[ 塩、のち愛妻 ]



 お酒はあまり嗜みません。
 けれど小生には、締切間際の切羽詰まった修羅場になると、酒乱めいた一面が顕現する悪癖がありました。冷静になると何故こんなことを、と自分自身不思議に思うような奇行に走ることが度々あり、それでも今までは問題なく過ごせていました。兄の見舞いと出版社との打ち合わせの他は、書物机に齧り付くだけの狭い世界で生きており、小生の奇行を知る人間は誰もいなかったから。
 だからまあ、油断していたのでしょうね。
 突然捩じ込まれた代理原稿を慌てて書き上げた後、泥のように眠った小生には己がやらかした出来事の記憶が全くありませんでした。目が覚めて、スマートフォンの通知が普段より随分多い事に気付き、寝癖を付けたまま布団にごろごろと横たわりつつ画面に指を走らせて――乱数からのメッセージに、SNSに寄せられた数多の反応。それらが教えてくれた、全く身に覚えのない小生の奇行を把握して恐る恐る布団から身を起こすと、寝室兼客間の卓袱台の上には綺麗に洗われたお弁当箱がちょこんと一つ、置かれていました。


「幻太郎、大丈夫?」
「ええ、問題ありませんよ。なんてったって私達はラブラブですからね。あっはっは!」
「うーん、これはダメそうだ……」
 乱数の事務所の応接間で、やけくそ気味に乾いた笑いを浮かべた小生の頭を、同情に満ちた小さな手がよしよしと撫でました。乱数の右手は小生を慰め、そして左手はスマートフォンを握っています。画面にはこの場にいないもう一人のフリングポッセのSNSアカウントが表示されており、ハイエンドモデルの高精細なスペックが、帝統の撮影した日常のありふれた風景を映していました。
 よく見慣れた小生の自宅の卓袱台と、その上に置かれたお弁当箱が一つ。写真の右下にはピースサインがやや見切れた形で写り込んでおり、投稿には一言、『げんたろーに貰った』と添えられていました。
「帝統ってばマウント大好きだからねぇー」
「……そんなの初耳ですよ……」
 思わず零してしまった本音に、乱数はぱちぱちと目を瞬かせました。「気付いてなかったの?」と問われ、「あのギャンカスにそんな要素あります?」って問い返すと、
「ギャンブルしか頭になかった帝統がげんたろーと付き合おうって思ったんだから、独占欲しかないに決まってるじゃん」
 とすげなく論破されてしまいました。
「第一、焚き付けたのは幻太郎でしょ」
「あぁーーーやめて、やめてください。その話は聞きたくないです」
 非情にもスマートフォンの画面を眼前に寄せてきた乱数に、悲鳴のような拒絶を上げて小生は力いっぱい顔を逸らしました。
 そこに写っているのはありふれたお弁当箱だと知っていたし、それを手作りしたのが修羅場にトチ狂っていた自分であることも理解していますが、絶対に現実を認めたくはありませんでした。冷凍庫に残っていたミニハンバーグに、野菜室で萎びれかけていた葉物野菜だけならまだ良かった。けれど、事もあろうに修羅場に取り憑かれた小生はケチャップライスを炒め、薄焼き卵を乗せ、それから――見るに堪えない帝統への恥ずかしい愛の言葉を、トマトケチャップで綴っていました。
 そうして全く記憶にないバカップル全開の愛妻弁当は、たまたま泊まり込んでいた帝統によって世界中に自慢されたという訳です。


「けーったぞー」
 とっぷりと日も暮れた夕餉時に、間延びした声とともにインターホンが押され、小生は思わず書生服の袂を捲りました。
 人の赤っ恥を全世界に言い触らした帝統を一言叱らねば気が済まない、そういう心持ちで頭に角を生やしながらうんと怒気を撒き散らして、出迎えたというのに。
「弁当うまかったぜ。サンキューな」
 からっと笑った帝統の顔には無邪気な喜びが満ちていて、文句を言おうと開いた小生の唇は喉元に準備していたクレームを思わず飲み込みました。
「おかえりなさい……」
「あ、勝手に来ちまったけど大丈夫だったか?」
「ええ、締切は昨夜で片付きましたので」
 口からするすると出る帝統の訪れを受け入れる言葉に、小生自身内心驚いていると、帝統の荒っぽい手のひらが不意に頭を撫でてきました。
「今日は早めに寝ろよ。疲れただろ」
 労りに満ちた言葉を掛けられて、SNSへの投稿を責める気持ちがあっという間に萎んだのを感じます。ぽんぽんと頭を撫でる手は温かく、掛けられた言葉は優しくて、たったそれだけで胸いっぱいに嬉しさが満ちる自分に、我ながらチョロいなあって呆れてしまう。
「お弁当、お口に合いましたか」
「うん。また食いてーな」
 快活に答えた帝統は、小生に背中を見せて台所へと向かいました。彼の左手に提げられたコンビニの袋からは、つい先日まで常備していたありふれた調味料が顔を覗かせています。
 締切が重なっていて、買い物もろくに行けなかった小生の台所は砂糖もバターも牛乳も何もかも切らしていました。帝統の投稿を見て、お弁当箱に自作のオムライスが詰められているのを知り、慌てて向かった台所の床に少しだけ零れていた白い粒は塩以外に心当たりはなくて。寝不足と修羅場で判断力の鈍った頭が調味料として何を使ったか想像すると、帝統が口にしたお弁当は味気ない、塩分過多なものだったんじゃないだろうかと想像できます。
 何食わぬ顔で台所から欠けていた調味料を補充している背中を眺めていると、頭がぼうっと逆上せるような、むずむずと落ち着かない熱に思考を浸食されているような感覚が湧いてきました。切羽詰まった修羅場は終わり、冷静を取り戻している筈の頭には、何故か先程から小生でも美味しく作れそうなおかずのレパートリーが次々に浮かんでいます。
「帝統、ちょっとこちらへ」
 手招きで引き寄せると、帝統は首を傾げながらも素直に近付いてきました。
 浮かんでは消えるお弁当の候補を決める為、恋人の希望を確認しようとして――無防備に佇む帝統の姿がふと目に留まった時。ほとんど無意識で、小生は帝統と唇を重ねていました。え、と小さな戸惑いが聞こえたけれど、気にせず啄むだけの軽いキスを繰り返します。
「げんたろっ……待て、ストップ」
「どうして?」
 意外にもノってこない恋人へ不満を零すと、がしがしと頭を掻いた帝統は小生以上に不服そうに口を尖らせました。
「煽んな。頼むから寝ろ。お前最近布団で寝てなかっただろ〜……」
 セックスになだれ込みたい気持ちと小生の体調を思いやる理性とで、帝統の顔にはわかりやすく葛藤が浮かんでいました。その情けない様が愛おしくて、頬を緩ませた小生は帝統の胸にもたれ掛かります。
「確かに貴方の言う通り、すごく眠いです。今夜は添い寝してくださいますか?」
「……おう」
「それと、明日は小生より先に起きないでくださいね」
「何で?」
 しな垂れかかる小生を抱きとめた帝統が素直な疑問を口にしましたが、それには答えずうっとりと瞼を閉じました。
 抱きしめる帝統の腕の温かさは心地良く、まるで揺り籠に抱かれているような安堵に包まれた小生は、今宵きっと良い夢を見るでしょう。――だから、帝統にもちょっと良い夢を見せてあげたくなって、たっぷり眠った後は素面のまま愛を込めたお弁当を作ってあげてもいいなと思えたのでした。