[ ホットラインは鳴らない ]
「お前さあ、昨日何があったの」
大負けしました泊めてくださあああい! と、インターホンを通さずとも耳に届いた大声に溜め息を吐いた幻太郎が、招き入れた客人に茶を出したところで投げられたのは不本意な質問だった。
「何の話ですか?」
「すっとぼけんじゃねー。コレだよ、コレ」
視線を逸らした幻太郎に突きつけられたのは、帝統の携帯だった。画面にはSNSにアップされた動画が再生されていて、シブヤの雑踏を走る幻太郎が映っている。
「おやおや、盗撮とは。あなた慰謝料払えるんですか?」
「俺じゃねーし、他にも撮ってた奴いっぱいいんぞ。お前、何やってたの」
「……よくある話ですよ。原稿が停滞したので気分転換に散歩してたら、違法マイク持った奴らに絡まれました」
「で、このザマ?」
「そうですそのザマです」
帝統が動画の中の幻太郎を指差す。すらりと伸びた小指がとんとん、と触れたのは、幻太郎の頭に生えている獣のような二つの耳だった。ふさふさした長い毛が、まるでネコの耳のようにぴんと立っている。
「うーん、客観的に見るとなかなか滑稽ですね。二十四歳成人男性にネコミミって。あっはっは」
「笑い事じゃねえだろ」
「ですよねえ。でも小生、これならイケるんじゃないかって思っちゃったんですよね」
暴漢に襲われ不本意な外見にされた幻太郎が真っ先に向かったのは、病院だった。
不可解な耳を治療して貰うためではない。病室から出られない友人に、たった今起きた出来事を面白おかしく伝えたなら。この滑稽な姿を見せたなら。望んでやまない彼の表情が見られるのでは――と、想像してしまって、居てもたっても居られず駆け込んでしまったのだ、彼のいる病院に。
『シブヤを疾走する、何故かネコミミのフリングポッセの夢野先生』は格好のネタだった。向けられた多数のカメラと聴衆の目に、ひょっとして自分に恥をかかせることが狙いだったのか、と推測するがそんなことはどうでも良い。違法マイクの効果がいつまで続くかわからないので、一秒でも早く友人に会いたい、その一心で幻太郎は走った。
「……身体張ってる芸人みてえだな」
「まあね。あれこれ試してると、段々感覚が麻痺してしまうんだよ」
「お前さあ、本当、なんでもできちゃうんだな」
主語の抜けた帝統の指摘は事実だった。
幻太郎がヒプノシスマイクを握る理由も、作家という職業を選択したのも、腐った世の中でも夢を持って生きられるのも、源を辿れば全て一つの存在に行き着く。
「それで? どうなったんだ?」
「寝てました。汗だくで駆け付けた小生を放置して、彼、一晩中爆睡でしたよ。ふふっ」
幻太郎が訪れた日、容態が芳しくなく薬で入眠させられていた友人は、一度も目を覚ますことはなかった。
粘り強く待ってみたものの、朝日が昇る頃には、頭に生えた耳は消えていて。精魂込めて書いた原稿にボツを食らってしまったみたいな気持ちになり、帰宅して腑抜けていたら帝統がやってきたという次第だ。
「げ……元気出せよ。お前に喧嘩吹っ掛けた奴らは俺と乱数でメッてしてやるからさ!」
「結構ですぅ。妾が全員ぼーっこぼこにしておきましたぁ」
「おお……そーか、お前強いもんな、そーだよな……」
茶を啜りながら平然と答える幻太郎に、帝統は頭を掻いた。
「でもさあ、そういう時は俺を呼べよ」
「は?」
「お前は一人で平気かもしんねーけどさ、俺がなんかヤなんだよ。幻太郎が危ない目に遭ってたら手伝いてえし、病院でヒマしてんだったら、気分転換のメシくらいなら付き合うし」
茶化す様子も無く淡々と告げる帝統に、幻太郎の顔は強張った。欲しい言葉を不意打ちで投げられて、こいつエスパーか、と喉が震える。
本当は少しだけ、帝統の顔が浮かんでいた。得体の知れない器官が自分の身体に付いて怖かったし、目も合わない友人に泣きそうになった、そのどちらの時にも幻太郎は帝統を思い出していたけれど、連絡を取ろうとは絶対に考えなかった。
だってギャンブルが最高潮だったら? ヨコハマの、電波も届かない山奥で餌付けされていたら? 見知らぬ女と一緒にいて、呼び出しを無視されたら?
一人でいる時に複数の違法マイクに襲われる事も、病院で報われない時間を過ごす事も、堪えられる。けれど帝統が来なかったら。呼んでも呼んでも来てくれなかったら、その時こそ心が折れてしまいそうな予感があって。
「――まあ、次に耳が生えるような事があれば、貴方も巻き添えにしましょうかね」
勿論嘘だけど、と心の中で呟きながら、幻太郎は笑った。