[ 枕ひとつ ]


 幻太郎の家でソレを見つけたのは、寝泊まりする回数が増え始めてすぐのことだった。
 畳に直寝、座布団が掛け布団代わりでも、泊めて貰えるのなら俺は一向に構わなかった。けどそんな寝方が二度三度と重なる度に幻太郎の眉間の皺は深くなっていって、ある夜、「押し入れの布団を使ってください」と言われた。言い方は素っ気なかったけど、俺の寝心地を気遣う態度に嬉しくなってらしくなく胸が弾んだ。
 おう、って照れ隠しの素っ気ない言葉を返して、俺はいそいそと押し入れを開いたんだ。そしたらふかふかの布団セットの上に、ソレが乗っかっていた。
「……枕?」
 ハテナを浮かべながら鷲掴みしたのは、随分大きな枕だった。俺が今まで掛け布団にしていた座布団を横に何枚か繋げたくらいのデカさがある。こういうロングピローはガキの頃に実家で見たきりだったので、なんとなく苦い気持ちになり、それから何でこんなのがあるんだろって不思議に思った。幻太郎は一人暮らしだし、俺以外に寝泊まりする来客がある様子は見えない。
 布団を敷いたものの、デカい枕は昔の家を思い出すし一人で使うものではないような気もして、その晩は枕無しで横になった。ふかふかの布団からは太陽の匂いがして、わざわざ干して準備してくれたんだろうかと思いながらその夜は熟睡した。
 それから十日が過ぎた朝のことだった。俺は泊まる度に押し入れを開け、枕無しで寝続けていたが、その日はたまたま幻太郎が起こしに来てくれたのだ。
「おや、貴方、枕は使っていないのですか?」
 気持ちよく鼾を掻いていた俺は、額をぺちっと叩いた幻太郎に、おはようの挨拶代わりにそんな質問で起こされた。
「……はよ」
「はい、お早うございます」
 膝を揃えて頬杖を突いた幻太郎が、朝日を背負いながら微かに笑う。俺はむくりと上半身を起こして大きく伸びをした。
「あーー、一週間振りの寝床最高だわ」
「それは重畳。枕を使えばより快眠が得られたと思いますよ」
「じゃあお前が使えばいいじゃん」
 反射的に答えた俺は、幻太郎の目を見てしまったと焦った。細められた目は、悲しげな色を一瞬だけ滲ませる。
「……あれは客用なんですよ」
 と、ちらりと幻太郎が振り返った先には、俺が開けっぱなしにしていた押し入れがあった。デカい枕だけがぽつんと中板の上に取り残されている。
 客用、と幻太郎は言った。使えば良いのにとも言ってくれた。でも俺は、枕をじっと見つめる幻太郎の表情にやっぱりモヤモヤしてしまう。
「あのさぁ」
「はい」
「お前さ……この家に泊めたいヤツ、誰かいんの?」
 ごくりと唾を飲み込みながら尋ねると、幻太郎がきょとんと目を丸くする。
「あの枕、俺じゃなくて使わせたいヤツが他にいるんじゃねえの?」
 横に長いロングピローはきっと幻太郎の好みじゃなかった。こいつは蕎麦殻の入った、じいさんみたいな普通のサイズの枕を愛用している。じゃあなんでこんな不自然にデカい枕があるんだろうって考えた俺が行き着いたのは、この枕を初めて見た時に思い出した光景だった。
 まだガキだった頃、実家の無駄にデカいベッドの上で、俺はこれとよく似た枕に母親と頭を並べて寝ていた。それはまだ母親の顔をしていた頃のおふくろが、子守歌なんか歌いながら俺と一緒に寝ていた遙か遠い記憶だ。
 幻太郎はあんな風に、誰かと肩を並べて寝たくて用意していたんじゃないだろうか。
 俺が幻太郎の家に泊まるようになるまで、押し入れの中に仕舞われっぱなしで日の目を見ていなかったデカい枕は、俺じゃない誰かを待っているように思えて使う気になれずにいる。
「貴方が使って良いと言ったでしょう」
 幻太郎はちょっと間を置いた後、それだけを呟いた。誰かのために用意していたんじゃないかって俺の疑問には答えることなく、顔を背けて立ち上がる。
「朝食が欲しければ、ご自分でよそってくださいね」
 鼻孔をくすぐる出汁の匂いには気付いていた。俺は口を開きかけたけど、客間を出て行く背中にぶつける言葉は思い浮かばなくて、のそりと立ち上がって洗面台へ足を向ける。幻太郎にどこまで踏み込んでいいのかわからなくて、途方に暮れた気持ちになって――他人にこんな風に戸惑うのは初めてだなと、ふと気付いた。

 ◇

 飴村乱数が選んだもう一人のチームメイトは、随分と懐に入り込むのがうまい男だった。
 シブヤの片隅に建つ古い一軒家は、一人暮らしには部屋数が多く持て余していたのは事実だ。寝室と仕事部屋さえ確保すれば、後は自由でそして空白だった。仕事の打ち合わせは外でするし、家を訪れるような友人はなく、空いた部屋を埋めてくれる筈の兄さんはもう病室の方が家みたいになっている。
 兄と枕を並べて寝ていた時間より、一人で寝起きする生活の方が長くなってしまった。その事実に気付いた時に怖くなって、何でもいいから家に証を置きたくて、ネットで目についた枕を買った。共に肩を並べて眠る相手が俺には居るのだと、兄さんはいつかこの家に帰ってくるし一緒に眠る日は訪れるのだと、まるで自分に言い聞かせるように。
 それを客用だと偽った程度には、俺は帝統に心を開いている。知り合って日も浅い男が、易々と扉を開けて小生の作る食事に目を輝かせる日々が続いている。
 彼に必要とされれば着信一つで迎えに行ったし、一人分だった炊事は量が増えた。けれど、約束は何もしていない。帝統はいつも気まぐれにするりと潜り込んで、そして出て行くけれど、閉め切って淀んでいた俺の心の風通しを良くしてくれた。乱数と二人で帝統に悪戯を仕掛けたり、約束もなく家にやってくる帝統を招き入れると、小説を書いていない時でも胸が弾み顔は自然と綻んでいる。
「貴方が使って良いと言ったでしょう」
 ――使って欲しかったのに、と女々しい本音は言えなかった。ただ少し、悲しさが胸にじわりと滲む。
 布団は遠慮無く使うくせに、枕は決して押し入れから出そうとしなかった。他の誰かのためだと言い当てた帝統の勘に感心したけれど、そこまで見抜くなら小生の願いも拾ってくれればいいのにと、空しい気持ちも湧いて……。
「朝食が欲しければ、ご自分でよそってくださいね」
 他人に期待を抱いている自分がいることに驚いて、帝統から目を逸らし、逃げるようにその場を後にした。