[ 深雪地帯 ]
幻太郎が泣いている。見たことのない顔で、体面も取り繕わず、ぼろぼろに涙を零しながら、それでもヒプノシスマイクは起動した。
そうだよなァ。お前はそこで、そっちを選ぶんだ。泣いて縋って俺に許しを乞うのなら、俺だってこんな真似はきっとしなかった。お前が、泣きながらも俺にヒプノシスマイクを向けるから、俺はいつだって悲しかったんだ。
こんなに好きなのに、気持ちが全て裏返る。本音では俺も泣いていたが、幻太郎の瞳に映る俺は、薄ら笑いを浮かべながらヒプノシススピーカーを携えていた。
年の瀬も迫った、寒い夜だった。財布の中身はそこそこに潤っていたが、俺は幻太郎に会うためにシブヤに不似合いな、古い一軒家へ向かっていた。
宿を借りる必要が無いのに、わざと素寒貧を装って幻太郎の家に泊まる回数は日に日に増えている。理由はもう自覚していて、ギャンブルをしていない全ての時間、俺は幻太郎に会いたいと思うようになっていた。
会って何かを求める訳じゃない。同じテーブルでメシを食ったり、競馬のテレビ中継に熱くなる姿を呆れられたり、荷物持ちを口実に足りない日用品を一緒に調達に行ったり、ただ何気ない時間が好きで、楽しかった。
そういうささやかな気持ちにヒビが入り始めたのは、段々幻太郎と距離が縮まって、アイツが自分の話を俺に漏らすようになった頃だった。
最初は喜んだ。幻太郎が心を開いた事が単純に嬉しくて、嘘か本当か判らない話に、それでも俺なりに誠実に相槌を打っていた。――幻太郎のたった一人の友人の話が、出るまでは。
勝手知ったる幻太郎の家に、インターホンも鳴らさず泥棒のように忍び込んだのは、日付も変わった遅い時間だったからだ。どうしようもない時は居間を好きに使っていいと、合い鍵を渡された時に言われていた。俺はその言葉を都合の好いように解釈して、時々こうやって邪魔している。
真冬の廊下は歩いているだけで身体の芯まで冷えるが、寝ている幻太郎を起こすのは忍びなかったので、風呂は借りずにそのまま寝ようと思っていた。音を立てないようそっと開いた襖の先に、先客を見付けるまでは。
俺がいつも使っている布団に知らない男が寝ていた。そんな事は初めてで、思わず目を瞬いた。それから大股で近寄って顔を覗き込んだ瞬間、俺は息を呑んだ。
(――――コイツだ)
直感がそう囁いた。俺は自分の勘を疑わない。幻太郎が口にした特徴と一致する、あいつが人生で一番大事にしているものが俺の目の前に横たわっている。
見なかった振りができれば良かったんだろうが、生憎俺はそういう器用さを持ち合わせていなかった。そして、寛容さも。
名前も知らない男の、規則正しく上下する胸を見つめていると違和感を覚えた。まるで生きてる人間みてえだ、と思う。そんなのおかしくねえか。コイツはもっと、真っ白い病室で、たくさんの機械に囲まれて管に繋がれて、そういう、いつ幻太郎を置いていってもおかしくない存在なんじゃねえの。
俺の定位置にすんなりと収まっているなんて、ルール違反だ。
そう思った瞬間、身体が自然と動いていた。ゆっくりと伸ばした俺の腕は、寝ている男の首に絡まる。真綿で首を絞めるような緩やかさで、けれど腕に血管が浮き出るくらいの力を注いだ。穏やかな男の寝息はすぐに息苦しい音に変わる。腕を振り払おうとする男の抵抗は、病室のベッドからまともに身体も動かせない病人そのもので、何の力も無かった。こんなひ弱な存在が何故幻太郎を縛れるのかわからない。
苛立つままに更に力を込めた瞬間、もの凄い勢いで襖が開いて幻太郎と目が合った。男に跨がって首を絞めている俺を認識した幻太郎は、予想していた俺でさえ思わず引くような悲鳴を上げて、飛んできた。
ヒプノシススピーカーを起動したのは、どっちが先だったっけ。
「――やっぱ、綺麗なんだよなあ、お前のリリック」
血反吐を吐きながら、ふらつく身体で俺は笑った。幻太郎のリリックは俺の肉体にダメージを与えたけれど、奏でられた言葉に俺を責める内容は一切無い。
夢野幻太郎という男の第一印象はリリックの綺麗さだった。思えばあれは、病人のことを想って紡がれた言葉なんだっけ。
大きすぎる友愛を男へ注ぐ幻太郎を、丸ごと受け入れてやれれば、もっと違っていたんだろうけど、俺はそういう人間にはなれない。
震える足を叱咤して、マイクを握る手に力を込めた。次は俺の番。なのに頭がぼうっと霞んで、何の言葉も思い浮かばなかった。
もう何度リリックを応酬したかわからない。ダメージは互いの衣服に留まらず、二人揃って満身創痍だった。
俺に幻太郎を殺すつもりなんて勿論無い。けれど、背中に庇った男を常に労りながら、戦闘中だというのに俺に視線の向かない幻太郎に、暗い感情が芽生えるのを感じていた。
何でだろうな。お前の心はどう足掻いても手に入らない。ギャンブルで得られるのなら俺は、命だって人生だって、何だって賭けて良かったのに。
「幻太郎」
どんなリリックなら幻太郎を揺さぶれるのか、わからない。絞り出すように名前を呼んだけれど、その後の言葉は出てこなかった。
ああ、ラップバトルじゃなくてギャンブルがしてえなぁ。勝者には夢野幻太郎が与えられるヤツ。それを俺の、人生最後のギャンブルにしていい。
朦朧とする意識の中で、必死にリリックを掻き集めようとして、
「――大好き」
不意に口から漏れた言葉を最後に、俺の意識はそこで途切れた。
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「親の心〜」で、もし寝ていたのが青年だったらバージョンの話。短編の中では群を抜いてこの話がお気に入りです。帝幻+青が大好き…!