[ それが初恋で良いのなら ]


(※「俺の地雷を越えてゆけ」の続編です)



 シブヤの通りに面したガラス張りの事務所をひょいと覗き込んで、俺の歩みはぎくりと止まった。
 空腹が限界に近付いたので、常に女からの差し入れで溢れている乱数の仕事場で食事に有り付かせて貰おうと気軽に足を向けた、平日の午後のことだった。派手なペイントを施されたガラス窓からは室内の全容は覗えなかったが、テーブルを挟んで向かい合う乱数、そして幻太郎の姿が見える。二週間振りの不意打ちの邂逅だった。
 意気揚々と扉に手を掛けるつもりだった腕を慌てて引っ込め、俺は壁にぴたりと背中を張り付けた。首を左に傾けてそっと中の様子を覗い、すぐに違和感を覚える。二人の間に普段のふざけた空気は無く、真剣な眼差しで言葉をいくつか交わした後、乱数が幻太郎の手を握った。よくあるいつものスキンシップだ。だが。
 手を握られた瞬間、幻太郎の顔がさっと赤くなったのを俺は見逃さなかった。
 見てはいけないものを目撃した気分になり、傾けていた首を慌てて正面に戻す。途端、視界に映る光景は人で溢れるシブヤの雑踏に切り替わったが、脳裏には乱数に顔を赤らめた幻太郎の姿が鮮明に残っていた。
 ああいう表情が何を示すか、興味の無い俺でも知っている。普段は飄々としている幻太郎でもあんな顔すんのかって思って――驚きと混乱と、頭を殴られたような衝撃で、壁に張り付いていた俺の背中に不快な感覚が走った。落ち着かないような、今見た光景を全否定したいような、二人の繋がった手を今すぐ切り離したいような。そんな衝動に混乱していると、不意に腹が派手な音を立てて鳴った。
 放置されていた空腹を思い出し、俺はその場に座り込んだ。なんだか一気に気が抜けたような気分だ。ポケットを乱雑に漁っても、タバコ一つ買えないような小銭が出てきただけで、空腹の侘しさにしょげていると頭上から見知らぬ声が降ってきた。複数の女の声だった。
 見上げると、フリングポッセのファンだと言う女二人組が、俺の腹の音を愉快そうに笑いながらメシを奢ってくれると提案してきた。えっマジ、いーの?! と俺は感激しながら一も二も無く立ち上がる。アンタいー奴だな! って笑うと、二人組は近場のファミレスを指差しながら機嫌良く俺に腕を絡めてきた。
 何だコイツ、図々しいな、と腕を外そうとした瞬間、事務所のドアが開く音がして。
「あっれー、帝統じゃん」
 振り向くと、少しだけ目を丸くした乱数、それから――何故か冷ややかな視線を俺に向ける幻太郎と目が合う。
「え、何なに、オネーサン達と一緒なの? 帝統ばっかりずるーい!」
「あ、じゃあ……」
 お前らも来るか、って誘おうとした言葉を遮るように幻太郎が顔を背けた。
「行きましょう乱数。邪魔をしてはいけませんよ」
「えー、でもぉ」
「なんですか。小生が相手じゃ不満ですか」
 むすっと拗ねたような声音に、乱数が慌てて首を振る。幻太郎の手を取り、俺とは反対方向へ足を向けると、
「オネーサン達、今度はボクとも遊んでね!」
 人懐っこい笑顔を振りまいてそのまま去ってしまった。
 二人の背中を見ながら、俺の目は乱数に握られた幻太郎の手に釘付けになる。
 置いて行ってもいいけど手は握るな。
 何故か俺は、そう強く念じていた。




 ずっと探っていた幻太郎の好きな男が確定したのは、それから数時間後のことだった。
 ファミレスで腹を満たした俺は、僅かな種銭を手にスロットへ向かい、そこそこの枚数を排出させることに成功した。店を出る頃には今夜の寝床を探す時刻になっていて、ホテルでも漫喫でも選び放題だった筈なのに、気付けば幻太郎の家の前に俺は居た。
 勝手に動いていた足を疑問に思いながら、頭の中では、今日一日こびりついて離れなかった光景が答えなのだと理解してもいた。乱数に誘われ、三人でフリングポッセになり、共につるむ内に幻太郎の色んな顔を見てきた。よく喋り、よく俺をからかい、ころころと口調を変える幻太郎の喜怒哀楽に触れてきたつもりだったけれど、昼間乱数に向けた表情はそのどれとも違っていた。
「……金が無くて、優しくなくて、幻太郎に頼ってばっかの年下の男、か」
 幻太郎の好きな男の条件を指折り数えて、俺は笑った。全部逆じゃん。やっぱお前、嘘が上手えな、って感心する。
 ――乱数だったのかと、今日ようやく辿り着いた答えに俺は納得していた。
 相手があいつなら、俺に言えない理由も、嘘の男をでっち上げて乱数本人に気付かれないよう振る舞っていたのも、全て合点がいく。昼に事務所の前でうっかり鉢合わせした時、俺と一緒にいた女達に関心を示した乱数に機嫌を悪くしていたのも、つまりそういうことだろう。
 幻太郎も、嫉妬したりすんのか。そりゃそうか、好きだったらそれは――当然の感情なんだろう。
 胸に影を落とした暗い感情から目を逸らしながら、俺は久し振りに訪れた、古い戸建てのインターホンを押した。磨り硝子の向こうで廊下の明かりが灯るのが見える。足音が、近付いてくるのが解る。
 幻太郎。俺はお前のことがすげェ大事で、ちゃんと応援してやりてえって、思ってるからな。


 *


「――ああ、はい。そうですね、もうそれでいいです」
 客間に通された俺に出されたのは、一杯の茶、それから妙に冷めた声だった。
「小生が好きなのは乱数。これで納得しましたか?」
 幻太郎が乱数をどう思っているのか知っている、応援したいから俺の前では素直に認めて欲しい。
 要約するとそういう事を俺は幻太郎に伝え、そして返ってきたのは予想通りの答えだった。
 盆を右手に抱えた幻太郎の素っ気ない肯定は、俺の腹にずしりと重く伸しかかった。打ち明けてくれた幻太郎からの信頼感が嬉しかったし、ダチとしてそれに応えてやりてえと思う。それは違えようのない本音だったが、それなのに、胸の奥底にずっと濃い霧のようなものが漂っていた。俺は幻太郎の幸せをダチとして応援するだけなのに、そのことを考えると何故か気が重い。
 正体不明の躊躇いを振り払うように、「応援すっからな!」と宣言して幻太郎の手をぎゅっと握ると、幻太郎は何が気に障ったのかその手を即座に振り払い、そして俯いた。
「すみませんが、今日はもう帰ってください」
「え、でも、」
「お願いだから。――仕事が詰まってて、余裕がないんです」
 宿が無いなら貸してあげますからと財布を開こうとした手を慌てて押さえて、俺は素直に退散することにした。応援すると宣言したものの、具体的に何をすれば幻太郎のためになるか解らなかったので今後の話をしたかったが、思い詰めたように青い顔をしている姿を目の前にすると何も言えなくなる。
「急に押しかけて悪かったな」と一言詫びて退室しようとすると、幻太郎が物言いたげな顔で俺を見ていた。
 玄関の引き戸に手を掛けたまま、思わず見つめ返すと、躊躇いがちな問いが投げられた。
「帝統は、どう思いましたか?」
「どうって、何が?」
「小生が乱数を好きだと聞いて、貴方はどう思ったのかなって……」
 浴衣の前で交差された幻太郎の指が、気まずそうに擦り合わされていた。思いがけない問いに俺は口を開くが、答える言葉が無いことに気付いて固まる。どう、って聞かれても。そういや考えてなかったわ。
 だって相手が乱数なら、俺は認めるしかない。他の有象無象の男なら欠点を探して反対するのに、乱数が好きだと言われたら――諦めるしかねえだろうよ。
「お前らは俺の大事なダチだよ」
 自分自身に言い聞かせるようにきっぱり答えると、幻太郎の肩が微かに震えた。
「心配しなくても、偏見とか持たねえし。俺にできることは手伝うつもりだからさ。だから安心して、どーんと乱数にぶつかっていけよ。なっ」
 明るい声で肩を叩いてやると、幻太郎が小さく呟く。「貴方はそういう人ですよね」って、多分褒めてくれたんだろうな。お前の中で俺が結構高い評価を得ているのは何となく察していて、ダチとして信頼されているのなら、俺はそれに応えたいと思う。
「上手くいくといいな」
「さあ、どうでしょう。乱数はあの通り引く手数多ですからね」
 まるで他人事のように素っ気なく返され、その内容が的を射ていたので俺は言葉に詰まってしまう。乱数が幻太郎を、そういう感情で見ていないことは明らかだった。俺の直感がそう告げているし、幻太郎本人も多分自覚しているんだろう。でも乱数が俺達を大事に思っているのは間違いないし、絆される可能性がゼロとは言い切れない。
 あまり根拠の無い言葉だと思いつつ、「言ってみなきゃわかんねーだろ。好きなら頑張れよ!」と励ます気持ちで肩を叩くと。
「……上手くいかなかったら、その時は慰めてくださいね」
 肩に乗せた手に、ふいに幻太郎が頬を寄せてきた。その、突然の甘えた仕草に、俺の心臓がドッと音を立てて発熱する。顔が赤くなったのを自覚して俺は動揺した。
 無責任に吐き出した「上手くいくといいな」という言葉が本心でない事を、俺は自分でも、この瞬間まで気付いていなかった。二人のことを応援する俺が、想像してもうまく思い描けなくて、今まで幻太郎にかけてきた励ましの言葉が頭の中で虚しく空回る。
 俺は昨日まで、ダチの恋愛ってどう応援すんのが正しいんだろうなって迷っていた。幻太郎に相応しい人間じゃねえと認められないと喚きながら、駄目な理由を一つずつ探しては候補になりそうな男を潰してきたし、この人ならと思えた理鶯さんを勧めようとして、気乗りしない自分がいることに気付いた。幻太郎が、ダチとも家族とも違う唯一無二の情を向ける人間がいることに嫌悪を覚えて、諦めさせようと駄々をこねたりもした。
 ――幻太郎が大事だから、幸せになって欲しいと思う。乱数だって勿論そうだ。
 ダチのために俺は背中を押すべきだった。乱数を見ている幻太郎を俺の方に振り向かせたいと思う、訳のわからない気の迷いは今すぐ捨てて、頬を寄せる幻太郎を抱きしめそうになる前にこの家を出て行かなければならない。
 重くて汚い、とても友情とは呼べない感情が心の中に巣くっていることに焦りながら、俺の足は玄関の前で固まって動かないままだった。


 *


「理鶯さ〜ん、今日は大物っすよ!」
 茂みを掻き分け野営地に戻った俺は、手に提げた獲物を意気揚々と掲げた。振り向いた顔が、ヨコハマの森に差す西日を受けながら穏やかに笑う。
「リエーヴルか。有栖川は罠を掛けるのが上手くなったな」
「リエ……? え、これウサギじゃないんすか?」
「野ウサギだ。調理のし甲斐があるな」
 罠を細工していたアーミーナイフを仕舞い、理鶯さんが立ち上がる。俺からリエなんとかを受け取る表情は僅かに緩んでいて、楽しそうだった。
 調理用のナイフを取り出す理鶯さんの傍らで、俺は火を焚く。無言の内に役割分担が出来ているのは、俺がここで世話になっている日数の長さを物語っていた。そういや今日って何日なんだろ。森の中で生活しているとその辺の感覚が鈍るし、スマホは触る気分になれず随分放置している。

「そう言えば、有栖川から貰ったこの宝石なのだが」
 メシの後で理鶯さんが不意に差し出してきたのは、見覚えのある一粒のルビーだった。暫く世話になる御礼と、以前借りた金の返済を兼ねて渡したものだ。
「あー、それ。売れそうでした?」
「左馬刻に鑑定を頼んだが、随分高価なもので驚いた。俺はこういったものの価値に疎くて、そのまま受け取ってしまってすまない。これは貴殿に返そう」
 頭を下げて赤い宝石を差し出した理鶯さんに、俺は慌てた。
「いーっすよそんくらい。世話になってるし、お金返すのも遅くなったんで俺の気持ちっす!」
「その気持ちだけ頂こう。有栖川がいて俺も助かっている。世話になっているのはお互い様だ」
 誠実な言葉に、俺は少し気まずくなった。言うか言うまいか迷ったのは一瞬で、正直に吐露する。
「……実はそれ、理鶯さんの前に別のヤツに渡そうとしたんですよ。でも要らねえって突っ返されて。俺がそのまま持ってるのはモヤモヤするんで、貰ってくれると助かるんですよね」
「成る程。……そうか、それは、」
 口元に指を当てた理鶯さんは珍しく狼狽えた様子だった。
「…………有栖川は立派なソルジャーだ。貴殿の良さに気付く人間がいずれ現れるだろう」
「はあ……?」
 あれ、何か俺変な事言ったか? と理鶯さんの同情に満ちた目線に違和感を覚えた時だった。夜空を裂くような悲鳴が背後から聞こえ、俺達は瞬時に立ち上がった。先に駆け出した理鶯さんの後を追って慌てて走り出す。一瞬だったが聞き覚えのある、この声は。

「もおお、サイアク! 何でこんなところにいるんだよ!」
「乱数……?!」
 藪を掻き分けると目の前には雑木林、その中の一本の太い幹に、網に包まれて釣り下がっていたのは案の定乱数だった。
 今朝仕掛けたばかりの罠に、予想外の獲物が収まっている光景に固まっていると、
「帝統のバカ! ボケッとしてないで、早く降ろして!」
 勢い良く罵声が飛んできて俺は振り返った。無言で頷いた理鶯さんからナイフを受け取り、罠を外すと、器用に着地した乱数の足元でべちゃりと泥の跳ねる音がした。ランタンで照らすと、派手なマウンテンパーカーが汚れているのが見える。それから、不機嫌を隠さない乱数の顔も。
「迎えに来たよ、帝統」
「お…………おう」
 有無を言わせない圧に押されて思わず頷く。乱数の顔を見るのも声を聞くのも、随分久し振りで、俺はずっと目を背けていたシブヤに戻る決意を生唾と共にごくりと嚥下した。


 夏の森は生き物が多く、夜でも様々な音がする。
 獣道を戻るには時間が遅いからと、理鶯さんが設えてくれた予備のパップテントからはぼそぼそと言い合う俺達の声が漏れていた。数メートル先に張られた理鶯さんのソロテントは、多分就寝したのか物音一つなく静まり返っている。が、俺と乱数のテントには明々とランタンが灯されていて、その明かりの下で俺は、ぷつりと音信不通になってシブヤから居なくなったことを懇々と説教され続けていた。
「大変だったんだからね。一郎に捜索を頼んだら左馬刻が情報持ってるらしいーって行き着いてさ、案の定大喧嘩。仲裁するの大変だったし、左馬刻に聞いたらこんな森の中に居るって言われるし」
「いやー、悪ィ悪ィ。賭場でやらかしちまってさー、理鶯さんに匿って貰ってたんだわ」
 これは嘘ではない。幻太郎と乱数のいるシブヤに居辛くなってヨコハマで賭けていたら、ルビーのチップを持ち逃げした時の連中に出会して賭場を追われ、空腹で倒れていたところを拾って貰ったのは事実だ。
「どうせそのパターンだろうから放っておこうかなーって思ったけどさぁ。……幻太郎が可哀想なくらい落ち込んでたから、迎えに来ちゃったよ」
 幻太郎の名に、俺の耳が僅かに反応した。俺の居なくなったシブヤで二人はどんな時間を過ごしたんだろうか。幻太郎は乱数に、自分の気持ちを伝えたのだろうか。
 想像すると胸が痛んで、ダチの応援が素直に出来ない自分の薄情さを恥じる気持ちになった。
「面白がって放置してたボクも悪かったけどさ。まさか二人がそんなにこじれるなんて思わないじゃん?!」
 相槌を求められ、俺は内心何が? と首を傾げたが、表面上はそうだな、と適当な肯定で答えた。素直に「何の話だ?」と尋ねたらキレられる気がして、俺は俺の直感に従う。
「そもそも幻太郎に何であんな嘘言ったのさ。ヤキモチの当て付けにしてはちょっと酷いと思うよ」
 責めるような目で問う乱数の顔は、珍しく真剣だった。酷い、という言葉に俺は思わず目を丸くする。心当たりが全くなかったし、俺が幻太郎に酷いことをするなんて有り得なかった。だって幻太郎ほど、俺の険悪な一面を知らないヤツはいないと思う。俺はいつだってあいつの前では、腹を出した無防備な猫のように、穏和な人間になれていた。
「――言いたくないならボクには言わなくて良いけど。幻太郎にはちゃんと説明して、謝っておくんだよ」
 言葉に詰まった俺に溜め息を一つ吐いて、乱数の手がランタンに伸びた。ぱちりとスイッチが押され、途端にテントは暗闇に包まれる。おやすみと声がした後静かな寝息が耳に届いた。
 詮索しない大人びた乱数と、逃げるようにこんな場所で過ごしている俺を比較するとますます気が滅入るのは何故だろう。
 明日のシブヤへの帰路のことは、あまり考えたくなかった。


 *


「おや、まあ……」
 気まずさを抱えながら久し振りにインターホンを押すと、僅かに息を呑んだものの、普段と変わらない態度で幻太郎は出迎えてくれた。
「カニ漁はいかがでした?」
「出稼ぎに行ったんじゃねーし、カニの漁期は十一月からだからまだ時期じゃねえだろ」
「いやそんな詳細知りませんて」
 幻太郎の目元がふっと和らいで、玄関から客間へと踵を返す。上がって良いという無言の肯定を受け取り、俺は上がり框を跨いだ。
 廊下を歩くと、手に提げていた瓶がぶつかり合い音を立てる。乱数に押し付けられた手土産は、結構値の張る酒だった。幻太郎と一杯やって和解してこいと詰め寄られ、勢いに押されるまま訪ねて来てしまったが良かったんだろうか。夕飯時とは言え、締切が迫ってくると幻太郎は昼夜見境無く机に齧り付いている。インターホンを無視せず出迎えたなら、まあ大丈夫なんだろうな、と推測して俺は客間に腰を下ろした。
 茶を入れに台所へ向かった幻太郎の背中を見送って、これが乱数からの差し入れだと告げたら喜ぶんだろうかと想像し、気が重くなった。俺を連れ戻しに来た乱数と、いつもと変わらない様子の幻太郎からは、二人がどうこうなったとは思えなかったが、俺がいない間に二人で過ごす機会が増えれば変わるものもあっただろう。
 ――幻太郎、いつ告白すんのかな。
 遠くない内に訪れるであろう光景を思い描くのは容易だったが、その時俺がどう振舞っているのかはサッパリ想像できなかった。今の俺は、自分の立ち位置と取るべき行動がすっかり解らなくなっている。
 溜め息を吐きたい気持ちを持て余していると、台所から派手な音がして俺は立ち上がった。
「どうした、幻太郎」
 引き戸から覗くと、床にかがんでいる幻太郎と目が合った。手元を見ると湯呑が転がっていて、零れたお茶らしき液体が床を濡らしている。思わず駆け寄り、俺は幻太郎の手を取った。
「大丈夫か? 火傷してねえ?」
 確認しようと指に触れると、幻太郎が慌てた様子で手を引っ込める。
「平気ですから」
「でも」
「考え事してて、指にかかった弾みで落としただけで。熱湯じゃないし大丈夫ですよ」
 確かに大したことはなさそうだったが、俺はシンクのレバーを押して吐水させ、幻太郎の手を流水に曝した。
「片付けとくから、お前は冷やしておけよ」
「……すみません」
「いいけど、あんまボーッとすんなよ」
 心配するだろうが、と内心で付け足して忠告すると、俯いた幻太郎がだって、と子供のような声を出す。
「……だって、久し振りに会えたので」
 ぼそぼそと呟く声がよく聞こえなくて、俺は耳を寄せた。顔が近付いた瞬間幻太郎の態度がまた強張って、「邪魔だからあっち行っててください」と腕を突っぱねられる。何か気に障ったんだろうかと引っ掛かったが、大人しく床の片付けを優先することにした。



 酒の礼にと、夕飯を提案してきたのは幻太郎の方だった。
 二人で囲んだ食卓は意外にも和やかに過ぎていき、俺はご無沙汰だった幻太郎の食事に箸が止まらないし、幻太郎は機嫌よくグラスを傾けてはボトルの水位をどんどん下げていった。飲みすぎじゃねえのと窘めたのは最初だけで、やたらと酒を勧める幻太郎に釣られて俺もグラスを重ねてしまう。酒を空にする度、幻太郎が嬉しそうに笑った。その顔を見て俺は――やっぱいいな、って口元を緩めた。
 幻太郎が笑うと俺の胸の奥は温かく脈動する。こいつにはずっとこういう顔をしていて欲しかった。だからやっぱり、乱数と上手くいくのが最善なんだろう。そう痛感するとますます酒に手が伸びて、頭が霞んできたような、と思った頃だっただろうか。
「だいす、おきてますかあ?」
 舌っ足らずな声と一緒に、幻太郎の手が俺の肩を揺すった。いつの間にか食卓に突っ伏していた俺は、返事しねえと、と思う気持ちとは裏腹に思考がぐずぐずで言葉が出てこない。
「あれ、ねちゃいました……?」
 再度強めに身体を揺すられ、顔が仰向けになる。天井の照明が目に入って眩しさに僅かに意識が覚醒したが、やはり酔いには勝てない。俺の頬をぺちぺちと叩いた幻太郎は、返事がないことを確認して何故か悦に入っていた。
「だいす、わたし聞きたいことがあるんです」
「おー……なに……」
 寝惚けた声が喉を通って勝手に音になる。あれ、俺いつの間に返事したんだとぼんやり疑う傍らで、――帝統は寝惚けたり酔ったりすると、こっちの質問にぺらぺら答えてくれるよねー!――と愉快そうに笑う、いつか聞いた乱数の言葉が頭を過ぎった。
「小生がらむだのこと好きって聞いて、あなたほんとうは、どうおもいました?」
「ヤダ」
 するりと零れた否定は俺の意思で出たものではなかったが、内容には大いに同意した。幻太郎の声がくすくすと笑みを含んで問いを続ける。
「小生、大好きなひとにすきって伝えてもいいですか?」
「ヤダ」
 幻太郎が好意を向ければ、相手が乱数だろうと他の有象無象だろうと、無碍にする人間が居る筈がなかった。そんな切り札を切って欲しくない。俺は誰にも、幻太郎を取られたくないと思っている。
「それじゃあ、小生の初恋はみのりそうにありませんねえ……」
「それはぜってーヤダ」
 相反した答えに俺の頭は自分でも混乱していた。幻太郎に好きなヤツが居んのはマジで嫌って気持ちと、でも笑っていて欲しいという矛盾した気持ちが両立している。共存すんなよ、白黒つけろやって思うのに、どちらも一歩も譲らないせいで、酔いと熟考が相まって頭が痛い。眉を顰めて唸っていると、幻太郎の手が伸びて俺の頭を優しく包み、誘われた先は幻太郎の膝の上だった。
 子供をあやすような無垢な手つきに撫でられ、頭痛が引いていく。
「全部ヤダって、だいすはワガママですねえ」
 指摘された通り俺は身勝手で身の程知らずだった。口を挟む権利なんて無いのに、自分の気持ちのままに幻太郎の邪魔をしている。
 でも何でだろうな。俺を見下ろす幻太郎の目はうっとり細められていて、俺は落ち着かない気持ちになった。
「まあいいです。小生だって、あなたの言うことをおとなしく聞くつもりはありませんから」
 撫でる手がいっそう優しさを増し、幻太郎は俺に構わず言葉を続ける。
「らむだはうれしそうでした。だいすの話をする時のおれは凄くいいかおしてるって、たくさんからかわれたけど、おうえんしてるよって手をにぎって励ましてくれました。だから、」
 一息置いて、幻太郎の声が僅かに上擦った。
「……嫌だったら、ごめんね」

「帝統がすきです」

 言葉と同時に落ちてきたのは幻太郎の唇だった。
 え、と固まった俺から幻太郎が気まずそうに目を逸らす。屈んでいた背が伸びて唇が遠のいていくのを――俺の本能が許さなかった。
 離れていった感触を追いかけて、噛みつくようにキスをした。吐息の漏れる音がして柔らかな唇が微かに開く。挿し込んだ舌先に暖かい粘膜が触れて、幻太郎の潤んだ目に見つめられ、俺の意識と理性はそこで途切れた。




 霞んだ意識の中で夢を見た。
 一つの布団に、素っ裸の俺と幻太郎が寝転がっている。
 当然のように幻太郎の背中に回されていた自分の腕に驚いて慌てて外すと、弾みで幻太郎の目がゆるゆると開かれる。この状況を見られたら終わる、と途方に暮れている俺と幻太郎の目が合って――目を覚ました幻太郎が嬉しそうに笑って俺にすり寄ってきたから。それがあんまりにも幸せそうな、初めて見る顔だったから。お前が俺で良いなら初めから何も問題なかったんだなって、俺はようやく、無意識に蓋をしていた好意を幻太郎に明け渡した。