[ 俺の名前は呼ばなくていい ]
面会を許されて病室に足を踏み入れた時、先に声をかけたのは乱数の方だった。
個室に入れられた幻太郎は、ベッドの上で窓から見える都会のビルの群れを見下ろしていたが、人の気配を感じたのかすぐにこちらを振り向く。やあやあ、調子はどうかな? と、優しさと労りのこもった声を受けて幻太郎の目が乱数をじっと見つめるが、松葉色の瞳はすぐにまろやかな眼差しで微笑み、手にしていたデバイスにこう綴った。
(声が出ないこと以外はすこぶる良好ですよ。そんなに心配しないでください、『 』)
病室に向かう前に受けた説明で、シンジュクの医者は一時的な脳機能障害だと言っていた。横で聞いていた乱数は人を殺しそうなおっかねー眼をしていたし、俺はと言えば、明確な殺意を持って、人を殺せるリリックを頭の中で練りながら医者の話を聞いていた。
今の幻太郎は、目に映る人間すべてが同じ人物に見えるらしい。耳に届く声も同様で、誰と目を合わせても、会話をしても、一番大切に思っている特別な人間にしか相手を認識できない。そういう幻惑系のリリックを食らった幻太郎は、俺の素性や乱数の裏の繋がりを自白してしまう前に、自分の声帯を潰したらしい。情報を引き出せなかった腹いせか、発見された時には酷い有様で、襲われた時の記憶もあやふやになってしまっているようだった。
ようやく面会できる状態になった時、顔を見て安心したい気持ちと同じくらい、俺は幻太郎に会いたくなかった。
あいつにとって特別な人間なんて、考えるまでもない。俺や乱数もそれなりに特別にされている自覚はあるけれど、敵わない存在がいることを俺はとっくに知っていた。
――ああそうだ、解ってるんだよ、今のお前が呼ぶ名前がどれかなんて。血まみれの幻太郎の姿に声も出ないほどの恐怖を覚えた俺を、ようやく回復したお前に心底安堵しながら見舞う俺を、お前は別の男の名前で呼ぶんだろ。
疑いもせずにそう信じていたから、他人の名前で呼ばれる覚悟をして、俺は病室に向かったんだ。それなのに。
(そんなに心配しないでください、『帝統』)
病室のベッドの上で、すっかり血色の良くなった幻太郎が告げた名前は俺のものだった。
帝統、とデバイスに綴られた文字を見た瞬間息が止まった。乱数だって目を丸く見開いて、慌てて俺の方を振り返る。
いや。――いやいや、そこは違えだろ。お前の大好きな、たった一人のダチの名前、間違えてどうすんの?
「幻太郎、僕の名前、もう一回呼んで?」
ベッドに腰掛けた乱数が、間違えようのない距離で幻太郎と顔を付き合わせて念を押した。
(帝統。ありすがわ、だいす)
普段の原稿用紙に綴られる筆跡とは違う、ぎこちないデジタルの筆跡は再び俺の名前を告げる。何だこれ、聞いてた症状と違えぞ、と、何も言えなくなった俺は慌ててナースステーションへ向かった。
俺に呼ばれた看護師や医者と話す幻太郎は、滑稽なくらい帝統、帝統とたった一つの名前を連呼していた。
医者の説明に誤りはなくて、接する全ての人間が同一人物に見えているんだろうなと、傍で見ていてよく解る。幻太郎よりうんと年上の女の看護師にも、ラップバトルで戦った事のある医者にも、幻太郎は等しくくだけた態度をとっていた。まるでいつも、俺と話している時のように。
「ねえ帝統、嬉しい?」
「…………」
「それとも困ってる?」
「……わかんねーけど、早く戻って欲しい」
眉間に寄っていた皺を、乱数の細い指が突いた。
俺の視線の先では、看護師の問診に答えながら、あなたそろそろ賭場へ行く時間では、と頓珍漢な事を幻太郎が話している。見てらんねえって思うし、目に焼き付けておきてえなとも思った。
幻太郎の情が深いところが好きだった。血の繋がりが無くても、付き合いが浅くても、懐に入れた他人をあんなに大事にできる人間を俺は他に知らない。
あいつが他人に明け渡した優しさと同じ分だけ、好意が返ってくれればいいと思う。賽子一つあればいい、クズな有栖川帝統しかいない世界なんて、おまえが居ていい場所じゃねえよ。