[ 愛は鈍角 ]


「げんたろー、ごめん、ドジった」
 そろそろ床に就こうかという時刻だった。日付はまだ変わっていない。
 帝統の呼び出しにしては時間が早いな、と思いながら応答ボタンを押せば、耳に飛び込んできたのは気弱な声だった。
「はいはい愛しの旦那さま〜〜、わらわは何を用意すれば良いのかえ?」
 また巻き上げられたのか、しようのない男だと、財布を確認しながら女のような高い声で答えてやる。そこそこの枚数のお札が入っていたが、相手は何せ有栖川帝統。油断はできない。
「ドラスト」
「は?」
「あるだけガーゼと包帯とゴム手袋買っといて」
「…………帝統?」
 これからお前ン家行く、とだけ告げて、電話は一方的に切られた。明かりの落とされた寝室でスマホの画面がぼんやりと光る。ガーゼと包帯とゴム手袋。指定された品を脳内で反芻したところで、スマホは指先からするりと流れ、硬い音を立てて床に落ちた。

 ◆

 通話を一方的に切った後、俺は明るい表通りに出てタクシーを拾った。住所だけを簡潔に告げて座席に寝転がる。ただの酔っ払いに見えるように振る舞いながら、左腕を強く圧迫し、コートを着ていて良かったと安堵した。隠し事をするには丁度いい。血まみれの左腕を見られたら、乗車拒否されるか勝手に病院に連れて行かれるのがオチだ。
 鼻をひくつかせ、血の匂いが濃くない事も確認する。刺された直後はそこそこ流血したが、血の色が赤黒かったので、やられたのが静脈なら大丈夫だろ、と予想した通り俺は元気だった。元気というのはこの場合似つかわしくないのだろうが、俺は幻太郎と違って言葉を知らないので、視界は良好だし呼吸も普段通りできるし顔色も悪くない今の状態をそう表すしかない。
 ただ、メンタルはあまり元気ではなかった。
 後部座席に全身を預けながら、深い溜め息を漏らす。幻太郎ではなく乱数に電話をするべきだったと今更後悔していた。俺を襲ったのは、ギャンブルで大損した相手でもラップバトルの敗者でもなく、夢野幻太郎のファンだったから。
 作家の世界とやらを俺は全く知らないが、幻太郎の知名度がそこそこ高く、熱心つうか、妙なファンがそこそこ存在するらしいという認識は頭の片隅にあった。それをハッキリと意識したのは、心臓に向けられたナイフを咄嗟に左腕で庇い、ヒプノシスマイクで相手を失神させた後だった。所持金をトカし、公園で一晩明かそうとしていた俺の寝込みを襲った相手は今も土の上で泡を吹いて倒れたままだろう。手に持っていたのは幻太郎の著書で、幻太郎と俺の付き合いを罵倒しながら刃物を振り回す姿を思い出し、俺は苦い顔を浮かべた。これを知ったらあいつ、傷付くだろうなって解ったから。
(1、今日のギャンブルの相手がやべー奴だった。2、ラップバトルに巻き込まれた。3、ホームレス狩りに襲われた)
 眉を寄せ指を折り曲げながら、三番目に決めた。まあこれが一番無難だろ。上手くいけば、心配性な幻太郎が暫く泊めてくれるかもしんねえし。
 そう思うと顔がへらりと緩むのを自覚した。どうせなら、「あなた本当にどうしようもない馬鹿ですね」って、めちゃくちゃ呆れた顔で叱ってほしいし、震える腕で抱きしめてほしい。知らなくて良いんだよ、本当の事なんて。お前はなんも悪くねえんだから。