうと思いまして」
「いーじゃん別に。こんだけたくさん貰ってて、一つだけ食べる方が不公平じゃねえ?」
 バリバリごくん、とやや荒っぽい咀嚼で、チョコを飲み込みながら帝統は平然と答えました。うーんなるほど一理ある。
「それもそうですね。やっぱいいです、全部貴方にあげます。素寒貧になっても、これだけあれば一週間は延命できるでしょう」
「お前、なんでいつも負けるのを前提にすんだよ……」
 お望み通り全てのチョコを渡してやったというのにふて腐れた帝統はさておき、小生は立ち上がって台所に向かいました。コーヒーを淹れて、乱数に頂いたバレンタインのチョコを食べるために。
 帝統が今日来てくれたのは、タイミングが良かった。少し早いけど、と、数日前に頂いていたんですよね。
「帝統、コーヒーどうぞ」
「おー、サンキュ」
 帝統専用となりつつあるマグカップをちゃぶ台に置いて、隣に座りました。ぺりぺりと包装紙を剥がし始めた小生は、強い視線を感じてふと顔を上げます。帝統がじっと、こちらを見つめていました。
「……これはあげませんよ」
 まるで射貫くような鋭い眼差しに驚いて、なんだなんだ、そんなに食糧に飢えているのかと少し哀れになりました。が、これは乱数から頂いた友チョコというやつです。生まれて初めて貰った貴重なものを譲るわけにはいきませんでした。
「あなたの分はこっち」
 乱数から預かっていたチョコには目もくれず、差し出した小生の手首を帝統が強い力で掴んできました。
「そっちも寄越せ」
「はぁ?」
「幻太郎は誰からのチョコも貰ったら駄目」
 顔も声もあまりにも真剣だったので、小生この男を甘やかしすぎたかもしれない、とやや後悔しました。
 何だその物言いは。げんたろーのものは俺のものとでも言いたいのか、お前はどこのガキ大将だ。どこってイケブクロディビジョンか?
 傲慢な考えにカチンときて、乱数のチョコを掴めるだけ掴んで口に含んでやりました。一瞬見えたピンク色に、ニュースで耳にしたルビーチョコレートが頭を過ぎります。味わって食べられないのが申し訳ないけれど、帝統に奪われる前に飲み込んでしまおう――と、思っていたのに。
「食うなっつってんだろ」
 苛立った声で舌打ちをした帝統が、そのまま舌を突っ込んできました。どこに、って、そんなの言えません。小生、今とても喋れる状況じゃありませんので。