[ 春風が鳴いたら ]


 三人で乱数の事務所になんとなく集まっていた、のどかな昼中の出来事だった。
 トランプタワーに興じている俺の隣りに座り、愉快そうな顔で妨害を入れていた幻太郎が、扉が開いた瞬間さっと立ち上がった。丸いトレーに菓子を山盛りに載せてやって来た乱数を手伝うマメさを見せた後、ソファーの横に置いてあった紙袋を乱数に渡す。「先日はありがとうございました」だの、「ええー、わざわざ良かったのに」だのと俺の知らないやり取りを交わす二人を、テーブルの小皿から取ったドーナツを齧りながら幻太郎に目で訴えてみる。けれど答えは乱数の口から返ってきた。
「幻太郎ね、この間スクランブル交差点で原稿を失くしちゃったの」
「えっ」
「春一番がニュースになった日があったでしょ。あの時風で、ビューって飛んでっちゃったんだって」
「マジかよ……」
 幻太郎と出会う前なら、それがどーしたって聞き流していただろう。でも今の俺は慌てて幻太郎に目線を向けた。
「……打ち合わせ用の、初稿ですらない原稿だったんですけど。寝不足で歩いていたら油断してしまいまして……」
 気まずそうに俺から目を逸らしながら、幻太郎がボソボソと補足する。徹夜明けでぼーっとしながらスクランブル交差点を歩く姿が容易に想像できて、俺は苦い顔になった。だからいつも徹夜はすんなって、俺は心配してンのに。
「急いで掻き集めたんですが、半分近く紛失しまして。下手に拾われてネットに流出されたら不味いですし、書き直しかと諦めていたんです」
「幻太郎の原稿用紙って特注で、名前書いてあるもんね」
「ええ。それを乱数に愚痴ったら、SNSで呼び掛けたり、イケブクロの萬屋に流出の確認を取ってくださって。拾い主が次々と現れて驚きました」
「全部回収できて良かったよー」
 ニコニコ笑う乱数と、そんな乱数以上に嬉しさを隠さない幻太郎を交互に見て、俺は事の顛末を理解し、それと同時に口が勝手に不満を零した。
「何で俺には言わねーんだよ」
「電話しましたよ。そしたら貴方、こっちが話す前に開口一番がちゃーんどぅるるる『五万貸してくれー』でしたから」
「うぐっ……」
 数日前、幻太郎から着信があったのに出た瞬間何故かガチャ切りされたのを思い出し、俺は何も言えなくなった。
「乱数は本当に頼りになりますねえ」
 それは本音か俺への当てつけかわからなかったが、俺の知らないところで幻太郎のピンチが救われていた事実に嬉しさよりも――胸にモヤのようなスッキリしない淀みが湧いた気がした。


 春のぬくい夕暮れの中を、幻太郎と肩を並べて歩く。乱数の事務所を後にした俺達は、今立っている交差点を起点に、普段ならそれぞれ家路と賭場へ爪先を違えるのがお決まりのパターンだったが、いつも通り別れを告げて家路へと向かった幻太郎の背中に俺は無言で着いていった。
「……帝統?」
 気配に気付いて振り向いた幻太郎が、不思議そうな顔で俺の名を呼ぶ。俺はへらりと笑顔を浮かべただけで、答えははぐらかしたまま、三色堂の新刊コーナーや幻太郎の家の最寄りのコンビニに付き添い続け、空は段々と暮れて行き、気が付けばでかい三角の星座が空に見えるくらいの宵になっていた。
「…………帝統」
「なー、そろそろ腹空かね?」
「いや、そうじゃないでしょ。貴方いつまでひっついて来るんですか」
 今夜は泊めませんよ、と続けた幻太郎は足取りをすっかり止めてしまった。家まであと曲がり角を一つというところで仁王立ちをして、探るような瞳でじっと俺の言葉を待っている。
「だって、今日も風つえーじゃん」
 言うかどうかを躊躇ったのは一瞬で、素直に告げた後俺は幻太郎の荷物に目線を向けた。ぱちぱちと目を丸くした幻太郎の眼差しが、街灯に照らされてはっきりと浮かび上がる。
「小生、今は原稿持ってませんけど」
「そーだけど。お前がいっつも持ち歩いてる手帳とか、メモとか本とか、飛んでったらマズいの色々あるだろ」
「はあ……」
 幻太郎から離れない俺の意図を理解したのかしていないのか、返ってきたのは鈍い反応だった。
「それで、今夜は賭場に行かずに小生のボディーガードで稼ぐおつもりで?」
「金は要らねェよ」
 失礼な奴だな、と俺は普段の自分の言動は棚に上げてちょっとムッとする。腹が立ったのは仕方ないだろう。俺は俺なりに、幻太郎を心配してンだから。
「――えーと……つまり、」
「何だよ、ヘンな顔して」
 右手で顔を覆った幻太郎の表情は見えなかったが、口元がむずむずと歪んでいるのが見えて――それから手で覆い切れていない耳が赤く染まっているのに気付き、俺はちょっと嬉しくなる。
「……帝統は心配性ですねぇ」
 暫く顔を隠していた幻太郎がようやく右手を下すと、赤面の名残かほんのり上気した顔色が見えた。
「小生が何を失くしても、貴方が気にする必要はありません。賭場でも食事でもどこでも、好きな時に好きなところへ行っていいんですよ」
 それはまるで俺は無関係だからとでも告げるような、素っ気ない言葉に聞こえたが、幻太郎の声音は穏やかだった。
「原稿を失くした日、電話したでしょ」
「おう」
「あの時ね、原稿が駄目になったと思って結構途方に暮れていたんですけど、帝統の声を聞いたら何とかなるだろうって信じていたんです。貴方は生きているだけでネタの宝庫、玉手箱みたいな稀有な人ですから──小生のボディーガードなんてしなくても、帝統が好きなように生きていてくれれば、私は大丈夫なんですよ」
 幻太郎の期待に満ちた眼差しは、告げた言葉に嘘がないことを示していた。ガチャ切りされたわりには頼りにされてたんだな、俺、と気付いて胸に纏わりついていたモヤが晴れていくのを感じる。俺の過保護を不要だと言い切った幻太郎は、俺の爪先が別の方向へ向くのを待っている様子でじっとこっちを見ていたので、その手を握って幻太郎の家へ歩き出した。
「腹減った。お前ンちで飯食わせて」
 えっ、という驚きを隠せずに俺の顔と繋がれた手を交互に見た幻太郎が、戸惑った足取りでたたらを踏んだ。強引に腕を引くと、何も言わずに幻太郎は俺と肩を並べて歩き出す。
「俺がしたいようにしていーんだろ?」
 それなら俺が今やりたいことは、幻太郎と一緒にメシを食って、こいつが寝付くまで側にいて、ぐっすり眠る寝顔を見届けることだった。綺麗な新緑色の瞳を縁取る睫毛の下にうっすら浮かぶ、寝不足を伝える隈が消えない限り、俺はギャンブルに集中できない。
 通い慣れた家路をずんずん進む一方的な俺の足取りに、幻太郎は無言で着いてくる。強引に引っ張っていた手はいつの間にか互いの指が絡まっていて、春一番の吹く夜道で俺たちの手は固く握られていた。